第29話 ある令嬢の初恋(その2)
「リボンちゃん。わーい」
腕の中に飛び込んできたセイを、
「あらあら、セイったら今日もとても元気ね」
リボンは優しく抱きしめる。タリウス家の長女はとてつもないわんぱく娘で、毎日のように家の内外で暴れ回っていて、左頬に真新しい絆創膏が貼られているところを見ると、午前中のうちに既に一悶着起こしてきたものと思われた。そして、そんな幼女がリボンにはとても愛おしくてならなかった。
「ねえ、リボンちゃん。リボンちゃんがわたしの姉上になってくれたらとてもうれしいから、うちの子になってほしいなー」
「まあ、それは素敵な考えね。でも、わたしとしてはセイにうちに来てほしいんだけど」
「えーっ? それ、ちょっと無理かもー」
「あら、それは残念」
あははははは、とリボンとセイは笑い合う。知らない人が見れば実の姉妹にしか見えない仲の良さだ。しかし、そんな様子をセドリックは腹立たしく思っていた。せっかくかわいい女の子と2人きりでいたのを、いつもしつこくつきまとってくるうざったい妹に邪魔されたのに我慢しきれなくなって、
「セイジア、おまえあっち行けよ。ぎゃあぎゃあうるさいんだよ」
邪慳に扱ってしまう。すると、
「ねえ、セディ」
リボンの声が冷たく聞こえてきて、少年は自らの過ちに気付く。さっきまでの笑顔から打って変わって、12歳の少女とは思えない殺人者のごとき冷酷な風貌に一変していた。
「わたし、妹を大事にしない人って、だいっきらい」
見る者を石と化すほどの凄味のある目つきで睨みつけられては、根性のない貴族の御曹司は「ごめん」と小声で謝るしかない。心優しい少年が本心では妹を大事に思っていることを知っている令嬢はそれ以上責めはせず、
「たったひとりの妹なのよ。優しくしてあげなきゃ駄目じゃない」
と諭した後で、「家族は仲良くするものよ」とつぶやく。その声には隠し切れない寂寥感が滲んでいた。
(そうか。リボンちゃんは)
セドリックは少女の境遇を思い出して、先程の心ない言動を反省していた。リボン・アマカリーには兄弟はなく、両親は既にこの世になかった。彼女が生まれて間もなく、アマカリー夫妻を乗せた馬車が事故を起こし、2人とも帰らぬ人となったのだ。少女は今、祖父であるリヒャルト・アマカリー子爵の屋敷で暮らしている。アステラ王国に隠然たる影響力を持つ政治家は長男の忘れ形見を目に入れても痛くないほどに溺愛していたが、それでも彼女は常に寂しさを抱えているようにセドリックには思われた。リボンに頭を優しく撫でられてうっとりしていたセイの瞳がいきなり、きらーん、と輝いて、
「あっ! ちょうちょ!」
と叫ぶなり、「まてーっ!」とすぐ目の前を行き過ぎたアゲハ蝶を追いかけて行ってしまう。一瞬たりとも大人しくしていられない6歳年下の幼女を見送って、
「セイったら、おてんばさんね」
少女は笑い、
「しょうがないやつだ」
少年は溜息をついた。再びリボンと2人きりになれたことに満足した彼は、しばらくの間黙り込む。彼女が隣にいれば沈黙さえも心地いいものだった。青空に浮かぶ小さな雲を見つめてから、
「ぼくは将来騎士になるつもりなんだけど」
と話し始めた。
「それはさっき聞いたわ」
リボンの返事はつれない。目を伏せているおかげでもともと長い睫毛がさらに伸びて見えた。本を持って来なかった代わりに、おのれの内側にある書物を読み込んでいるようにも思われた。
「リボンちゃんはどうするつもりなの?」
「え?」
急に質問された少女はわずかに戸惑いをみせてから、「どうするもこうするも」と芝生に腰を下ろして、
「あなたみたいな男の子と違って、わたしには選べる将来なんてないの」
と諦念を含んだ声で答えた。別に彼女に限った話ではなく、この時代の貴族の令嬢の人生にはきわめて限られた選択肢しかなかった。結婚こそがほぼ唯一の解答であり、その相手次第で彼女たちの人生の幸不幸はほぼ決定されてしまう、というのが現実だった。
「おじいさまは、わたしにお婿さんを貰うつもりでいるようだけど」
いかにもつまらなさそうな、それでもとても美しい顔でリボンはつぶやく。利発な孫娘をゆくゆくはアマカリー家の跡取りにしたい、と子爵はたびたび公言していた。可愛がってくれる祖父を当然愛しているにしても、少女がその話をあまり喜べなかったのは、
(おじさまとおばさまの当たりがきついのよ)
というのが一番の理由だった。アマカリー家の次男、つまり、リボンの父の弟であるロベルトとその妻エレナが後継者の座を狙っていたからだ。同じ屋敷で暮らしている叔父と叔母がまだ12歳の娘に大人げなく冷たい視線を寄越してくるのにつくづく嫌気が差していた。
「家なんか継ぎたくない」
それはリボンの本心だった。自宅ですら心が休まらないのにうんざりしていたのに加えて、そもそも貴族という存在に不信感を抱いていた。自ら働きもせず何も生み出しもせず、そのくせ能書きを垂れ流してはやたらに威張り散らす人種が、この世界にとって必要だと言えるのか、心の底から疑問に思っていた。いつだったか、そんな考えを祖父に正直に話してみたことがある。彼女と違って、貴族であることに強い誇りを持っている子爵が怒り狂って、孫から後継者の座を剥奪してくれるだろう、という計算もあってのことだったが、リヒャルト・アマカリーの反応は予想外のもので、
「そのように考えるおまえにこそ、わしの後を継いでほしい」
と好々爺そのもの、というべき笑顔になられて、リボンの目論見はあえなく大失敗に終わってしまったのだった。
(おじいさまはいったい何をお考えなのか)
人一倍聡明な娘でも人生経験を積まなければ理解できないことはあるようだ。座った拍子に花柄のスカートの裾が広がって、いつにも増して美しく飾り立てられた少女に、
「だからさ、それが問題なんじゃないのかな」
セドリック・タリウスが話しかける。
「何の話?」
わけがわからずリボンがかわいらしく小首を傾げると、
「つまり、お婿さんを貰うにしても、お嫁に行くにしても、結婚するとしたら相手が大事なわけじゃないか。だから、その、なんというか」
もじもじして意味不明な言動を続ける幼馴染にイラッと来て、
「セディ、あなた、本当におばかさんなの? もうちょっとわかるように話しなさいよ」
少女が声を上げると、それに腹を立てたのか、
「だって、リボンちゃん、きみってすごくもてるじゃないか。だから、誰か好きな人がいるんじゃないか、って思うんだ」
セドリックは顔を真っ赤にしてほとんど叫んでしまっていた。
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