第6話 開発に着手

   研究委託契約更新 / 業務の中断

    

 1999年1月11日(月)午前のメールバスに乗った川緑は 10時15分頃に佐賀事業部に着いた。

この日に 事業部から研究所へ新規定着機の研究委託の可否を判断する会議が予定されていた。


 会議には佐賀事業部の商品企画の日野リーダーと畠山主任技師と 機構技術の今坂リーダーと中道技師が参加した。


 30歳後半、小柄で細身、長髪で締まった表情の今坂リーダーは 川緑に名刺を渡すと「いい報告を期待していますよ。」と言った。 



 会議の参加者等が席に着くと 川緑は彼等に 今年度の研究成果報告書と 来年度の開発計画書のコピーを一部ずつ配り 報告を始めた。


 研究成果報告書に示された成果の1つは 新規定着機開発のために川緑が考案した2つの開発ツールであった。


 ツールの1つは 定着性の簡易評価方法であり 定着機の開発時間の短縮に役立つものであった。

ツールの1つは フッ素ゴムへの離型オイルの濡れ性のシミュレーションソフトであり 定着機の開発の方向を示唆するものであった。


 また研究成果報告書に示された成果の1つは 定着性の簡易評価方法により 現行品仕様に比べて定着性が優れた液状フッ素ゴムと離型オイルの組み合わせを得たことであった。


 開発した新規定着機用の液状フッ素ゴムは 和平化成社の製品の硬化助剤を微粒子グレードに置き換えた改良品であった。


 開発した離型オイルは 新野化学社に依頼して合成されたものであり 所定の表面張力特性を有するものであった。


 離型オイルの表面張力特性は 川緑の硬化の理論を基に 液状フッ素ゴムの硬化の状態と紐付けされた表面張力特性と 離型オイルの濡れ性シミュレーションソフトを用いて算出されたものであった。


 これらの液状フッ素ゴムと離型オイルを組み合わせた系の簡易定着性の試験結果は 現行品仕様に比較して優れた定着性を示した。



 研究成果の報告が終わると 川緑は 続けて 来年度の開発計画の報告を始めた。 


 開発計画書には 開発した液状フッ素ゴムと離型オイルを用いて定着機を試作すること、 試作した定着機をカラーLBPを用いて性能評価すること、 性能評価の 結果を基に定着機の設計の最適化を行い優れた定着性と長寿命を有する新規定着機の開発が示されていた。


 報告の最後に 川緑は「今回報告しました開発ツールを用いた開発により ご希望の新規定着機を作ることは可能だと考えます。 但し 新規定着機の開発には 事業部からの人的支援が必要です。」と述べた。


 川緑の報告が終わると 事業部のメンバー等は お互いを見合わせ 暫く議論を 行った。


 議論の後 今坂リーダーは「事業部は 材料部品研究所に新規定着機の研究開発 委託を行います。開発に当たっては 機構技術から技術者を当てますのでよろしく お願いします。」と言った。


 事業部のメンバー等の会話の中に「九杉社独自の定着機」や「他社との差別化」と言った言葉があり それらの言葉に カラーLBPの新商品に独自の特徴を持たせたいという気持ちが汲み取れた。



 4月15日(木)午前8時頃に 川緑は自宅から会社へ自転車で通勤の途中にあった。


 先週に佐賀事業部と材料部品研究所との間で 今年度の新規定着機開発に関する 研究委託契約の締結が完了していて 今週から開発に着手する予定であった。


 川緑は 具体的な開発の取り組みの内容を考えながら自転車を走らせていると  会社の正門まで あと100m位の車道で後方からきた大型バイクにはねられた。 


 排気量400ccのロードスポーツタイプのバイクを運転していたのは 20歳台の男性で 前方の交差点の青信号に間に合うように加速していて 川緑に気付いていなかった。


 追突された直後に川緑は 空中で後方に一回転して道路に落ちる間に バイクが 反対車線のガードレールに追突いていくのが見えた。 


 直ぐ立ち上がろうとしたが背中に酷い痛みを感じて 川緑は歩道まで這って行くと仰向けに転がった。


 そこから川緑の記憶は途切れ途切れになった。

救急車で病院に運ばれ レントゲンを撮られ 集中治療室のベッドまで 断片的な 記憶しかなかった。


 意識が戻ったときに 彼の様子をうかがっていた医師は「第一第四腰椎の圧迫骨折と右膝に損傷があります。暫くの間 入院することになります。」と言った。


 病院に運ばれてから数日間 彼は 昼となく夜となくベッドで眠り続けた。


 

 4月21日(水)午後4時頃に材料部品研究所の野島チームリーダーが病室へやってきた。


 彼は 川緑に人事課向けの事故報告書と 所内向けの開発計画書の作成を求めて それぞれ書式を手渡しながら「やることがないだろう。 休みの間も頭を使った方がいいだろう。」 と言った。


 事故報告書は労災認定申請用であり 事故現場の地図や事故の詳細を記載するものであった。

開発計画書は今年度川緑が担当している佐賀事業部と熊本事業部の開発業務の目標と取り組み内容とスケジュール等を記載するものであった。


 1日の殆どの時間はベッドに横になり 食事の時でもベッドの傾斜角は30度までとされており その状態で書き物をするのは 川緑には辛い作業であった。



   定着機の評価 / 仕事に復帰


 6月25日(金)午前中に退院手続きを終えると 川緑は会社へ向かった。


 70日間の入院生活は 川緑の全身の筋力を低下させており 歩くと息が切れ  階段の上り下りは手すりに頼った。


 研究所の昼会に参加した川緑は 昼会の当番に断りを入れて前に出ると 研究所のメンバーへ彼が退院したことと お見舞いのお礼と 関係者に迷惑を掛けたことへのお詫びを述べた。



 この日の午後1時に 和平化成社の国本技術部長が材料部品研究所へ川緑を訪ねてやってきた。


 これまで部長とのやり取りは 電話とFAXだけであり 直接会うのは初めてであった。

国本部長は 60歳、やや小柄で細身の体形、温厚そうな表情で柔らかい話し方をする方であった。 


 部長は「川緑さんは大怪我をされたと聞きましたが 大丈夫ですか?」と聞いた。

「大丈夫です。 ご心配をおかけしました。」と言って 川緑は部長を応接室へと 案内した。


 応接室へ入った2人は 名刺交換してテーブルに着くと お互いの会社の紹介から話を始めた。


 国本技術部長彼によると 和平化成社は 東京千代田区に本社を構え 埼玉県八潮市に工場を有し 従業員7名で フッ素ゴム材料を主力の商品とする年商3億円の 企業とのことであった。


 川緑は 九杉社の会社案内を手渡し 自社の事業の概要の説明を行い その中で 佐賀事業部のカラーLBPの事業に触れ カラーLBP用定着機の説明を行った。


 本題に入り 川緑は 懸案のヒートロール用の液状フッ素ゴム開発について 現状の報告と今後の進め方についての提案を行った。


 現状報告では 和平化成社の液状フッ素ゴム改良品を用いた簡易定着試験の結果を提示した。


 試験には 微粒子硬化助剤を配合した液状フッ素ゴム改良品と 改良前の品と  比較に現行の液状フッ素ゴムを用いて行っており 川緑は それぞれのフッ素ゴム 塗装板と定着画像データを示した。


 川緑は 試験結果を示しながら 微粒子硬化助剤を配合した液状フッ素ゴム改良品の定着性が現行品と同等以上の良好な結果であったことを伝えた。


 今後の進め方では 和平化成社で試作した液状フッ素ゴムを 月西工業社でヒートロールに加工し 佐賀事業部で定着機を作製し カラーLBPに搭載して定着性を 評価するプランを提案した。 


 国本部長は 川緑のプランに「ご提案の件は了解しました。できる限りの協力をします。」と言った。


 部長の言葉に川緑は「では お願いしたいことがあります。」と言った。

川緑は 液状フッ素ゴムに配合されているカーボンの充填量の最適化を考えていた。


 カーボンはフッ素ゴム硬化物の機械的強度や熱伝導率に関わる充填材であり これを用いた定着機の定着性や画質の良し悪しに大きく影響する要素であった。


 川緑は 国本部長にカーボン充填量を変えた液状フッ素ゴムの試作を依頼し「御社の液状フッ素ゴムが弊社の新規定着機開発の肝になります。よろしくお願い致します。」と言って頭を下げた。


 部長は「良く判りました。帰りましたら 直ぐに試作に掛かります。」と言った。

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