第79話 祝典の裏で(前編)

夕暮れの森を耳を覆わんばかりのセミの鳴き声が包み込んでいた。だが、その一角だけは音もなく静まり返り、まだ冷めやらぬ夏の余熱が地面から立ち昇って陽炎が揺らめいている。木の根元で「影」が膝を抱えてしゃがみこんでいた。一方的に付け狙っていたセイジア・タリウスとの最後の勝負に惨敗した黒い刺客は生きる気力を失くし、いつも以上に陰鬱さを顔面に貼りつけた男に昆虫が寄り付かないのも当然のことであるように思われた。

(あの娘か)

顔を上げずとも、男の精巧なセンサーは何者かの接近を感知し、その人間の正体をも看破していた。モニカとかいう彼を忌み嫌っている少女だ。初対面があまりに悲惨すぎて、好感を持たれるはずもなかったが、それにしても嫌悪の度が過ぎてうんざりさせられていた。そんな娘が何故やってきたのか、その理由まではさすがの仕事人にもわかりはしなかった。

(どうしてわたしがこんなことを)

モニカは「影」を一目見るなり嫌気が差していた。陰気な男はもともと嫌いだったが、最近ますます根暗になっているのも気に食わなかった。黄昏時だからといってたそがれる必要はないだろう、とよくわからない怒り方をしてしまう。なので、

「なんで結婚式に来ないのよ?」

一言目から不平を言い立てていた。妹として猛反対したのだが、姉のアンナは「影」も式に招待していたのだ。

「変態さん、最近は真面目に働いているようだから、呼んであげましょう」

心が広いにも程がある、「変態」を客人として扱うのはどうか、と呆れてしまったが、花嫁の意見は一番に尊重されるべきなので、最終的には容認せざるを得なかったのだ。

「おれのような人間が顔を出したら、村の連中が嫌な思いをする」

少女の文句を聞いた「影」がせせら笑うと、

「それはわたしもそう思ったけど」

初めて彼女と意見が合ったが、こんなことで合いたくはなかった。

「でも、招待したお客さんが来てくれないと、呼んだ人は嫌な思いをするのよ。『こちらに何か落ち度があったんじゃないか』ってね」

つまり、式に出ようが出まいが、嫌な思いをさせるのは避けられなかったというわけか、と「影」はおのれの因果な身の上を嘲笑いたくなる。

「おれが勝手に決めたことだ。あんたは悪くない、と姉さんに言っておいてくれ」

そのように告げてから、

「それを言うためだけに、わざわざここに来たのか?」

「違うわよ」

不機嫌な声が聞こえたので、そこで初めて顔を上げるとモニカの姿が目に入った。白のシンプルなワンピースを身につけ、明るい色の髪には青い花の飾り物があしらわれている。薄いメイクと泣き腫らした目が相乗効果を得たのか、いつにない奇妙な美しさを見せていて、女性を苦手にしている男も思わず見とれてしまいそうになる。

「せっかくの結婚式で、そこまで泣くことがあるのか」

不気味で陰鬱な男が噴き出しそうになったのに腹を立てたのか、

「わたしだって泣きたくなんかないけど、おねえちゃんを見ていたら涙が止まらなくなっちゃったのよ」

姉が幸せをつかんだことを喜んだのか、自分から離れていってしまうのを寂しく思ったのかはよくわからない。あるいは、結婚という儀式は女性だけに特別な感興を与えるものなのかもしれず、それは男には理解の及ばない領域でもあるのかもしれなかった。

(こんなやつと話したくない)

さっさと用事を済ませてしまおう、と決めたモニカは、

「はい、これ」

手にぶら下げていたバスケットを「影」に向かって差し出した。差し出した、と言っても黒ずくめの男を警戒する娘はだいぶ距離を取ったままだったので、

(おれから近づかないといけないじゃないか)

苛立ちながらも、やむなく「影」は腰を浮かして自分から荷物を取りに行く。

「おお」

籠の中身を確認した男は思わず声を上げた。鳥の腿肉やパンやケーキが詰め込まれていた。結婚式で出されていたごちそうだろうか。

「セイジア様が作ったものよ」

「あいつが?」

驚きながらも納得もしていた。そもそも初めて会ったとき、セイジア・タリウスは変装して大衆食堂で働いていたのだ。料理の腕もなかなかのものだった、といまいましく思いながらも認めざるを得ない。

「ひとりぼっちでお腹を空かせていたらかわいそうだ、ってセイジア様が心配して、持っていくように言われたの」

人を野良犬みたいに扱うんじゃない、と思いながらも空腹だったのは確かだった。

「そういうことなら、ありがたくいただくことにしよう」

手を合わせてから食事に取り掛かる。憎い相手の作ったものだが、料理に罪はない。裏社会で独り立ちするまで苛酷な境遇に長く甘んじていた男は、食に対しては常に真摯に振舞っていた。日に一度わずかな飯にありつければマシな暮らしを送ったこともあった。腐った残飯で無理矢理腹を満たしたこともあった。だから、提供された料理には決して文句をつけることはなく、たまたま立ち寄った食堂の味付けに因縁をつけていたごろつきを叩きのめしたことや、一宿一飯の恩義を返すために依頼人を裏切ったこともあった。そのために余計なトラブルに巻き込まれたりもしたのだが、

(くだらん昔話だ)

たとえいい思い出であろうと彼にとっては不要な物でしかない。がつがつと食事に没頭しているうちに「影」はモニカの存在に気が付く。もう帰ってもいいはずなのに、立ったまま男の様子を眺めている。

「まだ何か用か?」

大ぶりなチキンにかぶりつきながら訊ねると、

「用ってわけじゃないけど」

村の少女は何かを逡巡している様子でもじもじしている。

「便所に行きたければ早く行け」

「何言ってるのよ、この変態!」

怒鳴ったことで踏ん切りがついたのか、

「ねえ、あんた、セイジア様に負けたの?」

モニカはそう訊ねてきた。

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