第28話 ある令嬢の初恋(その1)

晴れ渡った青空の下、緑に輝く芝生の上をブルネットの波打つ長髪をなびかせて一人の少女が駆けていく。

「おばかなセディ。セディはおばか」

楽しげなメロディを口ずさむ唇は愛らしいピンクに染まり、輝く紫の瞳を見た者は彼女の聡明さを決して疑いはしないはずだった。

「セディはおばか。おばかなセディ」

ふふーん、と小さく尖った鼻先を上に向けて、午後の光の熱さを感じていると、

「もうっ。それはやめてくれって言ってるじゃないか」

背後から悲鳴が聞こえてきたので、少女は足を止めて振り返った。花柄のロングドレスの裾がふわりと浮き上がる。

「その歌は嫌だ、ってずっと言ってるだろ?」

はあはあ、と息を切らせた少年が彼女の方に近づいてくる。金色の髪をきちんと整えているあたりに、いかにも真面目そうな性格だと想像がつく。白のワイシャツを着て、黒の半ズボンをサスペンダーで吊っている。男の子から苦情を申し立てられた女の子はそれでも笑顔を消さずに、

「だって、本当の事なんだから仕方ないじゃない」

悪びれる様子もなく言い放った。白く秀でた額もまたこの少女の知性を証明しているのだろう。

「ぼくは馬鹿なんかじゃない。この前もテストで満点を取ったんだ」

少年は顔を赤くしてなおも反論を試みるが、

「それはすごいわね。でも、わたしよりは頭がよくないでしょ?」

ぐっ、と言葉に詰まったのはそれが事実だったからだ。少女―リボン・アマカリー―に少年―セドリック・タリウス―は一度として勝てたためしがなかった。今年12歳になる、同い年の子供たちは互いに近くに住んでいることもあって、幼い頃から一緒に勉強したり遊んだりする仲だったが、より多く物を知っていてより深く世界を見つめている少女にいつもやりこめられてしまうのに少年はつくづく嫌気が差していた。といっても、セドリックの頭脳に問題があったわけではなく、それどころか彼は人並み以上の能力を持っている、と周囲からも高く評価される秀才だった。しかし、そんな秀才のすぐ近くに彼がどうしても勝てない天才がいたのだから、世の中はつくづく皮肉に出来上がっている、としか言いようがなく、才能に比例してプライドも高いタリウス家の跡取り息子はどうにかして生意気な少女をぎゃふんと言わせたい、と心の底から思って日夜努力を重ねていたのだが、その甲斐もなく今日もまた返り討ちに遭った、というわけだった。口ごもるセドリックをリボンは得意げに見つめ返し、

「わたしに勝てないなら、やっぱりあなたはおばかさんよ」

そう言いながら身を翻し、再び走り出した。

「ちょっと。待ってったら」

セドリックは慌てて追いかける。

(リボンちゃんって本当に嫌な子だ。ぼくが嫌がることばかり言ってきて)

融通の利かない少年の頭は小悪魔のような少女に対する不満で一杯になるが、

「ほら。早くここまで来たら?」

一足先に木陰にたどりついたリボンが手招きしているのを見ると、それはいっぺんに吹き飛んでしまった。早くすぐそばまで行って、彼女を間近に感じたい、としか思えなくなる。リボン・アマカリーは頭も良かったが、それにも増して美しい少女であり、セドリック・タリウスは完全に魅了されてしまっていた。

「もうすっかり暑くなったわね」

白く小さな掌で首元を仰ぎながらリボンが呟く。初夏の陽気で身体が汗ばむのを感じた。

「何か飲み物でも持ってくる?」

まだ若いが紳士らしいレディファーストの精神を身に着けたセドリックが訊ねる。

「ううん。それは後でいいわ」

そう言った少女の視線の先にはタリウス家の白い邸宅が見える。今日は少年の実家まで遊びに来ていた。

「いつも思っていることだけど」

「ん? 何の話?」

少女が何の気なしにつぶやいたことに少年が反応すると、

「あなたのお母様って本当にきれいよね」

リボンは続けてそう言った。すると、

「そんなの当たり前じゃないか。母上はこの世の誰よりも美しい方だ」

セドリックが何故か自慢げに鼻息を荒くしたので、少女は呆れてしまうが、彼の母親を賛美したのは紛れもなく本心から出たものだった。セシル・タリウスの美貌は同性であるリボンもつい目を奪われてしまうほどのもので、

「リボンちゃん。うちのセディと仲良くしてあげてね」

と優しい言葉をかけられると、高性能の小さな頭脳は完全に機能を停止して、「はい」としか言えなくなってしまう。賢い少女はおのれの美しさを当然自覚していたが、

(あの人にはかなわない)

と素直に認めていた。上には上がいる、と人生の早い時期に学べたおかげで傲慢にならずに済んだ、とリボン・アマカリーをやめてリブ・テンヴィーになった彼女はセシルに心から感謝するようになるのだが、それはまだかなり先の話である。

「あんなきれいで優しいお母様を悲しませたら承知しないわよ」

「もちろんだとも。そのためにも」

ぐっ、とセドリックは拳を握り締めて、

「ぼくは騎士になろうと思っている」

力強く宣言したが、

「あなた、いつもそう言ってるけど、やめた方がいいと思うわ」

リボンがやんわりと否定してきた。

「どうしてそんな意地悪を言うのさ? わがタリウス家のご先祖様は騎士なんだ。その伝統にのっとって生きていきたいんだ」

唇を尖らせて反論してきた少年に、

「意地悪じゃなくて、あなたのためを思って言ってるの。あなたみたいな糞真面目で優しいおぼっちゃんには向いていない、って言ってるのよ。だいたい、あなた、かけっこもわたしに勝てないじゃない」

運動神経の鈍さを気にしていたセドリックは顔を真っ赤にして、

「そういう問題じゃない。やる気さえあればなんとかなるはずなんだ」

だめだこりゃ、とリボンはこれ以上口を出すのはやめておくことにした。反論するのはたやすいが、彼を傷つけてしまいたくはなかった。

(まあ、夢に向かって頑張ろうとするのは偉いけどね)

なおもいきり立っている少年を横目で見ながら少女は微笑む。頭はいいもののおっとりして機転がいまひとつきかないセドリックを彼女はいつもからかっていたが、嫌いだったらそんなことはしていない。ルックスが良くて品のいい男の子が自分のせいで困っているのを見ると、どういうわけかとても楽しくなってしまうのだ。

(騎士になれなくて泣いているセディをどうやって慰めればいいのかしら)

先回りしてそんなことを考え出したリボンの前に、

「あにうえーっ!」

と言いながら、屋敷の方から誰かがとことこと駆けてきた。オーバーオールを着ているうえに金髪が短く切られているので男児だと勘違いしそうになるが、頭のてっぺんに、ちょこりん、とつけられた赤い髪留めのおかげで女児だとわかる。

「あっ。リボンちゃんもいる!」

青い瞳を喜びで光らせたのは、セドリックの妹の、まだ6歳のセイジアだった。

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