第110話 伯爵、因縁をつけられる(その4)

「あら、じゃあ、本当におやりになるのね?」

自分から決闘を提案したにもかかわらず、老婦人は冷ややかさを隠さずにレセップスに言ったが、男はそれに気づかずに、

「もちろんです。これでジンバ村の件も一気に解決できると思えば、あなたにはいい機会を与えてもらったと感謝しています」

獰猛なまでの笑みを浮かべてから、

「もっとも、向こうにやる気があれば、の話ですがな」

とセドリック・タリウスを見ながら言い放った。伯爵の顔は青ざめ、秀でた額には何滴もの汗が浮かんでいる。臆病風に吹かれているのは明らかだ。早くも勝利を確信したレノックス・レセップスは、手にしたサーベルで青年の整った顔面を切り裂き、心臓を一突きして絶命させるのを思い浮かべ、合法的な殺人への期待に口の端に泡が吹きこぼれるほどに歓喜していた。

セドリックも遅れてサーベルを握ろうとするが、手の震えがトレイに伝わって、がちゃがちゃ、と金属音を立ててしまう。

「無理はよくないのではないか?」

侯爵の友人がにやにや笑いながら嘲ってきたが、茶会にやってきた人々も揶揄しないまでも同じように感じていて、他ならぬ伯爵自身もそう思っていた。先に書いたように、彼は決して勇気がないわけではなかったが、何よりもまず理知的な人間であり、それゆえに先が見えすぎてよくないことばかりを思い浮かべてしまう癖があった。今の青年は死という最悪の事態と一生消えない傷を負うという最悪に準じる事態だけを考えてしまい、身体を上手く動かせなくなっていた。こんな馬鹿なことはできない、と断りを入れて別の機会にやり直せばいいではないか、と彼の中の理性がささやいていたが、そうではない、と本能が力強く訴えていた。ここで折れてしまったら、二度と立ち上がれなくなってしまう、と伯爵にはなんとなくわかっていて、やめるわけにもいかない、と感じていた。しかし、目の前の恐怖を乗り越えられずに、進むことも引くこともできずにいたセドリックの脳裏にある思い出が甦っていた。


妹と一緒に食事をするのはいつ以来になるだろうか、とふと思ってから、

(あれから5年になるのか)

とセドリックは考える。5年という歳月を長いと感じるか短いと感じるかは人によっても状況においても違うだろうが、彼にとっては苦悩に満ちた時間だったことに間違いなかった。父から家督を受け継ぎ、妹が家を飛び出し、そして世界で一番愛している母が死んだ。ひとりの青年にとってあまりに苛酷な日々というほかなかった。そして、目の前では今、彼の苦痛の一因である妹が食事をしていて、反省するでもなくのんきにスープをスプーンで掬っている様子に苛立ちを感じてしまう。

国王スコットから突然暇を頂戴し、天馬騎士団団長の座を退くことになったセイジア・タリウスが、勘当されていた実家に呼び戻されたその夜のことだった。セイとセドリックの兄妹と2人の父である先代タリウス伯爵は揃って食堂で夕飯を摂っていた。晩餐と呼ぶにはささやかな食事で、白いクロスのかけられた長方形のテーブルも3人で囲むには広すぎたが、それでも久々の娘の帰還に父アンブローズは喜びを隠しきれず、セイもそれを有難く思い、父娘の再会に執事も使用人も深い感慨に浸っていた。その中でただひとり、当主である青年だけが苦々しい思いでいた。顔を見れば肉親の情も湧くかと思ったが、湧いたのは家を出奔した自分勝手な少女への憎しみばかりで、キャンセル公爵との婚約をあっさり受け入れたことすら、憎悪を燃え上がらせる新たな燃料になってしまっていた。

「正直に言わせてもらうが、おまえが騎士をやめて、わしは心からほっとしておるのだ」

父の小さく丸い目には娘への思いが溢れていた。背が低く小太りで、髪も薄く顔つきも平均点をクリアーしているとは言いかねるうえに、頭もさほど良くなく運動神経もゼロに近かったが、アンブローズ・タリウスは気が優しく誰からも好かれる男で、セイも当然のように父を愛していた。ただし、そんな彼が絶世の美女と誉れ高かった母セシルと結婚したというのは、「アステラ王国の七不思議」のひとつとされるほどのミスマッチだと世間からは評価されていて、

「母上は父上のどこがいいと思われているのだろうか?」

とまだ仲が良かった頃の幼い兄妹も一緒に首を捻ったものだった。子供たちでもわからないことが他人にわかるはずもなかったが、それでもタリウス夫妻は周囲の奇異の目を気にすることなく仲睦まじい結婚生活を送り、妻が若くしてこの世を去った後もアンブローズは彼女一人を思い続けていた。

「父上にご迷惑をおかけしてしまったのでしょうか?」

セイは顔をいくらか曇らせて父の顔を見つめたが、

「いや、そういうことではない。迷惑どころか、おまえにはだいぶ助けられている。たまに都に出向くと、おまえの活躍を皆が褒めてくれて、食事に招かれるのも毎度のことだ。別にわしが偉いわけでもないので、何やら申し訳なくなってしまうのだが」

謙遜したわけではなく本心からそう言っている、と父の穏やかな性格をよく知る子供たちは共にそう感じたが、

「では、どういうことなのでしょう?」

セイに訊かれた父は「うむ」と頷いて、

「わしはおまえのことが心配なのだよ。戦場で怪我をしたり死んでしまうのではないか、と思うと居ても立っても居られなくなって、食事ものどを通らなくなってしまうのだ」

「天馬騎士団が遠征に出ている間、父上は朝晩必ず一時間は祈っておられる」

セドリックが付け加えると、先代伯爵はナイフとフォークを手にしたまま溜息をついて、

「おまえが強いのはよく知っておるつもりだが、しかし、それでも何かの間違いがあるのが戦争というものだろう。父親としてはどうしても気掛かりなのだよ」

娘の顔をじっと見つめた。

(そこまでは考えが及ばなかった)

自らの浅慮と父の深い愛情を知ったセイは俯いて空になったスープ皿を見ながら、

「それではやはり、父上と兄上にご心配をおかけしてしまったことになりますね」

と申し訳なさそうな顔になる。

(お前の心配などするものか)

セドリックはそう言いたくなったが、しかし、それでも自分の中から妹への思いやりが完全に消え失せてはいないことを自覚していた。いつだったか、彼女が激戦に巻き込まれている、という知らせを耳にして、

(勝手に死んでしまえ)

とふと思ってから、そう思った自分にショックを受けたことがあった。結局のところ、肉親としての情を捨てきれないことに歯がゆさを感じながらも、非情になりきることを正しいとも思い切れずに、妹への黒く重い感情が心の奥底に澱のように溜まっていくのを若い伯爵は感じていた。

「のう、セイジア。おまえは死ぬのが恐ろしくはないのか?」

先代伯爵の問いかけには娘への愛情と純粋な疑問が半々の割合で含まれていた。平穏を愛する老境に差し掛かった男には、戦いの日々を自ら選んだ娘が不思議でならないらしい。

「まさか。わたしだって死ぬのは恐ろしゅうございますよ、父上」

きこきこ、とレアステーキをナイフで切り分けながらセイは微笑む。その表情が亡き妻の生き写しに見えて、父は思わず見惚れてしまう。小さなことを思い悩む彼をいつも励ましてくれた天使のような笑顔だ。

「では、何故戦うのだ?」

しばらく経ってからそう言うと、

「死ぬのが怖いと言っても、何もしないわけには行きませんし、何もしていなくても死は人間に平等に訪れるものだとわたしは思うのです。戦争であっても平和であっても、人はいずれ死にゆくものです。これはわたしの仲間の話なのですが、10人に1人も生き残れない戦いから奇跡的に生き延びて、無事に自宅に戻った次の日に、修理をしていた屋根から落ちて亡くなったというのです。死神は実に気まぐれで、ある日突然やってくるようです」

冷厳な事実を語りながらも、18歳の少女騎士が温かみすら感じる表情をしているのにタリウス家に仕える者たちは言葉を失くす。特にかつての彼女を知る古株の人間は、

(これがわんぱくで手が付けられなかったあのセイジア様か)

と愕然としていた。おてんば娘は人間として一回りも二回りも大きくなって帰ってきたのだ。

「だから、どうせ死にゆくさだめにあるのであれば、好きなことをやって死んでいきたい、というのがわたしの考えです。とはいえ、父上と兄上にご心配をおかけしてしまったのは確かでしょうから、お詫びせねばなりませんが」

そこで突然、どん、とセドリックがテーブルを手で叩いたので、妹も父も使用人たちも、彼以外の人間は皆驚く。

「詭弁を言うんじゃない。確率から言っても、戦争に行く方がずっと死にやすくなるはずだ。おまえが自分から死にに行っているという事実は変わらん。誤魔化そうとしても無駄だ」

伯爵がそう言ったのはセイの長々としたおしゃべりに我慢できなくなったのと、理性的な青年には受け入れがたいことを妹が語っていたからなのだが、

「やはり兄上にもご心配をおかけしてしまっていたのですね。本当にすみませんでした」

と素直に頭を下げられてイラっとしてしまう。だから心配などしていないというのに。

(こいつは本当に変わらない)

昔からそうだった。ずっと後をついてくる妹にうんざりして、ひどいことを言って意地悪をしても、「あにうえ」「あにうえ」と自分を好きでいてくれるのだ。

「ただ、お言葉ではありますが、確率の問題でも死というのは戦争においても平和においてもそう変わりはないようなのです」

「なんだと?」

そして、生意気なところも変わってはいなかった。

「王立大学の調査によると、アステラ国民の死因の第1位は病死のようなのです。その次が事故死で、戦死は第3位ということです。だから、わたしの言っていることにはそれなりの根拠があるのですよ、兄上」

データを示して反論されたので、聡明な伯爵が何も言えないでいると、

「しかし、事故死がそんなに多いとは信じられん」

驚く父親に、

「いえ、わたしも驚いたのですが、入浴や用を足す際に転倒して打ち所が悪くて亡くなってしまうケースも多々あるようなのです。日常に意外な危険が潜んでいるものなのですね」

うーむ、と父アンブローズは低く唸ってから、

「そう言われてみると、この屋敷の浴室もトイレもだいぶ古くなっていて、心配になってきた。わしも最近身体が心許なくなってきたことだしな」

建て替えるべきだろうか、と短い腕を組んだ先代伯爵に、

「それならば、このセイジア・タリウスにおまかせください。水回りの補修工事は戦場で経験がありますので」

立ち上がって意気込む金髪の娘を、

「おまえは余計なことをするんじゃない。この家の主人はわたしだ」

セドリックは慌てて止める。この娘を抛っておくと、屋敷全体を建て直してしまいそうだ。

「そういうことでしたら、兄上におまかせします」

今度は伯爵が笑顔に見惚れる番だった。嫌っている妹が愛している母と同じ表情をしているのが、なんとも皮肉に思われてしまう。

結局、その後もセイのペースで万事進んでいき、父と使用人たちと再会を心から喜び合ったのだが、セドリックだけは取り残された気分のまま夜を過ごした。互いをわかりあう機会を持てないまま、すぐに妹は嫁ぎ先へと旅立っていき、それから間もなく婚約が破綻したことで、伯爵は彼女への悪感情をますます強めてしまい、それから1年以上が経過しても、タリウス兄妹の間にはかなりの隔たりが残されたままになっていた。

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