第2話 佐賀事業所案件

   急な話 / 会社の方針 

 

 1997年8月26日(火)午前8時頃に出社した川緑は いつもの様にパソコンを立ち上げていた。


 そこへ研究所企画の落合リーダーがやってきて「川緑さん ちょっといい?」と 声をかけた。 


 リーダーの後について応接室に入り テーブルに着くと 彼は「川緑さんは この下期から佐賀事業部のレーザー・ビーム・プリンタ(LBP)関連の業務をやって もらうことになりました。」と言った。


 彼は 続けて「川緑さんが調査している宮崎杉下(宮杉)社関連のテーマは 取り下げるように所長と材料チームの野島チームリーダーに伝えてあります。」と言った。


 一方的な話し方とその内容に 川緑は少なからず抵抗感を覚えて「そうなんですか。」と確認すると彼は「この件は既に研究所で合意されたことです。」と言った。


 しかし それより先に宮杉社と合意され 研究所でもオーソライズされたテーマに着手していた川緑は 宮杉社の了解を取る前に佐賀事業部の案件が決められていた ことに強い違和感を感じた。



 宮杉社は セラミック材料をベースとしたコイルやコンデンサや抵抗等のLCR部品の製造販売を生業とする会社であり LCR部品の国内市場の15%程のシェアを有していたが 市場のグローバル化に伴う急激な商品コストの下落に苦戦を強いられていた。


 この年の初めに川緑は 宮杉社の商品企画課へ 彼等の主力製品である中高圧セラミックコンデンサーの生産性向上と品質改善とコスト削減のための新規工法のアイデアを提案していた。


 その提案を受けて 宮杉社は 川緑の新工法が実現可能なものかどうかを確認するために 川緑に調査研究を依頼していた。



 セラミックコンデンサの現行の製造方法は次のようなものであった。


 まず チタン酸バリウム系の粉体材料を コイン形状にプレスし 焼結した基板が作製された。

次に 焼結基板の全面にメッキを施し その後 基板の円周面を研磨し対抗する電極が形成された。

最後に それぞれの電局面にリード線を半田付けし 絶縁塗料が塗布された。


 この中のメッキ基板の円周面研磨工程は 時間が掛かるため商品の生産性を低下させ 基板にダメージを与えるために歩留まりを低下させ 廃棄部材を発生させるためにロスコストを発生させていた。


 その課題に対して川緑は 研磨工程を用いないセラミックコンデンサの新工法を 提案していた。


 彼の提案は メッキ前の基板の円周面に 予めメッキが付着しない樹脂を塗布しておき その後メッキを行うことで 研磨工程を無くして対抗電極を形成するもので あった。


 宮杉社の技術部は 川緑の提案に興味を持ち 今後の川緑の調査研究結果に応じて 研究所への研究委託テーマの1つにセラミックコンデンサの新工法を取り上げる予定でいた。


 その様な状況下で 落合リーダーから「宮杉社のテーマは取り下げる。」と伝えられたのであった。



 彼の言葉は川緑に 東西ペイント社で働いていた頃に「UV硬化型樹脂の硬化性の研究」を止めるように指示された時のことを思い出させた。


 双方の事例は ともに組織の責任者等が組織運営のために彼等の価値判断で かじをきったことにより 担当の技術者が やる気になった技術開発案件を止められた 事例であった。


 落合リーダーとの打ち合わせが終わると 川緑は 研究所の決定を 宮杉社の技術課と商品企画課に伝えるために それぞれの部署へ電話を掛けた。


 宮杉社技術課の畑田課長は 川緑に「調査研究中断の件は 残念ですが 分りました。 もし新工法開発の件で こちらでやれることがあればやっておきますよ。」と言った。 


 商品企画課の勝田課長は 川緑に「新規工法の件は しばらくの間 君の中で温めておいたらどうや。」と言った。



   失礼な依頼  / 定着機の開発依頼


 8月29日(金)午前8時30分頃に 材料部品研究所の浅井次長と川緑は JR九州の二日市駅で合流し そこからタクシーで10分くらいの所にある佐賀事業部へ向かった。


 数日前に 佐賀事業部の商品企画から研究所の企画に研究委託の話があり それを受けて2人は 委託内容の詳細を聞き取るために佐賀事業部を尋ねた。


 佐賀事業部の正門にある守衛所で 川緑は入出門表に記帳していると 40歳くらいの男性社員2名がやってきて 訪問客を会議室へと案内した。 



 会議室に入ると お互いに名刺交換を行い 川緑は 手渡された名刺と本人とを 見比べた。     


 中背でふっくら体形、丸顔の男性の名刺には 日野リーダーと書かれており 中背でやせ形、面長で眼鏡の男性の名刺には 畠山主任技師と書かれてあり 2人とも 穏やかな表情をしていた。 


 彼等と向い合せにテーブルに着くと 畠山主任技師は カラーLBP定着機と書かれた資料を手渡し 資料に沿って説明を始めた。



 佐賀事業部は アメリカの事務機器用品メーカーのエンジニクス社からの技術指導を受けて カラーLBPのOEM生産を行っており 月に5千台程のカラーLBPを出荷していた。


 カラーLBPの中の上位機種の複合機は カラープリントの他に複写機やFAX 機能も有しており その価格は1台100万円程であった。


 彼等の説明によると カラーLBPは プリンタを動かすエンジン部と 静電潜像を形成しトナーを付着させる画像形成部と トナーを紙に転写する転写部と 紙に 付着したトナーを熱圧着し画像を形成する定着部とからなっていた。


 定着部には プリンタ本体から脱着できる定着機が取り付けられていた。


 定着機は その内部にハロゲンランプを装着し加熱することが出来るヒートロールと これと対になりトナーを紙に圧着するプレッシャーロールと ヒートロール表面に離型オイルを塗布するウェブロールとから構成されていた。



 事業部の商品企画から材料部品研究所に依頼したのは新規定着機の開発であった。      商品企画の日野リーダーは「研究所に九杉社独自の定着機を開発してもらいたい。」と言った。


 畠山主任技師は「現行の定着機で保証している定着枚数は3万枚ですが 半年前 からユーザーでの使用時に 定着枚数が3万枚に達しないうちに定着不良を起こす トラブルが起きています。と言った。


 佐賀事業部は エンジニクス社へ定着機の品質改善を申し入れていたが 対応してもらえず そこで急遽 材料部品研究所へ新規定着機の開発を依頼することになったとのことであった。



 彼等は 資料のページをめくると 現行の定着機の仕様について話し始めた。


 資料には 定着機を構成する ヒートロールとプレッシャーロールとウェブロールの構造が図示されており それぞれの部品を構成する材料が記載されていた。


 彼等は川緑に 現行定着機の仕様を参考にした 九杉社独自の新規定着機の開発を依頼した。

彼等が要望する新規定着機の定着保証枚数は 現行品の倍の6万枚以上であった。


 商品企画課からの要望を聞いた川緑は 新規定着機開発がどれくらいハードルが 高いのか また それが実現できるものかどうか全く感触がつかめなかった。 



 材料部品研究所に 定着機の開発の経験がないことからか 或いは 研究所の実力を見極めようとしてか 商品企画課の2人は次のような提案をした。


 畠山主任技師は「今期‘97年度は 新規定着機の開発のための調査研究期間ということで 研究所の自主テーマとして取組んで頂けないでしょうか。」と言った。


 彼等が言った「研究所の自主テーマ」とは 新規定着機の調査研究費を研究所の予算で賄うようにという意味であった。


 日野リーダーは「今期の調査研究で 新規定着機の開発が見込めそうなら 来季に正式に 研究開発委託をお願いしたいのですが。いかがですか。」と言った。 


 彼等の申し出に 浅井次長は「お話は良く判りました。ご依頼の件につきましては 一度 研究所内で検討させてください。後日にご回答差し上げます。」と言った。



 佐賀事業部を出ると 浅井次長は川緑に「彼等は君の技術を疑っているようだね。失礼な依頼ですけど 研究所内では この件は断れないと思いますよ。」と言った。


 彼がそう言ったのは 今年度の九杉社の方針の1つに「プリンタ事業に注力する」があって 材料部品研究所もそれに従うことになると予想したからであった。



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