第1話 中途入社

   研究所に配属 / 新しい職場


 1995年1月23日(月)午前7時頃に 川緑 清(かわみどり きよし 38歳)は 福岡県大野城市に ある自宅を出て 福岡市内にある転職先の九州杉下電気社へ向かった。


 関東に比べると 日の出の時間が遅く まだ薄暗い中 最寄りの駅から西鉄電車に乗った川緑は 大橋駅でバスに乗り換え会社の近くのバス停で降りた。

   

 九州杉下電気(九杉)社は 大阪にある杉下電気社の系列会社であり年商1500億円 従業員約3000人の企業であった。


 九杉社の組織形態は事業部制をとっており 九州の多くの県に事業部や関連会社があった。


 佐賀県にはプリンタや電子黒板を製造販売する部門があり 熊本県には磁気ヘッドやテレビ用の部品を製造販売する部門があり 宮崎県にはセラミック基板をベースとしたLCR部品の製造販売する部門があった。


 九杉社の本社は福岡市内にあり そこに川緑の配属先の材料部品研究所があった。


 川緑は事前に人事から入社説明会の案内にあった厚生棟の2階の会議室に入った。

会議室には 1月23日付の中途採用者の8名がいて 皆30歳前後くらいの若手であった。


 暫くすると 三原社長と人事課の牛島課長が会議室に入ってきた。

会議室の奥の席に着いた社長は 中途採用者等を一人ひとり見ると短い祝辞を述べた。

祝辞の中で「今日 君達がここにいるのは 君達の運命だ!」と言い一人ずつに辞令を手渡した。


 社長が退室すると 入れ替わりで入ってきた人事担当者が就業規則や福利厚生の 説明を行った。

その後 彼は 中途採用者等にIDカードを手渡し 定時の16時30分頃に説明会の終了を継げた。



 1月24日(火)から26日(木)までの3日間に 西鉄大橋駅の近くにある教育訓練センターで 中途採用者を対象とした教育実習が行われた。


 教育実習では 人事課の担当者から会社の社訓や就業規則や開発業務の説明が行われた。


 就業規則の説明では 「計画年休」や「多目的休暇」等の話があり それらの取得目標日数は 前に務めていた会社の休暇日数よりも多く、川緑に この会社の組合組織が強いものと思わせた。 


 開発業務の中の知的財産に関する話では 開発技術者には特許出願のノルマと報奨金の譲与があり 川緑には 初めて経験する制度であった。



 1月27日(金)午前8時に 中途採用の8名は 会社の厚生棟2階の会議室に集合し 会社の近くにある労働衛生研究所へ向かい、そこで 一通りの健康診断を受けた。

健診が終わり会社へ戻ると 彼等はそれぞれの配属先へと向かった。


 川緑が向かったのは5階建ての技術B棟の2階にある材料部品研究所であった。

材料部品研究所の入り口に着くと 川緑は入り口横の壁に取り付けられたカードリーダーにIDカードをかざして入室した。 


 中へ入ると 左手側に大きなクリーンルームがあり 右手側に100人以上入り そうな居室があった。 


 居室の方を伺っていると 奥から中肉中背の年配の温厚そうな男性が川緑を見つけて近寄ってきた。


 「川緑さんですね。ようこそ。」と声を掛けたのは 材料部品研究所の浅井次長であった。 

彼は 川緑を通路の奥にあるロッカー室に案内し 空いていたロッカーの1つをあてがった。


 その後 川緑を 彼が所属することになる材料チームへと案内した。


 材料部品研究所には 仕切られた所長室と仕切りのないスペースに3つの開発チームと企画チームの机が配置されていた。 


 開発チームには 野島チームリーダー率いる材料チームと 深田チームリーダーが率いるメカチームと 石田チームリーダー率いるハード・ソフトチームがあった。


 材料チームは 6つのプロジェクトで組織されており 他県の事業場から派遣で 来ていたメンバーも含めると約30名程のメンバーで構成されていた。


 材料部品研究所では 昼休み後に昼会が行われており 所員約120名が一同に 会した。 

この日の昼会の時に 野島チームリーダーから紹介を受けた川緑は 前に出て自己紹介を行った。


 「川緑と申します。本日から材料チームに所属することになりました。どうぞよろしくお願いします。」と言うと 野島リーダーが「彼は塗料メーカから転職してきました。樹脂材料の専門家です。」と補足した。


 昼会が終わると 川緑は 柏木所長に呼ばれて 所長室へ入った。                

5分間くらいの会話の後に 所長は「しっかりやりなさい。」と言った。


 所長室を出ると 野島リーダーと企画の落合リーダーに呼ばれて応接室に入った。

40歳台前半くらい 中肉中背 佐賀県出身という落合リーダーは 少し訛りのあるイントネーションで 研究所の仕事について話を始めた。


 材料部品研究所で行っている開発業務は2つあり 1つは研究所独自に商品開発を行う業務であり もう1つは事業部からの研究開発委託を受けて行う業務であった。


 委託業務は 事業部と研究所の双方で合意した受託契約内容に従って遂行されるものであった。 


 落合リーダーは 受託契約書の書式を手渡すと 川緑に 九杉社のいくつかの事業部から依頼が来ている新規樹脂材料の開発の案件に対応するようにと指示した。


 受け取った受託契約書には 受託する研究開発テーマ名と 契約内容と 契約期間と 対応人員数と 開発費用と 求められる成果と 受託費用等の記入欄が設けられていた。



   カルチャーショック / 新しい環境


 材料部品研究所に川緑が勤め始めて1か月が経った頃に 川緑は 以前に勤めて いた職場と比べて 公私に様々な違いが分ってきたが それらの違いに対応するのは一仕事であった。


 その違いの1つは パソコンを使う業務であり その作業は川緑を悩ませた。


 前の職場社では 管理職を除いて業務用のパソコンは職場で共用のものであった。

職場のメンバーがパソコンを使うのは 月次報告用の資料作成や数値計算を行う時に限られており 川緑も パソコンを使い方は得意なほうではなかった。


 今の職場では 研究所のメンバ一1人に1台のパソコンがあてがわれており 業務関連の情報収集や報告資料作成や事務処理や勤怠管理に用いられていた。


 そのようなパソコンの作業環境を整えるのには パソコン上の設定作業が必要であったが 川緑には なにをどうしたらよいのか分からなかった。


 研究所には 所内の仕事環境を良くするための合理化委員が組織されており 彼等が川緑をサポートしてパソコンの使用環境の整備を行った。


 パソコンの使用環境が整うと 川緑はパソコンを使った作業を覚えなければならなかった。

業務関連の作業には 文献調査や特許調査システムの使用や 各種ソフトで雛形が作られた報告書の作成や ローカルネットワーク上の研究費管理や 決済処理や人事申請や勤怠管理等があった。


 これらのパソコンの作業を行う時に 分からないことがあると 川緑は 誰それ かまわず近くにいる人たちを捕まえて 彼等に使い方を教えてくれるよう頼んだ。

兎に角 川緑は 人に聞かなければパソコン上の色々な作業を進めることはでき  なかった。


 実験環境を整備することも 川緑には 大仕事となった。


 研究所には フロアーの南側に化学実験室があり そこには実験台とドラフトチャンバーと実験棚が設置されており 実験棚にはフラスコやビーカー等のガラス器具が並べられていた。

しかし 樹脂材料開発を行うためには 他にいろいろな設備や材料を揃得る必要が あった。 


 川緑は業務に関係する会社をインターネットで検索すると 会社の連絡先をノートにリストアップした。


 次にリストを見ながら 川緑は それぞれの会社へEメールや電話で 商品カタログや技術資料や樹脂サンプル等を依頼し 実験環境を整える作業を行った。



 川緑は 仕事環境を整える作業を行いながら 以前勤めた会社での開発業務と  今の会社での仕事の違いについて振り返っていた。


 塗料メーカーに務めていた頃の川緑は ユーザーから依頼を受けて新規樹脂材料の開発を行う際に ユーザーから開発に必要な情報を入手することに まどろっこしさを感じていた。 


 それは 新商品開発を行うユーザーから得られる情報は制限されることが多く  また川緑がユーザーの生産ラインに入って必要な情報を入手することもできなかったからであった。


 そこで当時 川緑は 樹脂材料の開発を行うなら 自らユーザーへ転職して 樹脂材料開発を行った方が早いだろうと考えていた。


 いざ電気メーカーに勤めて見ると 川緑には 樹脂材料開発について 別の課題が待ち受けていた。


 研究所で新規樹脂材料を開発して内製化する場合 その樹脂材料の製造は 税法上 研究所では出来ず 事業部で行うか 樹脂メーカーに依頼して行うかを選択することになった。


 樹脂材料の製造を事業部で行うには 出来上がった樹脂材料の品質検査が必要であった。

品質検査を行うためには 事業部の検査部門に 検査機器と検査員を確保する必要があり そこに掛かる費用が商品価格に上乗せされることになった。


 また樹脂材料の製造を事業部で行うためには 樹脂材料に関わるトラブルが発生した場合の対応と責任の所在を明確にする必要があった。


 樹脂材料の内製化にかかる費用やリスクを考えると 余程の理由がない限り 事業部は新規樹脂材料を内製化することはなく そのため研究所での樹脂材料の開発は 日の目を見ないものと思われた。


 職場環境に馴染むことも 余り社交的でない川緑にとっては厄介なことであった。


 材料部品研究所の材料チームには 6つのプロジェクトがあった。

それらは 無機半導体デバイス開発プロジェクト、有機半導体デバイス開発プロジェクト、センサー開発プロジェクト、排ガス燃焼触媒開発プロジェクト、及び排ガス燃焼システム開発プロジェクトであった。


 それぞれのプロジェクトのメンバー等は 彼等の休憩時間には 研究所の談話室を利用していた。


 そこには 入り口付近に コーヒーなどの飲料水の自販機があり、中央にはテーブルが置かれ その周りにふかふかの腰掛が置かれていた。


 川緑は 談話室でコーヒーを飲みながら プロジェクトのメンバー等の話を聞いて 彼等がどのような研究に従事していて 何が課題であり どのように対応しようとしているのかを知ることにより 職場に馴染もうとした。


 材料部品研究所では 毎日 昼休み後に昼会が行われていた。 


 昼会は 社歌斉唱から始まり 昼会の当番が前に出て社訓を読み上げ 所員がそれを復唱した。

次に 当番は 約5分間程 彼が仕事などに対して思う所を所感にとして所員に話をし 最後に連絡事項の確認を行い 昼会を終えた。


 所感を述べることは 多くの所員にとって悩ましいものであり 昼会の当番の日が近くなるとぼやくものも多く 川緑にとっても煩わしいものであった。 


 一方 所員が述べる所感を聞くことで 川緑は それぞれの所員の関心事や人柄を知ることが出来て 少しずつ職場に馴染んでいけるような気がした。

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