第136話 扉が開く(後編)
リブ・テンヴィーの美しさに一目で魅せられ、その次に会話から感じられる知性にも心を奪われていたセドリック・タリウスは、このとき彼女の最大の美点に気づくこととなった。
(この人は優しい人だ)
クールなたたずまいとそっけない口ぶりからはわかりにくかったが、今こうして手を握られてみると、その暖かさは彼女の心の温度そのままなのだ、ということがよくわかった。春の日ざしのようなぬくもりに、青年の動揺は消えていき、できることならずっとこうしていてほしい、とひそかな望みが心の中に生まれていた。
「だって、あなたも苦しんでいたんでしょ、セドリック?」
女占い師のつぶやきとまなざしからも思いやりが溢れていた。もはや隠すつもりがなくなったのか、それとも自分が気付かずにいたのか、セドリックには判断できなかったし、彼女の言葉の意味もわかりかねた。
「わたしが、苦しんでいた?」
伯爵の疑問に、
「ええ、そうよ。誰かを嫌ったり憎んだりするのはその人自身にとってもつらいことなの。まあ、世の中には心のねじくれた人がいるからみんながみんなそうだとは言えないけど、本当のあなたは心の素直な人だというのをわたしは知っているから」
それにね、とリブはセドリックの手をより強く握って、
「あなたが本当は妹さんを好きだというのも知っている」
ふふふ、と笑みをこぼして、
「だって、セイってとてもかわいいでしょ?」
思いも寄らないことを言われて、「うっ」とセドリックは呻いてしまう。いつもなら即座に否定するところだが、少し黙った後で、
「あいつはちっともわたしの言うことを聞かない生意気なやつだが」
もう一度黙ってから、
「それでも、わたしの大事な妹だ」
ほろり、と言葉を漏らした瞬間に、全身にのしかかっていた重みが一度に取り除かれたかのように気が楽になったのに驚く。知らず知らずのうちに自分から勝手に重荷を背負っていたずらに我が身と我が心を苦しめていたことに今やっと気づかされる。向かい合った青年の表情から彼の変化を伺い知ったのか、リブの瞳にほのかな光が宿り、
「好きな人に裏切られた、と感じたとき、それまでの愛情が憎しみに裏返ってしまうこともよくあるの。あなたがセイを憎んでいたのも、それだけあの子を愛していたことの証明でもあるのよ」
「いや、そこまで好きでもないと思うが」
言い訳がましいセドリックのつぶやきにも、女占い師はくすくす笑うだけだ。この人はもう大丈夫、という確信があった。そして、自分の手で彼を正しい道に引き戻せたことへの喜びもあった。
「嘘おっしゃい。かわいい妹が危ない目に遭うのが怖かったから、騎士になるのに猛反対してたんでしょ?」
美女にからかうように言われて、
「そうじゃない。あいつがどうなろうと何をしようと、わたしは全く気にしない」
「またまた、強がっちゃって。あなた、本当は妹大好き人間なんでしょ? シスコンなんでしょ?」
「断じて違う。わたしはマザコンだ」
そんなにきっぱり言わないでよ、とおかしくなったリブは声を出して笑ってしまい、セドリックは苦り切る。
「でも、もう兄弟喧嘩はやめてね。2人がいがみ合っているのを見るのはとてもつらいから」
そう言いながら、女占い師が白く細い指を絡めてきたので、青年はどきりとしてしまう。胸の高鳴りを感じながら、彼女が仕事として彼の悩みを訊いているわけではなく、本心から心配してくれているのを理解していた。
(しかし、どうしてそこまでしてくれる?)
友達としてセイの身を案じるのはわかる。だが、自分のことまで気にかける理由がわからずに戸惑っていると、
「あなたには幸せになってほしいのよ、セディ」
レンズの向こうの菫色の瞳に見つめられた瞬間に全ての疑問が氷解した。彼女と会った瞬間からずっとつきまとっていた違和感の正体が明確なものとなってセドリック・タリウスの前に曝け出されていた。
「どうしたの?」
向かい合って座る伯爵の表情が一変したのにリブは困惑する。口はかすかに開き、目は大きく見開かれている。信じがたいものを目にしているかのような顔つきだが、彼がいま見つめているのは自分の顔だ。わたしを見て何を驚いているのか、と思っていると、
「リボンちゃん?」
今度は彼女の表情が一変して、優しい微笑みもグラマーな肢体から溢れ出ていた暖かな雰囲気も一気に消え失せる。
「きみは、リボンちゃんだね?」
セドリックはもう一度問いかけると、女占い師は彼の手を握りしめていた両手を引っ込めて、顔を背けた。だが、青年貴族はそれに構わず、
「そうか。そうだったのか」
と叫ぶのに近い大声を上げつつ、がた、と音を立てて立ち上がっていた。
「きみはもう死んでしまっていたものだとばかり思っていた。でも、無事だったなら、どうしてもっと早くぼくに会いに来てくれなかったんだ?」
息せき切って詰め寄ろうとする伯爵の胸を腰を上げた女占い師の両腕が押しとどめ、
「もう帰って」
大きく波を打つ声で告げる。
「そんなのひどいじゃないか。ぼくはきみにずっと会いたかったのに。きみとちゃんと話をしたいのに」
「いいから、もう帰って!」
必死になって青年の長身の身体を押し返し、ドアを開けて外へと追いやり、ばたん、と締め切られた重い扉にリブは背中を預けた。
「リボンちゃん。開けてくれないか、リボンちゃん」
どんどん、とノックをするセドリックの声は切迫していて、彼の懸命さが伝わってくる。だが、リブには来訪者を再び迎え入れるつもりはなく、彼ともう二度と会うつもりはなかった。より正確を期すならば、会ってはいけない、と思い込んでいた。
(どうしよう。知られちゃった)
俯く紫の瞳に涙がにじむ。真実を隠し通せると思っていた自らの甘さに腹が立ち、体中に後悔の念が満ちていく。長い時間が過ぎて、扉を叩く音がようやく止んでも、彼女は動けないまま、暗い室内で立ち尽くすことしかできずにいた。
ひとたび開いた過去への扉を人は無視して通り過ぎることはできず、凄腕の占い師であるリブ・テンヴィーといえどもその
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