第140話 暗夜の葬送曲(その8)

ひゅんっ! ひゅんっ!

甲高い音と共に夜の空気を裂いて矢がカリー・コンプへと飛んでいく。攻撃をまだ命じていない独断の行動だったが、シェリダンは部下を責めようとは思わなかった。彼らの前に立っている盲目の青年が脅威であることを、部隊を率いる右翼長だけでなくマズカ帝国随一の勇猛さを誇る(人によっては野蛮とも言うが)荒熊騎士団の戦士たちは感じ取っていたのだろう。たったひとりの痩せた詩人を本気で恐れるとは、などともはや誰もわらいはしなかった。たったひとりでも軍団に勝てると信じているからこそ、この歌うたいは深夜の路上に立っているのだ。そして、セイジア・タリウスも勝利を確信した上で彼をこの場に寄越している、とシェリダンは感じていた。この男にどんな力があるかはわからないが、一刻も早く倒した方がいいに決まっていた。だからこそ、何本もの矢が歌うたいへと放たれたわけだが、

「当たりませんよ」

爽やかな笑みとともにカリーが漏らした言葉の通り、命中するはずの矢は見当違いの方向へ飛んでいき、彼の身体にはかすりもしない。そんな馬鹿な、と焦りながらも兵士たちは立て続けに飛び道具を操るが、やはり当たらない。この優男は魔法を使うのか、と荒くれ者の心に恐慌の大きな波が立つが、

(なんというやつだ)

軍団のリーダーだけあってシェリダンだけは奇術の種を見抜いていた。詩人は騎士たちが弓を引き絞るのと同時に手にした楽器をかき鳴らして手元を狂わせたのだ。といっても、その響きを弓兵が聞き取ったわけではない。人間の可聴域から外れた音で知らず知らずのうちに体に不調を生じさせた、というのが事の真相である。楽器の弦でもって弓の弦を制した詩人のテクニックに驚嘆しながらも、

(突撃する)

それしかない、と荒熊騎士団右翼長は覚悟を決める。強引だろうと前に突っ込んで圧倒するしかない。全身全霊の勢いで疾走する兵馬を止めることはこの天才でもさすがに無理なはずだ。止められるものならやってみるがいい。心の器から闘争心が溢れかえりそうになるのを感じながらシェリダンが吶喊の叫びを上げるよりもわずかに早く、

「やっと今夜の演目が決まりました」

カリー・コンプが白い歯をきらめかせて微笑んだ。何を歌おうかずっと迷っていたのだ。小夜曲セレナーデ円舞曲ワルツもいいが、やはりあれがいい、と「楽神」が心を決めたのは、かすかに鼻を衝いた匂いだった。彼の鋭い嗅覚は迫り来る戦士たちの体に染みついた死と血の臭いを嗅ぎ取っていた。

「お代として、あなた方の心を頂戴することにしましょう」

そう呟くなり、カリーの両目が、かっ、と音を立てて見開かれ、瞳のない白眼の輝きが暗黒を照らし、詩人渾身の演奏が開始された。

最初の爪弾きは、筆舌に尽くしがたいほどに不快なものだった。この世界のありとあらゆるゆがみとひずみがこめられた音響はシェリダンをはじめとした荒熊騎士団の精鋭たちに耳の穴が掘削されているのかと思うほどの苦痛を与え、三半規管を激しく揺さぶった。そして、

(なに?)

音楽によって異変が生じたのは聴覚ではなく視覚だった。男たちの視界が完全な闇に閉ざされていた。いや、今夜はもともと月も星もない暗い夜だったが、それでも木々の輪郭くらいはうっすら見えていたのに、今ではそれすらも感じ取れなくなり、隣で並走している仲間も乗っている馬も、果ては目の前にかざしているはずの自分の手までもまるで見えなくなっていた。突如として宇宙空間に抛り出されたかのような孤独に襲われたのはほんの手始めでしかない。

「みなさんには葬送曲を捧げましょう」

レクイエム。魂を鎮め、悪魔を憐れみ、死者を弔う歌。カリー・コンプは今からそれを歌おうとしていた。序曲を弾き終えた「楽神」の鍛えられた咽喉から発せられた声は、夜啼鳥ナイチンゲールのさえずり、亡者の咆哮、死神の哄笑、冥王の宣告、その全てに似ていてその全てと違っていたが、人間世界から隔絶した美しいものであることに疑いの余地はなかった。そんな美声を聞いた者はもはや正気でいることはできず、生きながらにしてこの世の地獄へと堕ちていくしかない。

「うわああああっ! うわああああっ! うわああああっ!」

シェリダンの後ろから無数の何者かがついてくる。いずれも老若男女の区別もつかないが、土気色の肌をして目から鼻から口から血を垂れ流しているところを見ると、生きている者であるはずがなかった。死者だ。それも彼によって死をもたらされた罪のない人々だ、というのが何故かわかっていた。騎士として生きている間に、直接手にかけた者、そうでなくても間接的に死に追いやった者が、あまりにも大勢いた。

「おれのせいじゃない。おれが悪いんじゃない」

必死の弁明も既に命をなくした人々の耳には届かず、声にならない苦鳴を上げながら男に追いすがる。シェリダンは全速力で駆けているのに、動きののろい死人の群れを何故か振り切ることができない。それだけでなく、横からはたくさんの枯れ木のような腕が騎士の身体につかみかかろうとする。長く伸びた爪に引っ掻かれて肌のそこかしこに切り傷を作りながら叫び続ける男の行く手に黒い靄のようなものが浮かぶ。

「おまえは」

熱のない陽炎の中から浮かび上がってきた姿形を見て、荒熊騎士団右翼長は全身が凍り付いて動けなくなる。彼の目の前には、もう死んだはずの女がいた。「必ず守る」と言ったのに、彼が約束を破ったがために無惨な死を遂げた女だ。忘れ去ろうとして長い間思い出すこともなかったのだが、記憶は消せても罪は消せない、という教訓を得た男に青ざめた肌を持つ女は腐臭をまとわりつかせながら優しく頬を寄せる。死の接吻の甘く冷たい味を感じた瞬間に、シェリダンの全身に猛毒が回り、彼を追いかけてきた死者たちと同じように身体の穴という穴から鮮血が噴出する。

「許してくれ。もう許してくれ」

悔悟の叫び声もむなしく、騎士の身体は地底を彷徨う屍たちによって引き裂かれていく。首を胴体から切り離されても尚も死ぬことのできないシェリダンの耳には、遥か天空で奏でられる葬送曲が流れ続け、同じ歌声は彼以外の全ての騎士にも届いていた。

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