第16話 「影」、村で働く(後編)

「『影』さん、いつも悪いわね」

大きく膨らんだお腹を抱えたメイが、ふうふう、と荒く息をしながら、庭にいる「影」に声をかけてきた。ここ何日か、もうすぐ出産を控える彼女の家事を男は手伝っていた。猟師をしている夫は遠くの山まで出かけていてしばらく帰れそうにないというので、誰かが助けてやらなければならない、というわけだった。

「うろちょろしてないで、大人しくしていろ」

頭巾とエプロン姿が板についてきた殺し屋が臨月の女性に冷たく言い放つが、

「またまたあ。そんなことを言っちゃって」

けらけら笑ってメイは家の中に戻っていく。粗雑な神経しか持ち合わせない田舎者には皮肉も通じないらしい、と「影」の気分はいつにも増して黒く染まる。とはいえ、ぼうっとしているわけにもいかず、「ちっ」と舌打ちしてスイッチを切り替えると、薪割りをすることにした。普通ならば、鉈なり斧なりを用意するところだが、もとよりこの男は尋常ではなく、驚くべきことに素手で薪を割ろうとしていた。

「むん」

台の上に薪を縦に置き、右の人差し指と中指で、こつん、と木目が現れた上の表面を軽く叩いた。すると、なんということだろう、薪が音もなく割れたではないか。しかも、中心から均等に分かれた、きれいな割れ方だった。超絶技巧、と呼ぶべきテクニックだったが、「影」の表情はいつものように暗いだけでまるで変化はなく、誰にでもできる単純な作業をするかのように、立て続けに指先で薪を割っていく。

「ん?」

全ての薪を割り終えようとした男の眉がぴくりと動く。誰かに見られている気がした。いや、実際に見られているのは確かめるまでもなくわかった。

「おお」

「すげーっ」

少し離れた場所から、村の少年たちが「影」の薪割りをいかにも興味津々と言った様子で眺めているのを、闇の仕事人の鋭敏な感覚はしっかりと捉えていた。

「邪魔だ。あっちへ行け」

子供が苦手な暗殺者は、ドスのきいた声で小さな野次馬を追い払おうとするが、少年たちの瞳の輝きはそれくらいでは消せるものではない。

「なあなあ、おっちゃん。どうしたらそんなことができるんだ?」

ガキ大将のマルコが鼻息を荒くして訊ねる。誰がおっちゃんだ、とイラっとした「影」は、

「ガキには関係のないことだ。いいから今すぐ消えろ」

さらに語調を強めて吐き捨てるが、

「えーっ? ケチケチしないで教えてくれよー」

そうだそうだ、と悪童たちは怪人に詰め寄ってきた。自らの言動が完全に逆効果になった「影」は狼狽する。殴りつけてやれば簡単に追い払えるだろうが、そんなことをすればセイジア・タリウスにどんな制裁を下されるのかわかったものではなく、それ以前に彼自身も子供に手を出すのは生理的かつ精神的に抵抗があった。やれやれ、と男は黒い霞のような溜息をつき、

「では、教えてやる」

と言いながら、薪を一本手に取り台の上に立てた。面倒極まることではあるが、こうでもしないと子供たちは離れてくれないだろう。親切にしているわけではなく、あくまでおれ自身のためだ、と心の中で何者かに言い訳してから、

「あらゆる物には『目』が存在する」

ぼそっ、と「影」がつぶやくと、

「め?」

と言いながら、子供たちは自分の両目に指をあてて、目尻を上げたり下げたりして変顔をしてみせた。あまりにも他愛がないので、ユーモアセンスをまるで持ち合わせない根暗な男もつい噴き出してしまい、

「そうではない。人体でいう急所のことだ。どんなに頑丈なものでも、その一点を突かれれば脆く崩れ去る、そんな場所が存在するのだ」

そう言いながら、左手で支えた薪を支え、

「その『目』を鍛えた武器で的確に打てば」

2本の指で突く。

「こうなる、というわけだ」

木材が見事に分割される瞬間を目撃した少年たちは「すげー、すげー」と口々に叫び、「影」に惜しみなく拍手を贈った。

「でも、そんな『目』なんて見えないけどなあ」

まだ割られていない薪を拾い上げて睨んでいる太っちょのトムに、

「あたりまえだ。そんな簡単に見つかってたまるものか。何年も修行をしてやっと見えてくるようになるのだ」

「じゃあ、その指もめちゃくちゃ鍛えたの?」

マルコの問いかけには賛辞も混じっているように感じられて、

「つまらないことだ」

男は俯きながら言葉を濁す。本当につまらないことなのだ、というのは他ならぬ自分自身が一番よくわかっていた。素手で薪が割れることにどれほどの意味があるのか。一人で大勢を殺傷できる能力があることを他人に誇れるのか。少年の素直な言葉に顔を上げて応えられないおのれを、「影」はひそかに恥じていた。しかし、男の屈託など子供たちにはわかるはずがなく、

「なあなあ、おっちゃん。おれにもそれを教えてくれよー」

お願いだよー、と言いながら取り囲んできた。

「こら、やめんか」

一流の刺客が群れ集まるちびっこたちを扱いかねていると、

「あなたたち、やめなさい」

今の季節とは真逆の寒風のような厳しい声が飛んできて、少年たちの動きが止まる。見ると、モニカがこちらを睨みつけていた。怖いおねえさんの登場に男の子たちはびくびくしながらも、

「いいじゃん、別に。おれたち、おっちゃんと遊んでるだけだぞ?」

いや、こっちは遊んでいるつもりなんかないぞ、と反論する前に、

「そんなやつと遊んでたら、変態が伝染うつるわよ」

村娘の罵声が飛んだ。風呂で裸を見られているから仕方がないのかもしれないが、少女の白い顔には男に対する嫌悪感が浮かんでいる。モニカの言葉に子供たちは動揺して、

「えっ? おっちゃん、変態なの?」

トムに真顔で訊かれて、即座に否定しようとしたものの、実際に被害に遭った少女の手前、下手に弁解することもできずに固まっていると、

「うおー!」

子供たちがだしぬけに歓声をあげたので、「影」もモニカも驚いてしまう。

「すげー! 変態とかすげー!」

「変態って実在したんだ!」

「おれ、生きてる変態なんか初めて見た!」

うおおおお、と大いに感動している悪童たちに、

(男の子って本当に馬鹿ね)

モニカは心底呆れ、

(何考えてるんだ、こいつら)

と「影」が唖然としていると、

「おっちゃん、おれらと一緒に遊んでくれよー。セイも最近付き合いが悪いんだよ」

なあ頼むよー、と子供たちがせがんできた。どういうわけか、彼らに気に入られてしまったようだが、人に嫌われ軽蔑されているのに慣れていても、好意を示されたことなど皆無に等しい男は、

「いや、それはちょっと」

顔から墨のような汗をだらだら流し、

「あなたたち、いい加減にしないと怒るわよ」

と言いながらモニカがもう十分怒ってしまっているところへ、

「ぎゃーっ!」

と甲高い悲鳴が聞こえてきた。何事か、と一同が振り向くと、

「あねうえー。たすけてくださーい」

泣きべそをかきながらジャロ・リュウケイビッチ少年が目の前を逃げてくるではないか。

「待ってー。逃げないでよー」

そう言いながらクロエを先頭に村の女の子たちがジャロの後を追いかけてきた。少女のように可愛らしい少年の栗色の髪がリボンでくくられているところを見ると、どうやら女の子たちの「おもちゃ」にされてしまっていたらしい。

「クロエ、あいつ、またあんなことを」

マルコの機嫌があからさまに悪くなる。同い年のおしゃまな女の子がナーガ・リュウケイビッチの弟に熱を上げているのに、ガキ大将はかなり腹を立てていた。

「おい。おれたちも行くぞ」

これ以上仲良くされてたまるものか。とてもこのままにはしておけず、マルコは走り出した。

「え? いや、ちょっと、マルコ?」

わけがわからなくても、他の子供たちもリーダーの後に続いたところを見ると、ジンバ村の少年団の結束はそれなりに固いようだ。突然の急展開に残された「影」とモニカの2人は、呆気にとられた表情で見送るしかなかったが、

「ずいぶん元気のいいことだ」

男はすぐに立ち直って薪割りを再開する。顔色の悪い「よそもの」を村娘は、きっ、と睨み、

「セイジア様はどうしてあんたなんかを村に入れたのかしら」

「それはおれの方が知りたい」

あっさり受け流されて苛立ちはさらに募るが、こんなやつを気にしたってしょうがない、と娘は無理矢理気分を立て直そうとする。

「そういえば、セイジア様は何処に行ってるの?」

少女に訊かれて、最後の薪を割ろうとしていた「影」の指が止まる。

「どうしておれに訊く?」

「だって、あんた、セイジア様のストーカーなんでしょ?」

そうではない、と否定する気力も湧かないのは、さっきまで子供たちの相手をしていただろうか。

「詳しいことは知らんが、遠出をしているようだ。山を2つだか3つだか越えた場所まで馬に乗って出かけているから、夕方まで帰らないだろう」

「ほら、やっぱり知ってるじゃない。このストーカー。変態。死んじゃえ」

教えてもらったのに感謝するどころか罵倒した挙句に、べーっ、と舌を出して去っていく少女にむかつきながらも、男は薪を割り終える。作業を一つ終えてもそれで終わりではなく、また別の作業が待っていた。人間一人が暮らしていくのにいかに多くの労力が必要なのか。これまでまともな生活を営んでこなかった仕事人は無間地獄に落ちたかのような暗澹たる気分になりかけるが、

(これもセイジア・タリウスと戦うためだ)

と思えばどんな苦痛も耐えられた。いつか来る復讐のときを待ち望みながら、「影」は木のバケツを両手に持つと、井戸へと歩き出す。妊婦のメイのためにきれいな水をたくさん汲んでおきたかったのだ。そんな具合に日常に追われる男は、彼が標的として付け狙う最強の女騎士が出かけた先で思いがけない事態に遭遇しているなどとは夢にも思わず、想像を巡らせるだけの余裕もありはしなかった。

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