第3話 LBP定着機の調査
特許調査 / 事業部の対応
1997年9月16日(火)午前11時に 会議室で 川緑は 研究所の関係者を集めて 佐賀事業部から依頼を受けたカラーLBP定着機の調査研究を着手するために テーマ起案会議を開いた。
今月はじめに研究所の責任者らは カラーLBP定着機案件への対応を決めており この件を研究所内でオーソライズするために 川緑にテーマ起案を指示していた。
指示を受けて川緑はテーマ起案会議を開催するために必要な資料を作成していた。
テーマ起案会議には 事業部との詳細な契約内容を記載した受託研究契約書と受託研究を実施することにより期待される成果について記載した起案書の提出が求められていた。
川緑の起案テーマは 参加した所長と企画と経理とその他のチーム責任者により 承認された。
テーマ起案が通ると そのテーマに研究費が付与され 川緑は調査研究に着手する ことができた。
会議が終わると 川緑は 知的財産部と情報システム部の担当者に電話して 彼等の協力を得て カラーLBP定着機の特許調査を始めることにした。
10月22日(水)午前11時頃に 川緑はそれまでに調査を行ったカラーLBP定着機の特許1000件について 調査結果のまとめの作業を行っていた。
彼は調査した特許から 定着機の構成と発明のポイントを抜き出し また定着機の構成別に 発明の変遷を時系列にまとめた。
彼の調査によると 1970年代に世界で初めてアメリカのDグラフィ社でLBPの商品化が行われ 初期のLBPに搭載された定着機は 筒形の金属の芯金上にシリコーンゴムを施したヒートロールとプレッシャーロールと離型オイルを塗布する装置とから構成されていた。
その後 LBPの印刷画質の向上や定着機の長寿命化を目的とした発明が行われていた。
定着機の寿命は 主に「オフセット」と呼ばれる印刷画質の劣化や「ジャム」と呼ばれるヒートロールへの紙の巻きつき現象の発生により判定されていた。
定着機の性能を示す指標の1つに「定着ウィンドウ」と呼ばれる定着可能な温度範囲があった。
「定着ウィンドウ」の上限を超える温度での定着時に発生する「オフセット」は「ホットオフセット」と呼ばれ 下限を下回る温度での定着時に発生する 「オフセット」は 「コールドオフセット」と呼ばれていた。
「定着ウィンドウ」は 定着枚数を重ねるごとに 徐々に その温度幅が狭まり 定着可能な温度幅がなくなった時に定着機の寿命となった。
川緑の調査によると 定着機の寿命を延ばすことを目的に ヒートロールの芯金上に施される樹脂財料に関する発明や ヒートロール表面に塗布される離型オイルに関する発明が多くあった。
11月6日(木)午前9時30分に 川緑は 福岡事業場から佐賀事業場へ向かうメールバスに乗った。
メールバスは事業所間のメールの配送と社員の移動を行う8人乗りのワゴン車であり 数日前に 川緑は 佐賀事業部のプリンタの生産工場の見学のためにメールバスを予約していた。
佐賀事業部に到着した川緑が商品企画課の畠山主任技師を訪ねると 彼は落ち着きがなく とても混乱した様子であった。
畠山主任技師は 川緑に 今日の午後に 急に九杉社の社長が訪問することになり その対応の準備に追われていると言った。
主任技師は 近くにいた機構技術グループの中道技師に川緑の工場見学の案内役を頼んだ。
30歳中頃、中肉中背で表情を変えないタイプの中道技師が案内役を断ると その後は2人の間で川緑の押し付けあいになった。
川緑は 彼等の間に入り 一人で工場見学に行くことを伝えると プリンタ生産工場へと向かった。
プリンタ生産工場に入り 建物の3階にあるLBPの組み立てラインに入ると そこには仕切りのないフロアーに いくつものベルトコンベアが配置されていた。
社長の訪問に対応するためか プリンタ生産ラインは止まっており 作業者もおらず 周りは綺麗に清掃されていた。
その後 川緑は 1階にあるプリンタ評価室へ行くと そこにいた作業者達に定着機のトラブルについて聞いて回ったが 定着機の評価を行う担当者が見つからず現状を聞くことはできなかった。
11月10日(月)午前10時頃に川緑は佐賀事業部の機構技術部を訪ねた。
この日は 技術部の担当者に 現行のカラーLBPを用いた定着機の評価方法の 指導を依頼していた。
ところが 川緑が機構技術部の実験室へ入ると そこにいたメンバーは 川緑に 注意を払うことも無く 忙しそうにバタバタと作業を行っていた。
彼等の中の一人に「何かあったんですか。」と聞くと 彼は「出荷前のプリンタの温度制御システムに不具合が見つかって その対応に追われています。」と答えた。
彼等の様子から 川緑は 予定していた定着機の評価方法の習得は出来ないと判断して 福岡の研究所へ戻ることにした。
研究所へ向かう途中 川緑は この間の佐賀事業部の人たちの彼への対応を振り返っていた。
彼等の態度を思い返すと 川緑には 今回の新規定着機の開発委託の件は 彼等が材料部品研究所へ強く望んで発案された案件ではないのではないか 或いは 研究所には もともと期待していないのではないかと感じられた。
今年度の九杉社の方針の1つに「プリンタ事業への注力」があり その方針を受けて 九杉社の上層部から佐賀事業部と研究所との連携を示唆する話もあり この流れから佐賀事業部の商品企画や機構技術部は 彼等の意に反して材料部品研究所へ研究委託したのだろうと思われた。
材料メーカーの態度 / 材料調査
11月11日(火)午前9時になると 川緑は 研究所の居室の机に 材料メーカー各社の連絡先のリストを広げて それらの会社に電話を掛けはじめた。
事前に 川緑は 定着機に用いる離型オイルやヒートロールに用いるゴム材料を取り扱っているメーカーを調査しており それらのメーカーの営業所の住所と電話番号等を調べ 一覧表を作成していた。
国内で離型オイルとシリコーンゴムを取り扱うメーカーには 新野化学社と西芝シリコーン社等があり、フッ素ゴムを扱うメーカーには 日照ガラス社とキンダイ工業社とルーテル・ジャパン社があった。
川緑は リストの電話番号を見ながら「私 九州杉下電気の川緑と申します。お世話になります。 御社でお取り扱いの樹脂材料の付きましてお尋ねしたく お電話を差し上げています。」と言った。
電話口に先方の営業担当者が出ると 川緑は「弊社で開発中の商品に 御社の樹脂材料を検討させて頂きたいと考えています。つきましては 御社でお取り扱いの樹脂材料のカタログと技術資料がありましたら ぜひ お願いしたいのですが。」と言い「宜しければ こちらの連絡先と樹脂材料への要望事項をFAXでお送りしたいのですが。」と伝えた。
すると営業担当者は「分かりました、FAXお待ちしています。」と言った。
川緑のFAX送付から1週間経たないうちに それぞれのメーカーから営業担当者がやってきた。
彼等は 打ち合わせの席で 会社紹介資料と商品カタログを渡すと概略の説明を 行った。
説明を受けた川緑は 彼等に 佐賀事業部からの依頼を受けてカラーLBP用の 新規定着機の開発を行うことを伝え、定着機の開発に必要な樹脂材料の紹介を依頼した。
すると彼等は「この件は 一度会社の技術と相談しまして 別途 報告に上がります。」と言った。
材料部品研究所を訪れた新野化学社の福岡営業所の西森課長は 40歳代中頃、 中肉中背の温厚そうな表情の方で「御社の佐賀事業部の定着機の件につきましては 以前にお世話になったことがあります。」と言った。
彼によると 佐賀事業部から定着機に用いる離型オイルの開発依頼を受けて 社内の技術者が多くの時間を掛けてオイルを開発し 厳しい値下げ要求も呑んで納入仕様書を提出したが 採用にはならなかったとのことであった。
彼は この佐賀事業部の対応について 社内から多くの批判を浴びたと言った。
川緑は 以前に塗料メーカーで渉外技術を担当しており 彼の心情を察することができたのと同時に 樹脂材料メーカーへの対応の仕方によっては 自社の首を絞めることになるのではないかと危惧した。
12月8日(月)午前9時になると 川緑は フッ素系ゴム材料の件で日照ガラス社とキンダイ工業社とルーテル・ジャパン社のそれぞれの営業所へ電話を掛けはじめた。
先月に それらの会社から商品カタログが送られてきており 川緑は それぞれのカタログにあるフッ素系ゴム材料のサンプル送付を依頼していたが その後 彼等からの回答がない状態が続いていた。
この日に キンダイ工業社の営業担当者との電話でのやりとりの中で 彼等がフッ素系ゴム材料のサンプルを提出しなかった理由について聞くことができた。
彼によると 彼等が製造するフッ素系ゴム材料については 彼等と繋がりのある 加工メーカー以外の会社への材料の供給実績がなく サンプル提出ができないとの ことであった。
1998年2月16日(月)午前8時福岡空港発の飛行機に搭乗した川緑は羽田空港へ向かった。
東京駅から新幹線に乗りJR三島駅で降りると 改札口に月西工業社の営業の豊岡課長が来ていた。
月西工業社は 定着機を構成する部材を佐賀事業部へ供給している加工メーカーであった。
豊岡課長は 中背、がっちりした体型、日焼けした顔に眼鏡を掛けていた。
二人は 月西工業社の沼津工場へ着くと 技術のメンバーが待ち受けていた会議室へ入った。
名刺交換が終わると 川緑は 単刀直入に 今回の訪問の目的を話した。
「私は 弊社の佐賀事業部からの依頼を受けて 新規定着機の開発を行う予定です。つきましては 御社には ぜひご協力をお願いします。」との川緑の言葉に 彼等は「こちらこそ よろしくお願いします。」と答えた。
彼等の合意を得た川緑は「ヒートロールに用いるフッ素系ゴム材料につきまして 御社とお取引のある樹脂メーカーさんをご紹介頂きたいのですが。」と切り出した。
彼等は「弊社のお取引先に関することですので。」と難色を示したが「私どもで 取り扱っておりますフッ素ゴム材料の中で ご紹介できるものもあります。」と言った。
彼等によると そのフッ素ゴム材料のメーカー名は教えられないが 過去に佐賀事業部の定着機のヒートロール用に検討したことがあるとのことであった。
しかし そのフッ素ゴム材料を用いて作製したヒートロールは 現行のヒートロールに比べて 定着可能な枚数が半分くらいであり 採用にはならなかったとのことであった。
彼等の情報は 今後の開発に役に立つと思い 川緑は「ぜひ そのフッ素ゴム材料と現行品のサンプルをお願いします。」と言った。
月西工業社を出て帰路についた川緑は 彼等がフッ素ゴム材料のメーカーを教えなかったことや 先日 日照ガラス社にフッ素ゴムサンプル依頼を断られたことを奇妙に感じていた。
同時に川緑は 以前 塗料メーカーに勤めていた時に 先輩から聞いたことを思い出した。
先輩は 元々国内でのフッ素系の樹脂材料の開発は 軍事用途に進められていて 開発品の取り扱いは 幾つかの会社に限定されていて 一般の会社では入手できないと言っていた。
川緑は その話を聞いた時から15年が過ぎた今でも その傾向は続いているのだろうかと思った。
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