第305話 躓き(その3)
「おまえ、馬鹿だろ。この
「なっ⁈」
ナーガ・リュウケイビッチの一言にジムニー・ファンタンゴが絶句してしまったのは、まず「馬鹿」と言われたのがかなりショックだったからだ。無論、一国の宰相に上り詰めただけあってファンタンゴは極めてすぐれた頭脳の持ち主であったが、しかしだからこそ「馬鹿」などと罵られたことがなく、自分は誰よりも頭がいいと思い込んでいるからこそ、足がふらつくほどに衝撃を受けてしまったわけである(彼よりも知力で劣るシーザー・レオンハルトは「馬鹿」と呼ばれても「うるせえ」とぼやいてそれっきり気にしなかっただろう)。しかし、それにも増して敏腕政治家を憤激させたのは、異国から来た娘が用いたひとつの単語だったようで、
「言うに事欠いて、わたしを『青瓢箪』などと呼ぶとは、このあばずれが。わたしにはジムニー・ファンタンゴという名が」
反論をしまいまで聞くことなくナーガは、
「何処からどう見ても『青瓢箪』だからそう言ったまでのことだ。『青瓢箪』を『青瓢箪』と呼んで何が悪い」
胸を張って自らのネーミングセンスが妥当であることを主張した。ファンタンゴが、ぎぎぎ、と前歯を軋らせたのは、悪びれることのない無礼な少女に腹を立てたせいもあったが、それと同時にオーディエンスの反応も気に掛かったからだ。ナーガが特に深い考えもなくインスピレーションに従ってつけたあだ名を、
(ぴったりだ)
とその場に居合わせたほとんどの人が感じていた。日にあまり当たらないからなのか青白い肌と筋肉の付いていない背の高い身体につきまとう頼りなさを現すのに「青瓢箪」以上に適切なワードがあるとは思えなかった。一度そのように思ってしまうと、これまで死神か幽鬼のごとく恐れられていた権力者も、日陰で力なくうなだれているうらなりにしか見えなくなって、凄味が消え失せて滑稽に感じられるようになったのだから、あだ名の持つ威力というのはなかなか馬鹿に出来ないものがあるのかもしれなかった。
「あ、あ、あ、あおびょうたん、だってよ。ぎゃははははは」
涙を流して大笑いするシーザー・レオンハルトを、
「駄目じゃないですか、レオンハルトさん。騎士たる者、いつでも毅然と、して、な、い、と。あはははははははは」
止めようとしたアリエル・フィッツシモンズも我慢できずに噴き出してしまう。政治家と官僚たちは宰相に一応宰相に気を遣ったのか下を向いたり天井を見つめたりしてどうにか笑いの発作を堪えているようだったが、帰宅した彼らが家族に事の顚末を語れば、アステラの上流家庭の話題が「青瓢箪」に独占されるのは想像するに難くなく、おのれの権威が大いに損なわれたのを悟ったファンタンゴは、忌まわしき別名の名付け親たるナーガを殺意をこめて睨みつけ、
「貴様、この国の政を一手に握るわたしを誹謗中傷して生きて帰れるつもりと思うんじゃないぞ」
しかし、リュウケイビッチ家の女戦士は冷たく笑い飛ばして、
「全くもって事実に反することをべらべらしゃべり立てた、瓢箪よりも頭がスカスカな男に、わたしをどうにかできるものか。身の程を知った方がいい」
毒蛇の皮を脱ぎ捨てて、十代にして「女龍皇」と呼ぶべき風格まで漂わせ始めた美少女に、中年の政治家は思わず腰が引けてしまうのを感じて、またしても「瓢箪」呼ばわりされたのを気にする余裕もなかった。
「ナーガ、どうして?」
悪口を言われたのは自分なのに、一緒に来た娘が何故怒っているのかわからずに戸惑っているセイを横目で見てから、やれやれ、と言いたげに鎧に覆われた肩をすくめたナーガ・リュウケイビッチはあたりを見渡して、
「いいか? わたしは先の大戦において、天馬騎士団と龍騎衆の和平交渉の場に副官として立ち合ったが、アステラの代表たるセイジア・タリウスとモクジュの代表たるドラクル・リュウケイビッチは、無益な戦いを止め平和をもたらすという騎士の本分をお互いに果たそうとしたのだ。あのときの二人には地位や名誉や財産を得ようという私心などまるで無かった、と天に誓ってわたしは証言する」
そして、とモクジュの少女騎士は金の瞳を閃かせて、
「タリウスもリュウケイビッチも、命を賭けて主君に戦争の終結を願い出る覚悟があった。タリウスの願いは幸いにも受け入れられたが、リュウケイビッチはそうではなかった」
いまだに癒えない心の傷の痛みに耐えるように、ぐっ、とナーガは唇を噛みしめて、
「それほどまでに必死に奮闘した二人が
背中から稲妻を迸らせるほどに憤怒に駆られた少女騎士の叫びに、先程セイに因縁をつけた宰相の太鼓持ちどもは「ひい」と情けなくも腰を抜かす。ナーガは再びファンタンゴに視線を移すと、
「貴様がいくら高説をのたまおうが、所詮は安全な場所でこしらえた空理空論にすぎない。血と汗と涙が染みこんだわたしの心には届きはしないと知るべきだ。わかったか? 青瓢箪、いや、一応大臣みたいだから、青瓢箪殿、と呼ぶべきかな?」
今や場を完全にしたナーガを前にして、紙のように顔を白くして何も言えずにいるファンタンゴを眺めながら、
(怒らせてはいけない人を怒らせてしまったようだな、あの青瓢箪は)
と思ったセイジア・タリウスの中でも宰相のあだ名は定着しつつあるようだった。
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