第9話  新規定着機の信頼性

   紙くべ / 寿命試験

   

 2000年1月6日(木)午前10時過ぎに 川緑は会社のメールバスで佐賀事業部を訪れた。 


 機構技術の居室へ行き 机についていた今坂リーダーに「今年もよろしくお願いします。」と挨拶すると 少し離れたところにいた平松氏の所へ行き 同様の挨拶を すると 2人で実験室へ移動した。


 2人は 新規定着機候補品の寿命試験を予定していたが 試験のために用意して いた8台のカラーLBPが この日に動作するのかどうかが危惧されていた。


 それは「2000年問題」と言われるものの影響が予測されていたからであった。


 カラーLBPの制御システムは 西暦でカウントされる時間の経過に連動したものであり 以前に作られたシステムでは 西暦を1999年までしか認識できないと 予想され そのために2000年になるとシステムがダウンするかもしれないと予言されていた。


 2人は 寿命試験に用いる8台のカラーLBPの電源を入れてシステムを立ち上げると それらは 悪い予想に反して 問題なく動作した。



 定着機の寿命試験は「5%ランダムパターン」を所定の定着枚数だけ印刷した後に 定着性評価の画像パターンを印刷して画像の評価を行うものであり、今回目標の6万枚を印刷するには 1か月半程の日数がかかると予測された。


 2人は それぞれ 4台のカラーLBPを担当し それぞれに登載した定着機の 寿命試験を始めた。


 500枚単位で 給紙トレイに投入する試験紙は NIP紙と呼ばれるものであり 比較的安価な紙であり その表面は少しザラザラしていた。


 彼等は 担当するカラーLBPの連続印刷の様子を観察し 印刷が止まってパネルに「給紙トレイに用紙を入れてください。」の表示がでると NIP紙を補給し 再スタートのボタンを押した。


 平松氏は 寿命試験での給紙の作業のことを まるで 釜戸に薪をくべるように 「紙くべ」と呼んだ。



 この日から連日 カラーLBPを用いた新規定着機候補品の「紙くべ」作業を行いながら 川緑は 新規定着機の候補品を1つに絞ることを考えていた。


 候補品の寿命試験が終われば 得られたデータから 定着性の良し悪しに差が生じることが予想されたが その差がどういう理由で生じたのかを裏付けるものが必要になると考えていた。


 試験結果の差異の裏づけを取ることは 同時に 当初の新規定着機の設計思想が正しかったのかどうかを検証することでもあった。


 川緑は 設計思想の正誤を検証するための3つの検討を考えていた。


1つ目は 定着時の「熱量と定着性」との関連付けであった。

2つ目は 長期連続定着時のヒートロール「表面磨耗と定着性」との関連付けであった。

3つ目は 長期定着時の離型オイルの「熱劣化と定着性」との関連付けであった。


 1つ目の「熱量と定着性」の検討は、定着時の熱の影響を評価するために ヒートロール表面からトナーが付着した紙に流れる熱量を数値化する取り組みであった。


 物質中の熱の流れは Fourier の熱拡散方程式で表され 熱流が定常状態にある時には Schmidt の図式解法を用いて解くと 式が簡略化され 物質中の温度分布が求まることが知られていた。 


 川緑は 定着前のヒートロールは温度が安定していることから 熱流が定常状態にあり ヒートロールを構成する部材の物理的特性値が分れば 定着前の内部の温度 分布が求まると考えた。


 また定着後のヒートロールの温度変化が小さいことから 同様に定着後のヒート ロール内の温度分布を推測することができると考えた。


 推測した温度は 正確なものではなくても 定着前後のヒートロールの温度変化が求まり 得られる熱流量の値と 定着性との関係を比較できると考えた。                              



 2つ目の「表面磨耗と定着性」の検討は ヒートロール表面のフッ素ゴムが 定着の繰り返しにより摩耗していく時のトナー離型性の変化を フッ素ゴム表面の定着性の変化から追うことであった。


 定着機を通過する紙は 川緑の予想以上に ヒートロール表面を磨耗させるものであり 磨耗したヒートロールは トナー離型性を低下させて オフセットを起こし やすくなると考えた。



 3つ目の「熱劣化と定着性」の検討は 定着機内の高温環境下での離型オイルの 状態変化が 定着性に及ぼす影響を把握する取り組みであった。


 離型オイル単体の耐熱性は優れたものであったが 川緑の懸念は ヒートロール表面にある離型オイルが フッ素ゴムの成分と化学反応を引き起こし変化することであった。 


 3つの取り組みを行うために 川緑は平松氏に 週に1日だけ川緑の「紙くべ」 作業の代行を依頼した。 



   設計思想の検証 / 新規定着機の寿命予測


 3月6日(月)午前10時過ぎに 川緑はメールバスで佐賀事業部を訪れた。


 川緑と機構技術の平松氏は 新規定着機の寿命試験の結果と その試験結果を裏付ける実験データとをつき合せて 候補品を1つに絞る作業を行った。


 平松氏は 6万枚の寿命試験で 1万枚毎に定着性評価を行った定着画像のデータを見直しながら「全然問題ないですね。目標をクリヤーしてます。」と言ってデータを実験台に広げた。


 新規定着機の候補品の2種類 各3台の合計6台は 寿命試験に耐えており 寿命試験後の定着性評価でも 定着画像は鮮明であり オフセットの発生も見られなかった。


 一方 2台の現行定着機は それぞれ1万枚目と2万枚目の定着性評価時に 定着画像にオフセットの多発生が見られ試験を中断していた。


 現行品の状況は市場で発生している定着不良のトラブルを再現していた。



 平松氏は 次に 寿命試験前後の定着機の定着可能温度幅である定着ウィンドウのデータを示した。


 新規定着機の候補品2種類の定着ウィンドウは 1種類は初期の平均15℃から 試験後には平均8℃に、もう1種類は初期の平均13℃から 試験後には平均と6℃になっていた。


 現行定着機2台の定着ウィンドウは初期に10℃であった。


 平松氏は 寿命試験結果について「新規定着機は 現行品より優れていますね。」と言った。



 平松氏の寿命試験結果の説明が終わると 川緑は 別途 寿命試験と平行して行った3つの検証実験のデータを提示した。


 1つ目の検証は 定着時の「熱量と定着性」との関連付けであった。


 川緑は 定着時にヒートロールから紙に流れる熱量を求めるための計算ソフトを 作成し 計算に必要な数値データを取得し 寿命試験前後のそれぞれのヒートロールの定着時の熱流量を求めていた。


 計算ソフトは ヒートロールを構成するアルミ基材とシリコーンゴム弾性体層とフッ素ゴム表層からなるモデルについて それぞれの厚みと物性値と定着条件と表裏面の温度をパラメーターとして入力することにより 定着前後の熱流量を求めるものであった。


 それぞれの材質の物性値は 密度と比熱と熱伝導率であり 川緑は これらの物性値を得るために 福岡県の工業技術センターの研究設備を利用していた。


 定着条件は ヒートロールの紙への接触面積と回転速度であり これらの関係からヒートロール表面の単位面積が単位時間に紙と接触する条件を求めていた。



 川緑は それぞれの定着機の寿命試験前の熱流量シミュレーション結果をグラフにして示した。


 グラフは 横軸に定着温度を取り 縦軸に熱流量を取ったものであり それぞれの定着機に対応するデータをプロットしたものは それぞれ直線関係を示した。


 直線は 定着温度が低いところで熱流量は小さく 温度が高いところで熱流量は大きい値を示した。

直線の傾きは 定着機により異なり その大小は定着ウィンドウの大小と関連していた。


 定着ウィンドウが15℃の候補品定着機は 直線の傾きが小さく  定着ウィンドウが10℃の現行定着機は 直線の傾きが最も大きかった。


 熱流量のシミュレーション結果は ヒートロールの構成材質と定着ウィンドウとを関連付けるものであり そのヒートロールを用いた定着機の定着性を評価する指標となるものであった。



 2つ目の検証は 長期連続定着時のヒートロール「表面磨耗と定着性」との関連付けであった。


 川緑は 寿命試験とは別に 各種液状フッ素ゴムの平板への塗布サンプルについて 磨耗試験後の簡易定着性評価を行っていた。


 磨耗試験は 福岡県の工業技術センターの研究設備を利用して行っていた。


 摩耗試験機は ターンテーブル上で試験サンプルを回転させ この上に摩耗輪と呼ばれる砥石でできた車輪を乗せて ターンテーブルの回転面に垂直に回転させることにより 試験サンプルの表面を研磨する試験機であった。


 彼は それぞれの試験サンプルについて 研磨時間を変えて摩耗試験を行い その後 簡易定着性の評価を行った。


 簡易定着性の評価結果は 球状シリカ粒子を配合した液状フッ素ゴムを用いた試験サンプルが最も良好であり 各種定着機の寿命試験結果を再現していた。


 液状フッ素ゴムへの球状微粒子の配合は ヒートロールの表面の定着時の磨耗性を低減させる効果があり 定着性を維持することが確認された。



 3つ目の検証は 長期定着時の離型オイルの「熱劣化と定着性」との関連付けであった。


 川緑は 現行の定着機の市場での定着不良のトラブルの原因は ヒートロール表面にある離型オイルとフッ素ゴムの成分との化学反応によるものではないかと考えていた。


 その考えを検証するために 川緑は 現行品と開発品のそれぞれの離型オイルと フッ素ゴムとの組み合わせについて 貯蔵試験と試験後のオイルの状態変化を調べていた。


 彼は 試験ビンにそれぞれの離型オイルとフッ素ゴムの断片を投入したサンプルについて 温度と時間を変えた貯蔵試験を行った。


 貯蔵後に彼は 試験ビンから採取した離型オイルを 社内の分析サービス部に依頼して それぞれの離型オイルの初期と貯蔵後の状態変化の分析を行った。


 分析の結果 貯蔵後の離型オイルには 特定の成分の化学変化とオイルの粘度の 上昇が見られた。

離型オイルの状態変化は 現行仕様の試験サンプルで大きいことが分かった。 


 川緑は 離型オイルの状態変化から それぞれの定着機の寿命の推定を行っていた。


 寿命推定の結果 開発品は 目標の定着枚数を超えて使用が可能であることが分かり 現行品では 定着保証枚数に届かないことが推定された。


 川緑は 現行定着機の寿命の推定結果から 現在市場で発生している定着不良トラブルは 離型オイルの劣化に起因するものと結論付けた。



 報告を受けた平松氏は「新規定着機は 現行品より優れている事が証明されましたね。」と言った。


 その言葉に川緑は「開発品の設計思想は間違っていなかった。」と実感した。

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