第5話 新規定着機の設計思想

   開発の方針 / 設計思想 

   

 1998年7月21日(火)午前10時頃に 材料部品研究の企画から それぞれのプロジェクトリーダーにEメールで通達が届いた。


 通達には 今月末までに2000年計画という名の開発計画書の提出を求める文章と計画書の書式が添付されていた。


 2000年計画作成の目的は 九杉社の研究部門で開発中の商品の販売開始時期を明確化することであったが その背景には 市場のグローバル化による販売計画の 減少と経営不振があった。


 3年先までの計画は 言うは易く その作成は困難なものであり 研究所のそれ ぞれのプロジェクトリーダーは これまでに増して 競合他社の製品開発状況の調査や特許調査に追われることになった。


 特に 無機半導体デバイスや有機半導体デバイス関連の開発に関わるプロジェクトでは 先行技術を有する他社の特許回避のための対策案出しに頭を痛めていた。


 プロジェクトリーダー等は 談話室で顔を合わせると「 2000年計画の作成は プロジェクトリーダーにまる投げだよね。」とか「3年先の販売予測なんて無理でしょう。」と言った。



 川緑もまた 新規定着機の開発に関する2000年計画の作成に取り組んでいたが 新規定着機開発のために必要な樹脂材料メーカー各社の協力が得られず 計画作成に苦労していた。


 計画作成の中で 彼は これまでの液状フッ素ゴムや離型オイルを作る材料定着機を構成する材料を組み合わせた系について行った簡易定着試験結果を基に 新規定着機開発のための設計思想を立てていた。


 設計思想を立てるためには 定着機の定着性やトナー離型性を改善したり 定着寿命を延ばすための開発の方針が必要であり また 方針を具体化するための開発ツールが必要であった。


 定着機の定着性を示す指標の1つに ヒートロール表面からのトナー離型性があった。


 トナー離型性を良くするためには 表面エネルギーが小さいフッ素ゴムが有用であったが フッ素ゴム表面は離型オイルをはじくので オイルの濡れ性が悪くなり 逆にトナー離型性を悪くした。


 そこで新規定着機の開発の1つのポイントは ヒートロール表層材に用いるフッ素ゴムの表面エネルギー特性と離型オイルの表面張力特性のコントロールであると思われた。


 固液の濡れ性については 固体平面状に液滴を乗せた時の固体の表面エネルギーと界面張力と液体の表面張力との力のつり合いの関係を示した Young の式と  固液間に働く界面張力を その成分で表した拡張 Fowkes の式とで表わすのが一般的であった。


 Youngの式と 拡張Fowkesの式とを組み合わせて 固体表面に静止した液滴のぬれ角(接触角)と液体の表面張力特性と固体の表面エネルギー特性とを紐付けする式が得られた。


 表面張力特性が分っている水と液体パラフィンを用いて フッ素ゴムへの接触角を求めることにより 得られた式から フッ素ゴムの表面エネルギー特性を求めることが出来た。 


 液体の表面張力は 分散項と極性項との和で与えられ 分散項は液体を構成する分子同士の分子間力によって決まる値であり 極性項は液体を構成する分子の極性によって決まる値であった。 

求められたフッ素ゴムの表面エネルギーも また分散項と極性項との和で示された。



 川緑は このような関係式を基に 任意の表面エネルギー特性を持つ個体表面への任意の表面張力特性を持つ液体の濡れ性をシミュレーションするソフトの作成を計画した。


 彼は 先に作成した硬化の理論を適用した液状フッ素ゴムの乾燥条件と硬化状態をシミュレーションソフトと 今回の濡れ性のシミュレーションソフトを組み合わせたソフトの作成も計画した。


 川緑は これらのシミュレーションソフトを開発ツールとした新規定着機開発の設計思想をまとめて2000年計画書を作成することにした。



   新規定着機 / 材料メーカーの協力


  7月21日(火)午後4時頃に 川緑が2000年計画書をまとめていると 近くにいた研究員が外線電話を取り「川緑さん 日照ガラス社さんから電話です。」と言った。


 昨年末以来の先方からの電話を奇妙に感じながら「お世話になります。川緑です。」と電話に出た。


 日照ガラス社の営業担当者は「お問い合わせ頂いておりました液状フッ素ゴムの件につきましては 私どもの関連会社の 和平化成社へお問い合わせ頂きましたら対応できるかと存じます。」と言った。


 お礼を言って電話を切ると 川緑は 直ぐに 教えてもらった和平化成社の連絡先へ電話を掛けた。


 「はじめまして。 私 九杉電気社の川緑と申します。お世話になります。御社でお取り扱いの液状フッ素ゴム材料につきまして伺いたく お電話差し上げています。」と言った。 


 「はじめまして。私 営業の小倉と申します。お電話頂きありがとうございます。」と言って電話を代わった彼は 九杉社から問い合わせがあることを日照ガラス社から聞いていたことと 和平化成社が取り扱っている液状フッ素ゴム材料の技術資料を送ることを約束した。


 

 和平化成社と電話の後 間もなく キンダイ工業社の営業担当の友枝課長から川緑に電話があった。 


 彼は「私どもで取り扱っております液状フッ素ゴム標準品をお送りしますので ご評価をお願いします。」 と言った。


 彼の話を聞きながら川緑は 以前に同社へサンプル依頼した時に「取引のある加工メーカー以外 へのサンプル提出は実績がない。」との理由で断られていたことを思い出した。


 彼の対応の変化について「何かあったんですか。」と聞くと 課長は「最近 弊社の方針がちょっと変わりまして。」と答えた。


 更に その後 新野化学社福岡営業所の西森課長からも電話連絡があり「お尋ねのありました離型オイルの件につきまして 一度お伺いしたいのですが。」と言った。



 川緑は2000年計画書をまとめながら 樹脂材料メーカー各社が揃って九杉社に協力的になった理由を考えていた。


 おそらく 彼等も2000年計画の様な販売計画の作成を求められていて 市場のグローバル化に伴う販売額の落ち込みの対策として 新規顧客の獲得を充填項目とした計画を立てたのではないか またその計画に従って活動を始めたのではないかと 推測した。


 推測の当たり外れは兎も角 川緑は 仕事がやりやすくなってきたと感じた。



 10月12日(月)午後3時頃 新野化学社から来客があり 川緑は彼等を 材料部品研究所の会議室に案内した。


 新野化学社から訪れたのは 営業の西森課長と 技術の東野課長と南田主任の3名であり 川緑は 事前に 西森課長に離型オイルの開発を依頼していた。


 川緑が新野化学社へ離型オイルの開発依頼を持ちかけたのは 次のような経緯からであった。


 この日の1ヶ月程前に 川緑は 各社から入手した液状フッ素ゴムと 幾つか調合した離型オイルを入手し それらを組み合わせた簡易定着試験を始めた。


 簡易定着試験の結果 現行の液状フッ素ゴムと現行の離型オイルの組み合わせに比較して これに勝る定着性を示す 液状フッ素ゴムと離形オイルとの組み合わせは見出せなかった。


 その後 川緑は 個体表面への任意の表面張力特性を持つ液体の濡れ性をシミュレーションするソフトを作成して 試験の結果の解析を行った。


 その結果 簡易定着試験の結果が良くなかったのは 離型オイルのフッ素ゴムへの濡れ性の不良が原因であったと判明した。 


 そこで 川緑は 新野化学社の福岡営業所へ電話を掛けて 彼が希望する表面張力特性を有する離型オイルの開発を依頼したのであった。



 この日の新野化学社との打ち合わせで 川緑は これまでの新規定着機開発のための取り組みを説明し 新規離型オイルの開発を依頼すると「ぜひ ご協力をお願いします。」と言った。


 50歳くらい 細身で長身、面長の東野課長は「ラボサンプルを作ってみましょう。 オイルの試作に1ヶ月間ください。」と言った。


 営業の西森課長は「今回は よろしくお願いしますよ。」と以前の佐賀事業部の対応を含ませて 釘を刺すように言った。 



 12月14日(月)午前11時頃に 川緑は 手持ちの液状フッ素ゴムと新野化学社から届いた3種類の離型オイルとを組み合わせた簡易定着試験結果をまとめた報告書を作成していた。


 報告書ができると 彼はそれをキンダイ工業社と和平化成社と新野化学社へFAX送付した。


 報告書に示した簡易定着試験結果では 現行のフッ素ゴムと離型オイルの組み合わせに次いで 定着性が良好なのは 和平化成社の液状フッ素ゴムと新野化学社の離型オイルとを組み合わせた系であった。


 この組み合わせで行った簡易定着試験で得られた画像は 現行の組み合わせで得られた画像に比べると少し鮮明さに欠けていた。


 顕微鏡を用いて画像の微小な部分を観察すると トナーが熱圧着されずに発色していない部分が散在していることが分った。



 この日の午後に 川緑は FAXの送付したそれぞれの会社に電話を掛けた。


 和平化成社へ電話すると 技術の国本技術部長が出てきた。


 川緑は「頂きました液状フッ素ゴムの評価結果は 検討品の中では良好でしたが 現行品よりもやや劣るものでした。 今後は 御社の液状フッ素ゴムをベースに改良検討を行いたいと考えています。 つきましては 頂きました液状フッ素ゴムの配合を教えて頂けないでしょうか。」と切り出した。


 塗料メーカーに務めた川緑の感覚からすると ユーザーへ塗料配合の開示は考えられなかった。


 しかし 川緑は定着性の改良には 配合の情報が必要であると思い無理を承知で聞いてみた。


 国本技術部長は「お問い合わせの件につきましては 一度 社長と相談してみますので 後ほど連絡差し上げます。」と答えた。


 その日の午後6時頃に 国本部長からFAXが届いた。

FAXには 手書きで 硬化剤の成分と配合量を除く全ての成分名とその配合量が書かれてあり 末尾に「硬化剤についてはご容赦ください。ご検討の程、よろしくお願いいたします。」とあった。


 翌日 川緑は 研究所にある分析装置SEM(走査型電子顕微鏡)/EDX(エネルギー分散型X線分光法)を用いて 簡易定着試験を行った和平化成社のフッ素ゴムの表面の分析を行った。


 SEM観察の結果 フッ素ゴムの表面に点在する粒塊とそれに付着するトナー粒子とが見られた。


 粒塊の元素分析の結果と和平化成社からの情報とから その粒塊が硬化剤と併用して用いられる硬化助剤であることが判り それが定着性を悪くしていたことが判った。


 フッ素ゴム分析結果を報告書にまとめると 川緑は それを和平化成社の国本部長へFAX送信した。



 30分間程時間をおいて 国本部長に電話を掛けた川緑は「報告書を見て頂けましたか。フッ素ゴムに含まれる硬化助剤の粒子が定着性に悪響していると分かりました。」と言った。


 彼は 続けて「そこで ご相談ですが 硬化助剤を微粉砕することはできますか。」と尋ねた。


 すると部長は「私どもには 微粒子グレードの硬化助剤があります。これの配合を検討してみますので 1週間お時間をください。」と答えた。


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