第188話 忠臣、役目を果たす(その8)

「ひどい」

ナーガ・リュウケイビッチとともに村まで来たハニガンは生まれ育った集落が激しい勢いで炎上しているのに言葉を失い、馬上で身動きも取れなくなっていたが、一緒に来たモクジュの少女騎士の目には燃え上がる炎は一切入らず、仰向けに倒れ伏したパドルのことしか頭になかった。戦いで傷ついた左脚を引きずりながら必死で駆けつけた「蛇姫バジリスク」は、いついかなるときも忠実だった執事の姿を見下ろしたまま唇を震わせ金色の瞳を揺らしていたがやがて、どたり、と音を立てて膝から地面に崩れ落ちた。まだ十代でありながら数々の激戦をくぐり抜けてきた娘は、老臣がもはや決して助からないことを理解してしまっていた。彼女がどんなに認めまいとしても、もう間もなく彼が天に召されるのは覆らない絶対の事実なのだ。

「そんな、パドル、そんな」

血の気の引いた青ざめた美貌で意味の取れない言葉を呟く女主人を見上げながら、

「お嬢様、お怪我は大丈夫なのですか?」

とパドルが話しかけてきたのにナーガは思わずかっとなる。わたしのことを心配している場合か、と死にかけた人間に怒鳴るわけにもいかないので、激情の矛先は他の者へと向かうことになる。

「ジャロ、おまえがついていながら、どうしてこんなことになったんだ?」

姉のように慕っている女性のいつにない鋭い言葉に、ジャロ・リュウケイビッチは、びくり、と座ったまま飛び上がって、

「あねうえ、ごめんなさい」

と泣き崩れてしまう。だが、少年の謝罪はナーガの怒りをさらに高める効果しか持たず、さらに「みい」と鳴きながら弟に身体をこすりつけている三毛猫が目に入った瞬間、「蛇姫」の視界は真っ赤に染まり、彼女は一瞬だけ我を忘れた。村へと向かう道中でハニガンから説明を受けていたので、ジャロが村に向かった事情は承知していたが、それは本当だったのだ。たかが猫一匹のために大事な家来を犠牲にするとは何事か、という憤りがナーガの全身を駆け巡り、ジャロの頬を張ろうと手を上げかけた。これまで大事な弟に一度たりとも体罰を加えたことはなかったが、このときの少女の怒りがそれだけすさまじく、パドルへの思いがそれだけ大きかった、と言えた。だが、

「なりませぬ」

力強い声が少女の動きを止め、冷静さを取り戻させた。リュウケイビッチ家の執事が血塗られた顔でナーガの顔をじっと見つめているのが目に入る。

「お嬢様、怒ってはなりませぬ。今宵のジャロ様の振舞いは罰すべきものではなく、むしろ賞賛されるべきものなのです」

思いがけない言葉が飛び出したのに、老人を囲んだ姉弟は目を丸くするが、

「幼い娘の悲しみと向き合い、小さな命をないがしろにはしない。これこそまさしく騎士にふさわしい行いと言うべきなのです。もしも、ジャロ様が『危ないから』『自分には無理だから』と洞窟に閉じこもっていたならば、誠に失礼ながらわしはお坊ちゃまを軽蔑していたでしょうな。見下げ果てた意気地の無い主人に仕えた我が身の不幸を呪ったことでしょう。しかし、ジャロ様はそうはなさらなかった。ドラクル様に勝るとも劣らない天晴れな勇気を示された。だから、このはとても嬉しゅうてならんのですよ」

そこまで語ったところで、「じいさんの言う通りだ」と少し離れた場所にいた「影」が声をかけてきた。

「ナーガ・リュウケイビッチ、おまえの弟がここに来なければ、おれはとっくに死んでいて、やつらを止めることもできなかったんだ」

柄でもなく少年を擁護したのを恥じたのか、すぐ横を向いた黒ずくめの男に、

「『影』殿、こちらこそ礼を言わせていただきたい。よくぞわが主を、そして村のみなさんとわがリュウケイビッチ家の使用人たちを守ってくださった」

赤く染まった白髭に覆われた顔に笑みを浮かべつつ老人は感謝を伝えるが、「影」は何も反応しない。死にゆく者には何もしてやれない、と殺しを生業にしてきた男はわかっていたのかも知れない。

「ジャロ様はいずれお父上を超えるほどの立派な騎士となり、リュウケイビッチ家を再興される、とこの不肖パドルめは確信致しました。ですから、何も心置きなく旅立てるというものです」

そう言ってから、

「いや、ただひとつ、お嬢様の花嫁姿を見届けられなかったことだけは残念ですかな」

いたずらっぽく冗談を飛ばしたので、「おまえというやつは」とナーガはとうとう涙をこらえられなくなる。最期に及んで平常心を崩さない、真の騎士と呼ぶべき立派な家臣を持った自分はなんという幸せ者だったのか、と失う間際になって痛感させられる。

(ぼくはどうしようもない愚か者だ)

ジャロは泣き続けて顔を上げられなくなっていた。パドルからもらった褒め言葉でかえって自らの馬鹿さ加減に気づかされたのだ。心の有り様は正しかったとしても、自分一人の身を守れなかったばかりか、頼りにしていた人を失う羽目になったのは、少年の行動が原因であることに疑いの余地はなかった。自分が殺したも同然だ、と思ったからこそ身を屈めて涙を流すことしかできない。

「ほら、お二人とも、そんなにお泣き召されるな。じいによく顔をお見せ下さい」

ぽん、とそれぞれ肩を叩かれて、姉と弟は顔を上げパドルをじっと見つめ、老人もまた2人を見つめ返す。18歳の少女と11歳の少年、まだ十分に成長してはいない2人が戦争が終わってもなお混乱が続く世界を無事に渡っていけるかどうかはわからない。しかしそれでも、

(あのお方がついていてくださる)

「金色の戦乙女」が決してナーガとジャロを見捨てはしないだろう、という確信があった。この戦いを乗り越え、そして歩むべき道を指し示してくれる、と心から思えたから何の不安もなく逝くことができる。

「おさらばでございます」

別れを告げたパドルの目に映る2人の顔が次第にぼやけていき、心から忠誠を誓い、魂までも捧げた少年と少女のことだけを考えたまま、前半生を騎士として、後半生を執事としてそれぞれ戦い抜いた男は長い生涯の終わりを迎えた。

「ジャロ、さっきはすまなかった」

パドルの死に顔を見つめながらナーガが弟に低い声で詫びる。

「姉上?」

ジャロが振り向いた先には、涙に触れた少女騎士の横顔があった。

「おまえだって大変だっただろうに、さっきは怒ったりして、殴ろうとして本当に悪かった」

その言葉には謝罪の念だけでなく、頼れる執事を失った虚無感が込められていて、少年は返す言葉もなく、姉の身体を強く抱きしめ、そのまま2人は声を上げて泣き始める。

(おじいさまもパドルもいなくなってしまった)

祖国を追われ、アステラへと逃れる過程で多くの家来と知己を失ってきたが、それでも耐え切れたのはいつも傍らにパドルがいてくれたからなのに、励まし叱ってくれた執事はもうこの世の何処にもいない。ただの家来ではなく大切な家族を失ったのだ、と気づいたナーガの泣き声はますます大きくなるが、止めようとは思わなかった。悲しむことが、涙を流すことがパドルへの弔いになる、という気がしたのだ。親しい者を亡くした痛みと苦しみを隠すことなく曝け出す「蛇姫」とその弟の叫びは炎の燃え上がる音にもかき消されることなく、モニカとマルコは共に涙を流し、「影」は黙ってあらぬ方向を睨み、ハニガンはモクジュの娘のいつになく弱々しい姿を痛ましげに眺めていた。そして、

「そろそろ決着をつけるぞ」

パドルの亡骸とナーガとジャロの泣き声に背を向けて、セイジア・タリウスはヴァル・オートモと正面から向かい合っていた。


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