第135話 扉が開く(前編)
セシル・タリウスは死の間際に目を覚ました。苦しみなどまるで感じられない穏やかな表情で、
「あなた。セディ」
枕元に顔を寄せた夫と息子に向かって微笑みかけた。既に天使になりかけている、とすら思えるあまりに清らかな笑顔に2人が胸が張り裂けるほどの痛みを覚えていると、
「セイのことを悪く思わないであげてね」
この場にいない娘の名前を出して、そっと目を閉じ、ほうっ、と大きく息をついた。そして、それが彼女の最後の呼吸となった。
「ご臨終です」
医師が何ら感情の伴わない宣告を下すと、妻に先立たれた男はがっくりと膝をついてから声を出さずに涙を流し、母を失った少年は形状できない声を上げながら部屋を飛び出した。いつ屋敷の外に出たのかも覚えていない。気が付くと裏庭の暗い森の中に立ち尽くしていた。
(どうしてなんですか、母上)
セシルが倒れてから大急ぎで伯爵を継ぎ、彼女にお披露目も済ませていた貴族の少年は叫びながら、手近な木の幹を拳で打ち付けていた。
(どうしてあいつなんかを心配するのですか)
重い病気に罹っていた母親を置き去りにして、自分の夢を追いかけるために家を飛び出した妹のことなど気にする必要はないではないか。やるかたない憤懣を抑えきれぬまま、セドリックは湯よりも熱い涙をぼろぼろとこぼし、
(わたしはおまえを絶対に許さないぞ)
いまわの際にまで母に心労をかけたわがまま放題の妹への憎悪を胸に深く刻んでいた。このときの憤りは消えることなく彼の中で巣食い続け、青年へと成長してからもその行動を支配することとなった。だが、今、女占い師リブ・テンヴィーから真相を告げられたセドリック・タリウスは自分の怒りが筋違いのものであったことに気づかされるのと同時に、自らの抱え込んでいた黒い衝動の正体にも気づかされていた。妹に怒っていたのは間違いない。だが、それだけではなく、
(わたしは母上にも怒っていたのだ)
人生の最期に自分だけを見つめてくれない、「いい子」にして頑張っている「ぼく」よりも「悪い子」の「あいつ」を気にかける彼女への怒りも確かにあったのだ。母を絶対的な存在として崇める青年は知らず知らずのうちに許されざる禁忌を犯していたことに愕然とするしかなく、
(なんという馬鹿者だ)
自らの愚かさを噛み締めることしかできなかった。
肩を震わせて俯くセドリックを、リブは悲しげに見つめていた。そして、
「そんなに気を落とさないで、セドリック」
と慰めの言葉を口にする。
「セイは自分についてあまり話してくれない子なんだけど、お母様のことはよく話してくれるから、この話はわたしもたまたま聞いていたの」
手の中のワイングラスに目を落としてから、
「あなたがセイを誤解しているのはなんとなくわかっていたから、『そのことをお兄さんにもちゃんと話した方がいい』と言ったんだけどね」
そう言われて伯爵は、はっとなる。騎士団長を辞めて実家に戻ってきたセイを母の死について責め立てたときも、妹は何も抗弁せずにただ黙って罵倒を受け止めるだけだった。どうして事実を説明しなかったのだろうか。すると、
「あの子はああ見えて意外と気を遣う性格なのよ。だから、お兄さんを思いやったつもりなんでしょうね。あなたの大好きなお母様のイメージを傷つけたくなくて、自分が悪者になっておけばいい、とでも思っていたのかもしれない」
ぐい、と酒を飲み干してから、
「でも、今となってはそれは間違いだったとしか言えないわね。セイの隠し事で、あなたもあの子も幸せになんかなっていないもの」
不幸な行き違いだ、と混乱の極みから降りつつある頭でセドリックは考える。おそらく、母は父と自分にセイが家を飛び出した事情をきちんと説明するつもりでいたのだろう。だが、倒れてしまったためにそれが出来ず、息を引き取る間際になんとか伝えようとしたのだ。
「だから、あの子も悪かったのよ。あなただけが悪かったわけじゃない」
「いや、それは違う」
顔を上げないまま震える声で青年はつぶやく。事の真相を知らなかったからといって、自分のこれまでの振舞いが許されるものではない、と彼は感じていた。何故なら、自分と同じく事情を知らなかった父は娘を決して責めなかったからだ。
「セイジアをあまり悪く言わないでくれ」
セドリックが妹を罵倒するたびに、先代伯爵は悲しげに眉をひそめてたしなめるのが常だった。父上は甘すぎる、と息子は忠告を決して受け入れることはなかったのだが、しかし本当に正しかったのは父で間違っていたのは自分だ、ということにも気づかされていた。詳しいことはわからなくても子供を信じるのが親というものだ、とアンブローズ・タリウスは信じていたのだ。そして、セイもどんなにひどいことを言われても兄に向って微笑みを浮かべ続けていた。それにひきかえ、今までの自分のしてきたことは一体何なのか。慚愧の念で若い貴族の胸はふさがりそうになる。
「信じるべきだった。妹を信じてやるべきだった」
テーブルの上に涙がひとつ、ふたつ滴り落ちる。おのれの未熟さがただただ悔しかった。母の願いを裏切り、妹を苦しめた自分を罵りたかった。見えない剃刀で心をズタズタにされているかのような苦悶の表情を浮かべるセドリックの右手が、温かく柔らかなものに包まれた。驚いて顔を上げると、
「そんなに自分を責めたらいけないわ」
艶やかな笑顔のリブ・テンヴィーが両手で彼の手を握ってくれているのが見えた。
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