第53話 女占い師、デビューする(その7)
リブ・テンヴィーの豊かな2つのふくらみに向かって伸ばされた船乗りの太い右腕が空中で止まる。女占い師が両方の掌で男の拳をそっと挟み込んでいたからだ。
「おっ。なんだ、おねえちゃん。あんたもやる気になったのか?」
美女の方からアプローチを仕掛けてきたのに、船乗りの頭はさらにヒートアップし、後ろで見守っていた連中は失望と嫉妬のこもった溜息を吐く。だが、
「こういうことはあまり感心しないわ」
さっきまでとは打って変わって、新米占い師の声が落ち着いたものになっていたのに、その場にいた男たちはみな背筋に震えが来たのを感じた。
「ここは占いのためのブースなの。おいたをしてはダメよ」
くすっ、とリブは紫の瞳を細めて微笑んでから、「そうね」とつぶやいて、
「ねえ、あなた」
と対面に腰掛けた船員を見つめて、
「短気は損気よ」
いたずら者の生徒を諭す女教師を思わせる口調で告げた。
「なんだって?」
「後先のことを考えず、その場の勢いだけで動くとあなたのためにならない、って言ってるの。お酒、賭け事、喧嘩。そんなことばかりにうつつを抜かしているから、いつまでたってもうだつが上がらないのよ」
ぽかん、と船乗りの口が大きく開き、仲間たちも呆気に取られているところを見ると、リブの見立ては的中しているらしい。半裸に近い恰好の美少女が人知の及ばない力でもって男の素性を見抜いた、と恐れおののいているのかもしれないが、彼女にしてみればわかり切ったことを言ったまでのことだった。まず、船乗りがさほど若くないのはすぐにわかる。16歳の娘の倍以上の年齢の可能性すらあった。にもかかわらず、男の身なりは見すぼらしく、金の持ち合わせもあるようには見えない。つまり、船において何らかの役職についているわけでもなく、いまだに下っ端に甘んじていることは見当がついた。それから、今まさにリブが捉えている角ばった拳からも男の性格をうかがい知ることができた。
「単純な推理よ」
誰かの称賛を受けたとしても、女占い師は涼しい顔をして受け流すだけだっただろう。彼女自身が痛感しているように、師匠のテンヴィー婆さんほどの超能力はリブにはない。だが、その代わりに豊富な知識と鋭い洞察力がこの美女にはあった。この2つの武器でもって、その後の人生においてもリブ・テンヴィーは世間と渡り合っていくことになるのだが、最初の実験台にされた船乗りとしてはたまったものではなく、
「あんたなんかに何がわかる」
と怒鳴っていた。真実を見破られた不快感が男を激昂させたわけだが、
「わかるに決まってるじゃない」
リブは噴き出しただけだった。ほんの3分前まで肉食獣に追われる獲物のようにびくびくしていたとは思えないほどの変貌を遂げた娘はさらに、
「だって、わたしは占い師なんだから」
と言いながら、両掌にとらえた拳を自分の身体に引き付けようとする。船員の手が深い胸の谷間に導かれていくのを見て、「レッド・パール」の男性客ならびに男性従業員は嘆声をあげてしまう。あの男に成り代われるならどんな罪だって犯そう、と羨ましさのあまり馬鹿げたことを考えてしまうが、当の船乗り自身は歓喜ではなく恐怖を味わっていた。彼女に一度触れたなら、決して抜け出せない沼に嵌まって戻れなくなる、という確信が一気に湧き起こる。虎鋏よりも
「あら。意外とかわいらしいところがあるのね」
リブはくすくす笑っただけだった。しつけのなっていない飼い犬の愚行に苦笑いする女主人にも似た余裕を見せながら、
「ほら。もっとあなたの中をよく見せて」
椅子から腰を浮かすと、男の顔に繊手を伸ばし、長く優美な人差し指で顎の割れ目をそっとなぞった。その瞬間、船乗りは、どたっ、と大きな音を立てて背中からひっくり返っていた。この世のものとは思えない快感が、彼のキャパシティを越えてしまったらしく、白目を剥いて口からぶくぶく泡を吹いている。少なくとも今夜のうちは再起不能で、3日後に復活できれば幸運なのかもしれなかった。
(やりすぎちゃったかも)
リブは口に手を当てて反省する。だが、順番待ちをしていた男たちは先客が失神したのに恐れをなすどころか、
「次はおれを占ってくれ!」
「いや、どうかわたしの運勢を見てください」
「ぼくの方が先だ」
「わしもじゃ。わしもじゃ」
狭いブースへと殺到してきた。人参を鼻の先にぶら下げられた馬よろしく、美女を目指して大陸の果てまでも駆けていきそうな勢いだ。
「押さないで。慌てなくても、みんなちゃんと占ってあげるから」
リブが落ち着くように言っても、美女を求める男たちのスタンピードは止まらない。バーゲンセールじゃあるまいし、とデビューの夜から大人気を得てしまった新人占い師は困惑しながらも、一人一人の相手をしっかりこなそうとする。その一方で、客に無視され座席に取り残されたホステスたちは「勝負にならない」と諦め顔になって乱暴な手つきで水割りを作り出す。自棄酒でも飲まなければとてもやっていられない。
(えらいことになっちまった)
弟子を救うためにブースへ急いで駆け付けようとしていたテンヴィー婆さんは呆然と立ち尽くしていた。遅ればせながら、弟子の能力を過小評価していたことに気付かされる。よく出来た娘なのはわかっているつもりだったが、これではあまりに出来すぎている。
(あたしはとんでもないものを目覚めさせちまったのかもしれない)
多くの人の運命を変えずにはおかない巨大なエネルギーが解放されたのを実感していたが、
(まあ、いいさ。こうなった以上、あたしがずっとあの子についていてやることにするから)
だから、心配することなど何もないはずだ。それは老占い師にとっても重大な決断だったが、彼女は春の陽光のような暖かな微笑みを浮かべただけで、客の相談に乗っている愛弟子の生き生きとした顔をじっと見つめていた。
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