第10話 新規定着機の引継ぎ

   ひょうたんから駒 / 引継ぎ会議

   

 2000年3月30日(木)午前中に 川緑は研究所で 佐賀事業部への新規定着機の引継ぎのための資料づくりを行っていた。


 新規定着機の引継ぎは 研究所と佐賀事業部の双方の責任者等の引継ぎ書への押印により完了するものであり 双方間で取り交わされた研究委託契約の完了を示すものであった。

 

 双方の責任者等の引継ぎ書への押印の可否は 佐賀事業部から研究所への研究委託契約でコミットされた研究成果が 契約納期内に得られたかどうかによって判断された。                     



 川緑は 引継ぎ書のファイルに ①研究委託契約書 ②開発経過 ③技術資料 ④納入仕様書 ⑤特許 の5つの資料を綴じていた。


 ①研究委託契約書には カラーLBP用の現行定着機の現状の課題と 事業部からの新規定着機開発委託の内容と それを受けての研究所の研究開発活動の目標と納期が記載されていた。


 ②開発経過には 開発の背景や開発内容が時系列で示されており また 本研究に発生した費用と研究委託費の収支が記載されていた。


 ③技術資料には 液状フッ素ゴム開発と ヒートロール開発と 離形オイル開発と 新規定着機開発の項目について それぞれの設計思想と開発方針と開発結果がまとめられていた。


 ④納入仕様書には 和平化成社製液状フッ素ゴムの納入仕様書と 月西工業社製ヒートロールの納入仕様書と 新野化学社製離型オイルの納入仕様書が添付されていた。


 ⑤特許には 液状フッ素ゴムやヒートロールや離型オイルに関する特許調査結果と 近日出願予定の明細書の概要が記載されていた。


 引継ぎ書のそれぞれの資料内容を確認した川緑は それらをキングファイルに綴じて 表紙の研究委託契約書の作成者欄に押印するとファイルを閉じた。


 川緑は 引継ぎ書を持って 上司の野島リーダーと企画の落合リーダーの検印をもらい、経理部と知財部を訪ねて それぞれの責任者等の検印をもらい、最後に研究所の浅井所長に押印を依頼した。


 浅井所長は「よくやったね。君のお陰で 事業部も研究所の存在を見直してくれるだろう。」と言った。



 この日の午後2時に 川緑は 佐賀事業部へ移動して 新規定着機の引継ぎ会議に出席した。


 会議には 佐賀事業部 技術部の小幡部長と機構技術部の今坂グループリーダーと商品企画の日野リーダー等が参加した。


 川緑は 引継ぎ書のキングファイルをテーブルの上に置き 別途用意した報告資料を参加者に配ると報告を始めた。

川緑は 研究委託契約書に記載された委託内容と 開発成果とを比較する形で報告を行った。


 報告が終わると 川緑は 引き継ぎ書を今坂グループリーダーへ手渡して「私からの報告は以上です。引継ぎ書の内容をご検討頂き 事業部サイドの皆さんの検印をお願いします。」と言った。



 引継ぎ書を受け取った今坂グループリーダーは「新規定着機の引継ぎには合意しますが それには2つの条件があります。」と言った。


 彼は「今年の6月に 国内向けのカラーLBPの出荷を予定しています。出荷台数は少ないものですが この機種に新規定着機を搭載したいと考えています。」と言った。


 彼は「引継ぎの条件の1つ目は カラーLBPの出荷前に 新規定着機に関する特許を出願してもらうことです。」と言った。


 彼がそう言うのは もし特許出願前に 新規定着機が世に出てしまうと その技術が公知のものとなり 知的財産権を取得することができなくなってしまうからであった。 


 彼は「引継ぎ条件の2つ目は もし新規定着機の量産時にトラブルが発生した場合には 研究所に対応してもらうことです。」と言った。


 川緑は「お話はよく分りました。新規定着機の明細書の作成は直ぐに取り掛かります。新規定着機のトラブルがあれば 直ぐに対応することを約束します。」と答えた。



 川緑の対応を受けて 事業部サイドで新規定着機の引継ぎに合意がなされると 少し表情を緩めた今坂グループリーダーは「今回の研究委託の件は ひょうたんから駒でした。」と言った。


 彼の言葉に 川緑は 新規定着機の研究委託は 会社のトップの指示に従っただけのものであり 事業部は 新規定着機の開発について 研究所に成果を期待していなかったことが読み取れた。 


 同時に 川緑は 委託業務に着手した時に 事業部のメンバー等の川緑への対応が 好意的でなかったことについて 彼等は 新規定着機の開発は 研究所には無理なことであり 無理なことのために協力することを拒んでいたのだと分った。


 現行定着機は カラーLBPのOEM元のエンジニクス社で開発されたものであり 開発には 同社の開発部門の数十人の体制で当たっていた。


 一方 研究所への研究委託では 定着機開発の経験のない川緑一人が開発を担当することになったので 事業部の関係者等が 現行品に勝る定着機はできないと予想したのは当然だと思われた。


 そう思うと 川緑は 「ひょうたんから駒」の発言は 彼等の素直なほめ言葉だろうと受け止めて 「新規定着機の量産の件は よろしくお願いします。」と言って会議室を出た。



 研究所へ戻る電車の中で 川緑は 今回の研究委託業務を完遂できた要因を振り返った。


 要因の一番目は 新規定着機の設計思想が正しかったことだと思われた。


 彼の設計思想は 定着機を構成する全ての樹脂材料に 強靭さと柔軟性を発揮させるものであり そのために 彼の硬化の理論を用いていた。


 要因の二番目は 設計思想を具体化する時に 開発の方向が正しいものかどうかを検証するツールを開発できたことだと思われた。


 彼は 定着時の熱の流れを求めるシミュレーションソフトと ヒートロールの表面エネンルギーと離型オイルの表面張力をマッチングさせるシミュレーションソフトをツールとして開発していた。 


 それらの開発ツールは 新規定着機の開発の方向を示し また 元もとの設計思想が正しいかったことも示唆していた。



   開発の終わりに / 関係者との親交


 3月31日(金)午前9時に 研究所の居室にいた川緑は 知的財産部の谷本主任技師に電話を掛けて 新規定着機の特許出願のための事前の打ち合わせを依頼した。


 この日の午後2時に 谷本主任技師は 川緑を訪ねて 研究所へやってきた。


 40歳くらい 中背、細身、面長で黒縁の眼鏡を掛けた主任技師は 川緑の転職と同じ頃に 日菱電機社から 転職してきていた。


 彼は「川緑さん 新規定着機の量産の話は聞きましたよ。しっかり権利化しましょうね。」と言った。


 自社では 明細書の作成は 基本的に 開発担当者が行う決まりになっていたが 重要な案件や急ぎの案件については 知的財産部の協力を得る事ができた。



 4月24日(月)午後1時に 川緑は 東京の神田にある 和平化成社の事務所を訪れた。


 事務所の窓口で 記帳し 2階の会議室に入ると 国本技術部長は 先に来ていた月西工業社の豊岡営業課長と話をしていた。


 2人が振り向くと 川緑は「こんにちは。今日は お集まり頂きありがとうございます。」と言った。


 この日の会議は 川緑の依頼により召集されたものであり 佐賀事業部での新規定着機の量産に対応するための協力依頼と具体的なスケジュールを取り決めるものであった。


 これまで3社は 新規定着機用の部材の試作を繰り返し行っていたので 最終の部材についても その製造仕様と供給体制は 問題なく進められることが確認された。



 会議が終わると 川緑は「国本部長に ぜひ 伺いたい事があります。」と言った。


 「何でしょう?」と答えた部長に 川緑は「以前 御社の液状フッ素ゴムの組成を教えて下さいとお願いした時に 配合表をFAXで送って頂きましたね。どうしてそうされたのですか?」と聞いた。


 部長は「ああ あれですか。そんなことを依頼されたのは初めてでした。最終的には 社長の判断でしたが 川緑さんの熱意を感じたからですよ。」と言った。


 「そうでしたか。ありがとうございました。お陰で開発を早める事ができました。今後もよろしくお願いします。」と言うと 部長は「こちらこそ いろいろ勉強させて頂きありがとうございました。」と言った。



 5月24日(水)午後7時に 川緑は 研究所の野島チームリーダーと 同じチームのメンバー3人と 西鉄大橋駅の近くの居酒屋に入った。


 この日の飲み会は 川緑の呼びかけにより 彼の仕事の報奨金を資金に 彼の仕事に協力してくれたメンバーの3人とチームリーダーへのお礼のために開催したものであった。


 会社では 毎年4月の終わり頃に 創業日を記念して式典が行われていた。


 式典では 前年度に会社の経営に貢献したプロジェクトは 社長やそれぞれの事業部長等から その業績を称える表彰状と金一封が手渡された。


 先月の式典では 川緑のカラーLBP用新規定着機の開発の成果が取り上げられ 研究所の所長から額に入った表彰状と金一封の目録が手渡されていた。



 「乾杯!」 「お世話になりました。」「ご馳走になります。」と言う声が上がり 飲み会の参加者等は ジョッキに注がれた生ビールを飲み始めた。


 飲み会の席では 川緑は 上司と仕事の進め方について 議論することが しばしばあった。


 その議論では 上司は 組織のマネージメントを中心とした議論を展開し 川緑は 関係者のネットワークを重視した方向を示し それらは いつも平行線に終わっていた。


 この日の議論では 仕事で実績を上げた川緑の方に勢いがあった。


 川緑は 話をしながら この会社で 技術職として やっていけるようになってきたと感じた。 

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