第359話 若き騎士とメイドについて
「もうじきアステラに入る頃かと思われます」
すぐ隣から女性の声が聞こえてきて舌打ちしそうになったのは、考えを読まれたかのようにタイミングが良すぎたのと、囁きがあまりに甘くてつい寄りかかってしまいたくなる、二重の意味で不愉快にさせられたからだ。
「お疲れではございませんか、トール様?」
ビリジアナの白い顔は闇の中でもよく見えた。二つの眼は糸のように細く閉ざされているようでいて、虚空を漂う無数の星屑のごとき微細なきらめきを含んでいる。そして、南国で一年中咲き誇る鮮やかな花を思わせる唇から、
「暖かなお茶とお菓子の用意もありますので、少しお休みになられてはいかかですか?」
魅力的な提案が耳に届いた瞬間に、
「無用だ。一刻の猶予もならないのだ」
若き鉄鯱騎士団長は無理矢理声を張り上げて前を向き直った。「あらまあそれは残念」とくすくす笑う妙齢の美女に、
(いつまでもぼくを子ども扱いして)
トールは苛立ちを抑えることが出来なかった。小柄な青年に付き従うビリジアナはこの騎士団の中で特異な立ち位置を占めていた。男所帯でただ一人の女性、というだけではなく、正式に入団することなくトールの秘書として参加していたのだ。しかも、鎧ではなくメイド服を着用したまま騎乗して遠征に参加しているのだから、相当に目立っていた。
ビリジアナはもともとゴルディオ家で働くメイドで、少年時代のトールの世話係を担当していた。騎士から政治家に身を転じた父と社交界での活動に夢中にな母に半ば放置されていた一人息子にとって献身的に尽くしてくれる彼女は肉親にも等しい、あるいはそれ以上の存在なのかもしれなかった(この世界の貴族は直接子育てをしないことも珍しくなく、トールの両親が取り立てて冷酷であったわけではなかったが)。侍女は「全てをトール様に捧げたい」と願い、御曹司は「いつまでもビリジアナに頼っていてはいけない」と強くなろうとした。2人は互いを思うがゆえにすれちがうのだから皮肉としか言いようがなかったが、13歳になったトールがゴルディオ家の跡取りとして予定通りに騎士になるべく鉄鯱騎士団の本拠地へ向かおうとすると、
「もちろんわたしもご一緒させていただきます」
ビリジアナが同行を申し出たのに、少年は驚いたのち呆れてしまった。
「馬鹿な事を言うな。騎士とは苛酷な職業なんだ。おまえのようなかよわい女性が耐えられるものではない」
家来を心配して考え直すように必死で説得しようとしたが、
「あらあら。トール様はわたしのことをちっともおわかりではないのですね」
あからさまに小馬鹿にしてきたので(このメイドは主人に対する礼儀をいついかなる時も守っているわけではなかった)、頭に来て「勝手にしろ」と結局同行を許してしまった。
「どういうことなんだ?」
騎士団に入って1か月、3か月、半年、そして1年が経過してもビリジアナは逃げ出すことなくトールの側に控え続けていた。弱音を吐くことなく幼い
「光あるところに影があるように、トール様がいるところにはわたしがいるのです」
という彼女の妙にロマンチックなセリフに突っ込みを入れる気にはなれなかった。いつまでもぼくのそばにいるつもりなのか? 結婚もしないつもりなのか? と問いただしたい気持ちもあったが、「もちろんです! 一生おそばにいます!」と宣言されるのが怖くて口には出せず、それからもずっと共に過ごし続けてきてしまった。
(そういえば、ぼくはあいつのことを全然知らない)
ある日、不意にそのことに気づいた。トールが物心ついたときにはビリジアナは既にゴルディオ家で働いていたので、何処から来たのか何歳なのかも知らなかった。そもそも「ビリジアナ」というのが本当の名前かどうかもわかりはしなかった(何故苗字がないのかもわからなかった)。そして、主人のために何故そこまで尽くすのかもわからなかった。
(今回だって「来なくていい」って言ったのに無理矢理ついてきて。本当に嫌になる)
わけのわからない任務とわけのわからないメイド。いずれもトール・ゴルディオの手に余るのは明白だったが、
「あら? あれは何でございましょうか?」
主人よりも先にビリジアナが前方の異変に気が付いていた。
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