第141話 暗夜の葬送曲(その9)

カリー・コンプの本気の歌唱によって、荒熊騎士団の戦士たちは全員地獄に落ちたが、彼らがみている悪夢はそれぞれ違っていた。ある者は足から這い上ってきた黒い甲虫に全身を食い荒らされ、ある者は生きたままハゲタカにはらわたをついばまれた。またある者は死んだ父親から絶えることなく罵倒され続け、別の者は悪童からひどいいじめを受けた(その男も何故か子供に返っていた)。「楽神」の歌にはその人間が最も恐れるものを顕現する力があるのかもしれなかった。恐怖のあまり絶望して震え上がりのたうち回る者が続出する中で、

「野郎! てめえっ!」

ひとり立ち向かおうとする男がいた。彼はもともと人並み外れた勇猛さを持ってはいたが、目の焦点が合わなくなり頭髪が逆立っているところを見ると、パニックを起こして精神の箍が外れ、狂気の一歩手前でやぶれかぶれになっている、と考えるのが正しいようであった。それまで夜の森にいたのにいきなり、極彩色の乱雲が渦巻き熱風が吹きすさぶ荒野に移動していたのだから、冷静でいられるはずもなかったのだが。

「おれがただでくたばるとでも思ってるのかよ!」

迫り来る醜怪な悪鬼の大群を前にして、騎士は腰から大刀を抜き払った。どうしてこんなことになっているかはわからないが、むざむざやられるつもりはなかった。死ぬにしても力の限り反撃してたくさんの敵を倒すつもりでいた。死出の旅の道連れを一人でも多くしてやる、という凄愴な決意が男を突き動かす。

「だあ! おらあ!」

横殴りの一撃が怪物どもを薙ぎ払う。鋼の刃はぶよぶよした肉塊をいともたやすく切り裂き、傷ついたモンスターは「ををををを」と聞くに堪えない叫びをあげてのけぞる。

「ははは! なんだ、大したことねえな」

見掛け倒しかよ、と勢いを得た騎士はさらなる反攻に打って出る。長大な剣が腐肉を潰し、粘液を撒き散らすのに興奮を覚えながら、何体もの異形を斬り伏せていく。

「さあ、次はどいつだ!」

と叫んだとき、ぱっ、と目の前が暗転した。

「は?」

気が付くと、また真夜中の山道に戻っていた。いや、最初から何処へも行っていなかったのかもしれない、と感じた男の鼻腔にぬるく生臭い空気が入り込んできた。

「は?」

もう一度声を出したのは異状に気付いたからだ。さっきと同じ森の中がさっきとは違っていた。

「ううううう」

共に行軍していたはずの仲間たちが倒れていた。血を流し倒れ込み呻き声を上げている。それはまだマシな方で、手足がちぎれ首が飛び、もはや声も挙げられない屍と化した者も多くいた。

「おい! いったいどうしたんだ?」

敵襲か? そんな気配などなかったのに、と考えてから、男は恐るべき事実に、信じたくない真実に気づいてしまう。

(おれがやったんだ)

握りしめた剣が血でそぼ濡れているのが犯行の決定的な証拠だった。そんな馬鹿な、と思いたかったが、彼の手に残る斬撃の感触が目を背けさせてはくれなかった。おれが仲間を殺した。共に戦場を駆け抜け、毎日のように酒を酌み交わしてきた気のいいやつらをこの手に掛けてしまったのだ。がたがた震えながらも武器を放せない右手に、

「え?」

誰かがそっと触れてきた。それが骨だけの手であるのに愕然としながらも顔を挙げると、手だけでなく顔にも肉がついていなかった。黒いフードをかぶった骸骨、100人が見れば100人とも「死神だ」と答えるに違いない姿がそこにはあった。幻だとしてもあまりにありきたりすぎて、おのれの想像力のなさに泣きたくなったが、どういうわけか死神は彼に対して好意を示しているようで、目玉のない眼窩の奥底につながっている虚空から、これから何をなすべきか、指し示してくれているような気がした。

(そうか)

答えを理解した騎士が躊躇することなく握りしめた剣で自らの喉を貫いたとき、「そうだよ。その通りだよ」と言わんばかりに死神は小さく頷いた。仲間殺しの大罪は命をもってしてやっと償えるものなのだ。半ばまで断ち切られた頸部からやってくる激痛も、地面を叩く血飛沫の音も、男は全てを福音として受け取っていた。

「おいで」

そして彼は死神の手に曳かれて落ちていく。これから向かうのは何もない場所だ。そこにたどりついた肉体を失った精神は、いつか来るはずの終末をひたすらに待ち望むことしかできないのだが、何もない場所に終わりがあるはずもなく、罪深い魂に安寧が訪れることは決してなかった。


「ふう」

カリー・コンプは胡座をかいたまま木に背中を預けた。ターバンを外し、くすんだ銀髪をかき上げると、ぽたぽた、と汗の雫が飛んだ。一世一代の熱演によって体力の9割以上が失われ、ぜえぜえ、と荒くなった息を整えることもできずにいた。

「どうにかやり終えました」

演奏を終えた詩人の胸中は複雑だった。全力を解放した喜びは確かにあって、性交の何倍もの快感を味わい(彼には幾度もの情事の経験があった)、甘い余韻に手足が痺れるのを感じていたが、それと同時に、

(今回だけにしておいた方がいい)

とも思っていた。歓喜と同時に嫌悪感もまた彼の中にはあったからだ。大好物を飽食してかえって嫌いになってしまうように、強すぎる快楽は拒否反応を生じるのかも知れず、カリー・コンプは自らの力を禁じることをあらためて心に固く誓っていた。

そして、彼のすぐそばでは50人近くの騎士たちが倒れていた。その全員が意識を失い、戦いに臨むのはおろか、正気を取り戻すことすら難しいように思われた。「楽神」の奏でた葬送曲が、屈強な男たちの心をここではない何処かへと連れ去ったのだ。それだけではなく、微風に乗ってかすかに漂ってくる血臭もまた、歌うたいの演奏によってもたらされた惨禍に違いなかった。自分のせいだとは思いたくはない。だが、そのつもりがなくとも、村を守るためであっても、彼の歌で誰かが傷つき誰かが死んでいったことから目を背けてはいけない、とまっすぐな心根を持つ若者は真剣に悩み続ける。しかし、それでも、

(わたしをなすべきことをしたのだ)

愛するセイジア・タリウスから与えられた使命を果たした、その事実が誇り高い詩人を辛うじて救っていた。早く彼女に会いたい、と思いながらも、立ち上がるだけの力もなく、

「少しだけ休ませて下さい」

カリー・コンプは支えられなくなった頭をがっくりと落とし、闇の中で一人うずくまった。

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