第87話 女占い師といくつもの再会(その2)
(おじさま?)
リブ・テンヴィーが目の前の人物がアンブローズ・タリウスだと気づけたのは、少女時代に何度となく会ったことがあったからだが、普通の人間が彼をかつて爵位を持っていた人物だと気づくのは不可能だと思われた。丸々と太った身体―リブが記憶していたよりも肥満は進行していた―に貴族にふさわしい威厳らしいものは見えず、麦藁帽と首に巻かれた手ぬぐい、そしてワイシャツとズボンと長靴は泥まみれになっていて、肩に担いだ鍬の先端にもやはり泥が付着している。何処からどう見ても田舎暮らしの農夫にしか見えない。しかし、女占い師はそれを悪いようには思わなかった。
「家督を譲ってから、父上は悠々自適の日々を送っておられる」
と、かつてセイジア・タリウスからもたらされた知らせが正しかったことを知った。領民に混じって農作業をしている、という驚くべき情報も確かなものなのだろう。
(素敵な隠居生活を送っているみたいね)
よく日に焼けた先代伯爵の丸い顔には苦悩や苦労など見当たらず、老境にある男が充実した生活を送っているのはリブほどの慧眼はなくともすぐにわかるはずだった。貴族が一線を退くことは案外難しく、引退を宣言しておきながら尚も家内を支配しようとして後継者たちと衝突するケースも珍しくなかったが、アンブローズ・タリウスは恬淡として自らの地位に執着することなく、息子に全てを託して潔く身を引いたのだろう。娘に先立って
「あなたのような若い方が、おひとりで何をなさっている?」
先代伯爵は門の前で立ち尽くしている女性がリボン・アマカリーだと気づいてはいなかった。かつてこの屋敷を足繁く訪れた可愛らしい令嬢はあまりに美しく成長していたために、気づかなくても無理はなかったのだが(彼女に恋い焦がれていたセドリックですら気づかなかったのだから)。
「ええ。伯爵様にお会いしたくて、ここまでやってきたんですけど」
それを聞いた男は、むう、と大袈裟に息を吐いて、
「こんな素敵なお嬢さんを待たせるとは、せがれもけしからんことをする。基本的にはよくできたやつだが、女性に対して優しさが欠けるところがある。そんな朴念仁だからいまだに独り身なのだ」
愛妻家として知られた男は息子に対して不満を表明してから、すぐに表情をやわらげて、
「そういうことなら中に入るといい。ちょうどわたしも昼飯を使おうと戻ってきたところだ」
さあ、どうぞ、と屋敷の方へ向かって歩き出した太った男に招かれて、上流階級らしからぬフランクさにリブはかえって戸惑ってしまうが、
(この人だって一応前の当主だったんだから大丈夫でしょ)
失礼に当たりそうなことを考えてしまってから歩き出そうとしたそのとき、邸宅から何者かが勢い良く駆けてきて、がしっ、とそのままリブの身体を強く抱きしめた。
「リブ! ああ、リブ! よく来てくれたね。まさか本当に来てくれるとは思っていなかったが、でも、とても嬉しいよ」
セドリック・タリウスの口から奔流のごとく喜びがほとばしり、抱擁してくる腕の力が強すぎて占い師は返事をすることができない。そして、
「あ」
熱烈なくちづけを受けていた。出会って3秒でいきなりこんな、と当惑しながらも、そのときの彼女にできたことといえば、ひたすらに押し寄せてくる愛の情動を黙って受け入れること、ただそれだけだった。長いキスが終わり、互いに顔を紅潮させた2人は間近で見つめ合ったが、それでもまだ満足できない様子の伯爵は第2弾に及ぼうとする。
「あの、セディ、今はちょっと、そういうことはやめておいた方がいいと思うの」
もじもじするリブに向かって、「ははは」とセドリックは快活に笑ってみせてから、
「何を憚ることがあるというんだい? われわれは愛し合ってるんだ。誰だろうと止めることなどできるものか」
自信たっぷりに言い放ったが、「いえ、それがね」と言葉を濁す美女の視線の先にいる人物に気づいて、
「あ」
伯爵は一瞬で硬直する。父が呆然とした表情を浮かべているではないか。息子のラブシーンを余すところなく目撃してしまったのだ。
「あの、父上、今のはその、なんというか。まさかこのような場所にいらっしゃるとは思わず。恐悦至極にして汗顔の至りでありまして」
父親を尊敬する孝行息子は姿勢を正そうとするが、
(えっ?)
抱きしめていたはずのリブが今度は抱きついてきて離れられない。必然的に痴態を父に引き続き見られることになる。
「なあ、リブ。今だけはちょっと離れてくれないか?」
慌てふためくセドリックの胸に頬を寄せながらリブはくすくす笑って、
「なによ。わたしにくっつかれるのは嫌?」
そう言ってますます身体を密着させてくる。嫌なわけがない。ただ、今だけは困るのだ、と言いたかったが、だからこそ彼女はこんなことをしているのだ、と気づく。子供の頃に、リボン・アマカリーに数え切れないほどからかわれたものだが、困っている少年を見る少女の喜びに満ちた表情が脳裏に甦る。どうやら性格は昔から変わってないらしい、と思いがけない発見をした気分になるが、今はとりあえず身体を離すのが急務だった。それでも美女を振りほどけずに弱っていると、「こほん」と父アンブローズが咳払いをしたので、セドリックとリブは抱き合いながらそちらを見た。叱られるのだろう、と両者ともに思っていたが、
「おめでとう」
先代伯爵が笑顔とともに発したのは思いがけない言葉だったので、美男と美女の眼は点になってしまう。
「え? 父上、それは一体どういうことでしょうか?」
驚きのあまり表情を失くした息子に訊ねられた農夫にしか見えない貴族の男は、
「セドリック、おまえはこのお嬢さんと結婚するつもりなのだろう? それがめでたくないわけないじゃないか」
きっぱりと言い切った。路上での接吻から婚儀になるとは、あまりに飛躍が過ぎるので若い男女はすっかり混乱してしまうが、
「何かあったに違いない、と思っていたのだ。最近のおまえはすっかり変わった。以前はずっと緊張し通しで、傍で見ていて不安で仕方がなくてな。わがタリウス家を守ろうとする気概は立派だが、もっと余裕を持たねばいずれ無理が来る、と心配しておったのだ。しかし、数か月前あたりから言動も物腰も落ち着いてきたので、何がきっかけになったのか、ずっと気になっていたのだよ」
その理由がやっとわかった、とアンブローズは小さな目にほのかな光を宿した。
(父上に心配をかけてしまっていたのか)
地位を譲ってから、父がセドリックに何事かを申し渡すことはほとんどなく、放任されていたといってもよかったが、しかしそれでもずっと見守ってくれていたのだ。肉親の愛情の深さに気づいて若者は言葉を失うしかない。
「リブさん、と言われたか」
「はい」
穏やかな声をかけられて、リブはセドリックからようやく身体を離した。優しい人に対して礼儀を守りたい、という気持ちが起こっていた。
「せがれのことをよろしく頼みます。まだ会ったばかりだが、それでもあなたが悪い人でないのはよくわかる。きっと良縁に違いない。2人とも幸せになれるはずだ」
そう言って、先代伯爵が深々と頭を下げたのに女占い師はショックを受ける。正体不明の人物に貴族が礼を取るのがいかに異例であるか、かつて高貴な身の上だった彼女にはよくわかったのだ。それ以上に、
(そんなに簡単に結婚を認めちゃうなんて)
それこそが最大の衝撃だった。しかし、「決して簡単なことではない」とすぐに思い直す。身分や財産といった外界のしがらみよりも愛し合う2人の気持ちを何よりも優先すべきだ、というのはアンブローズ・タリウスの信念であり、信念を抱くだけでなく実行する勇気を彼はしっかりと持ち合わせていることがわかった。
(さすがはセイのお父様ね)
最強の女騎士の度胸は父親から譲り受けたものなのかもしれなかった。冴えない男の内面に輝ける魂が隠されていたことにリブは胸を打たれ、そして、
「ふつつか者ですが、こちらこそよろしくお願いします」
自分から頭を下げていた。これに驚いたのはセドリックだ。
「えっ? リブ、今のは」
まるで花嫁が未来の父親に挨拶したみたいじゃないか、と言おうとして、
「わたしは最初からそのつもりで来たのよ?」
リブに機先を制された。華やかな笑顔を見た瞬間、驚愕と歓喜で現在伯爵の地位にある青年の頭はまっさらな白に染まりきって、
「きゃっ!?」
もう一度リブを強く抱きしめる。思いを受け入れられた感動が、彼から他の選択肢を奪っていた。
「ちょっと、ねえ、セディ。今はダメなんでしょ?」
今度は美女が慌てる番だった。構うものか。もう決して離すものか。セドリック・タリウスにはそんな思いしかない。腕の中から伝わる抵抗すら快かった。邸宅の前で抱擁する若い男女を見守りながら、
(セドリックはとてもいい恋人を見つけたようだ)
アンブローズ・タリウスは頷いてから、帽子の庇に手をやると、
(もちろん、きみの方が素晴らしい女性だがね。セシル)
晴れ渡った蒼穹を見上げて、今は亡き妻を思った。死別して長い時間が経っても、先代伯爵は変わらず彼女を愛し続け、今日の空の青さのように深く澄み切った思いを、命が尽きるその日まで抱え続けるはずだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます