第131話 突然の再訪者(中編)
「散らかっててごめんなさい」
家に入るなりリブに謝られた。セドリックが暗い室内を見渡すと、確かに年初に訪れた時よりも部屋の中は雑然としているように見えた。足元には酒瓶も転がっている。ただ、生ゴミだけはきちんと処理しているのか、悪臭はなくさほど不潔とは思わなかった。
(あいつが整理整頓をしていたのだろうか)
自分の言いつけで遠くへ旅立った妹が女占い師の身の回りの面倒を見ていたのかもしれない、と思って、伯爵の胸に罪悪感が芽生える。彼女にとって大事な人間を奪ってしまったのは間違いないのだろう。しかし、それよりも何よりも彼が気になっているのはリブのことだった。ようやくついたランプの灯りに照らし出された彼女の美しさにセドリックは思わず息を飲むが、
(やつれてしまったな)
とも思っていた。精神的な痛手のせいなのか、酒量が増えたせいなのか、食事をしなくなったせいなのか、あるいはそれらすべてが原因となっているのか、最初に会った時よりも女占い師の顔はいくらか痩せ肌も青白くなっていた。しかし、驚くべきことに、全身から生気が失われてもそれでもなお彼女の容貌に変わりはないどころか、以前よりもさらに美しさを増しているようにさえ見えていた。もはや一種の呪いか宿業と呼ぶべきレベルで、目の前の女性は生涯美しさから離れることができないのではないか、と思い、そしてそのカルマに自分も巻き込まれつつあるのをセドリックは感じていた。
「そんなにじろじろ見られると恥ずかしいんだけど」
そう言われて、自分が遠慮なしに彼女を見つめてしまっているのに気づいて、「すまない」と詫びながら伯爵は視線を逸らす。とはいえ、白のナイトガウンの下にラベンダー色のキャミソールをまとっただけのグラマーな女性から目を離せなくなるのは20代の健康的な男子としては致し方のないところだろう。
「こういうものしかなくて悪いわね」
厨房から持ってきたグラスに白ワインを注いでから、女占い師は伯爵に手渡した。
「さっきの酒は飲まないのか?」
と訊ねると、
「ああいう珍しい品物は大事に飲みたいの。しっかり冷やすか、温めてもいいかもね」
酒飲みとしてのポリシーなのか、贈り物を大事にしてくれるのかがわからず、セドリックは曖昧に頷くしかない。
「最近は仕事を休みがちだと聞いたが、大丈夫なのか?」
「あら。伯爵様がわたしみたいな身分の卑しい女を気になさることなんてないのに」
心配したのを一笑に付されて明らかに気分を害した様子のセドリックにリブは微笑んで、
「ご心配には及ばないわ。こう見えても、それなりに蓄えはあるから、しばらく休んでもどうってことはないはずよ」
強がりではなく事実を言っていた。それに加えて、彼女が休業していると聞いたお得意様から続々と差し入れが届いているおかげで、生活には全く不自由していなかった。
「いや、それならいいのだが、わたしのせいであなたが傷ついていたのだとしたら申し訳ないと思って」
「案外自惚れが強い人ね、セドリック・タリウス」
「なんだと?」
からかうように言われて、若者は思わず美女を睨みつけるが、
「前にも言ったでしょ? あなたがわたしを傷つけたんじゃなくて、わたしが勝手に傷ついただけ、って。だから、あなたが気にすることなんて全然ないのよ」
突き放すような言い方にセドリックは黙ってしまうが、このときリブの内側ではさざなみが立っていた。認めたくはなかったが、彼の出現が彼女を変えたことは否定しようがなかったからだ。だが、その思いを内に秘めたまま、女占い師は話しかける。
「それにあなたが来てくれてよかった、とも思っているの。セイとはいつまでも一緒にいられるわけじゃなかったしね。あの子にはもっと広い場所に出てたくさんの人に会ってほしいから、これでちょうどよかったのかもしれない」
冬晴れの空のように明るくはあっても寂しさを感じさせる声に、伯爵は女占い師の抱える孤独を思い、やはり自分が彼女を追い詰めたのだ、と改めて悔やんでいた。
「そういえば、あなたの話も聞いてるわ」
自分のグラスにも酒を注ぎながらリブが話しかける。
「わたしがどうしたというんだ?」
「公衆の面前で決闘に及んだそうじゃない。都じゃその噂で持ち切りみたいよ」
レノックス・レセップスとの騒ぎを持ち出されてセドリックの表情が曇る。今となってはその件は彼にとって恥でしかなく、王の怒りを買ったと聞いてつい先日まで謹慎していたのだ。そのうえ、気になる女性に騒動を知られていたとあって、かなり動揺してしまう。
「それはデマだ。決闘などしていない。その寸前で取りやめになったのだ」
「未遂だからって、威張れることでもないでしょ? 大勢の人がいる場所で騒ぎを起こすこと自体がおかしいんだから」
実にもっともなことを言われて、言葉が出て来なくなる。黙り込んだ伯爵を見やって、
「まったく、あなたみたいなおとなしい人が柄でもないことをしたものね」
リブはにんまり笑ったが、
「きみがわたしの何を知っているんだ?」
セドリックに訊かれて「えっ?」とグラスに伸ばしかけた手を止めた。
「わたしのことをよく知っているような口ぶりだが、きみと会うのはこれで2度目のはずだが」
このとき、セイジア・タリウスがこの場にいれば、リブの丸みを帯びた肩がかすかに震えていたのを見逃しはしなかっただろうが、妹ほどの観察力はない伯爵は彼女の動揺に気づくことはなかった。しばしの沈黙ののち、
「わたしにはわかるのよ」
とだけ言って、彼女は涼しげな顔で玻璃の杯を傾けワインを口に含んだ。
(評判の占い師だというから、一度会っただけでわたしの性格を見抜いていても不思議ではない)
とセドリックは納得しかけたが、
(この人とは前にも会っている気がする)
とも感じていた。それは前回この家を訪れた際にも気になっていたことだ。しかし、詳しいことまでは思い出せず、彼女に訊ねてみようかとも思ったが、
(そんな月並みな口説き文句のようなことを言えるものか)
プライドの高さが邪魔をして聞くことはできなかった。答えを出せないまま疑問を胸にしまいこんだところで、今日何故ここまで来たのか、その理由を思い出していた。
「『どうしてそうなってしまったの?』」
「え?」
いきなり口調が変わった伯爵に、女占い師はもともと大きな目をさらに大きくしたが、
「この前ここに来たとき、きみがわたしに最後に言った言葉だ。あれは一体どういう意味なんだ?」
それが知りたくて彼女の家を再び訪れることにしたのだ。わたしときみは前に会ったことがあるのではないか。やはりきみはわたしのことをよく知っているのではないか。そんな具合に言葉をつなげようとしたが、
「そんなこと、言ったかしら?」
しれっとした顔で受け流された。
「確かに言った。忘れるはずがない」
「あなたはそうかもしれないけど、わたしはそうじゃないから」
ごめんなさいね、と謝った白い顔からは何の反応もうかがえない。覚えていない、というのは嘘だという気がしたが、それを証明できる手持ちの材料は存在しない。だから、これ以上追及してもはかばかしい答えは得られないだろう、というのは伯爵にもわかった。レースのカーテンに頭からむやみに突っ込んだところで決して突き破れはしないのと同じことだ。リブ・テンヴィーの心が彼女の内側に深く潜ってしまったのを感じて、セドリックはがっくり肩を落としかけたが、
「ほら。いつまでもぼんやり突っ立てないで、お座りになったら?」
女占い師の白く細い腕がテーブルの向かいの席を指し示していた。「え。ああ」とよくわからないまま、木製の椅子に腰掛けると、
「わたしの仕事はご存じよね、伯爵様?」
色気たっぷりの微笑みに脳が灼かれるのを感じながら、
「占い師だと聞いているが」
どうにか言葉を返すと、
「その通りよ。人の来し方行く末を見て、道を指し示すのがわたしの役割」
少し間を置いてから、
「というのは大袈裟かもね。悩んでいる人や困っている人の相談に乗って、少しでも気持ちを楽にしてもらえれば、それで十分だと思ってる。まあ、人から見たら全然大したことじゃないかもしれないけど、わたしはこの仕事が好きで、誇りを持ってやっているつもり」
いたずらっぽく笑った。どうしてなのかよくわからないが、彼女の振舞い全てに心を強く囚われてしまっているのをセドリックは感じた。一言のつぶやきで、一度のまばたきで、気持ちは天へと上り地へと沈み、ひとつの場所にとどまることがなく、そしてそれをまるで不快に思っていないのが自分でも不思議だった。
「ねえ、ちゃんと話を聞いてる?」
文句を言われて、ようやく我に返ると、
「ああ、もちろんだとも。わたしもきみの仕事を見下すつもりはないよ、リブ・テンヴィー」
慌てて返事をした途端に頭に血が上ったのは、彼女の名を口にしたせいだ、と気づいて、伯爵はいよいよ胸に秘めた思いを自覚してしまいそうになる。
「あら。お褒めにあずかり光栄ね」
しなやかな指で眼鏡の位置を直してから、
「せっかく褒めてくれたから、セドリック、今日はあなたの相談に乗ってあげることにするわ」
リブは春に咲く桃色の花のような可憐な笑みを浮かべた。
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