第111話 伯爵、因縁をつけられる(その5)

セドリック・タリウスの手から震えが消えているのに最初に気づいたのは本人ではなく、彼とレセップス侯爵に決闘するようけしかけた老婦人だった。青年の変化はそれだけでなく、血の気が失せていた顔貌も赤みを取り戻しつつあった。

(死神は実に気まぐれ、か)

いつかの妹の言葉を思い出した伯爵の唇にかすかに笑みが浮かぶ。気に食わないやつの言ったことだが、確かにその通りだ。たまたま訪れた催しでたまたま面倒な相手と遭遇して、そして今は命がかかった状況に足を踏み入れてしまっていた。朝目覚めた時には、こうなるとはまるで想像していない。人間の数奇な運命を思い、青年は声を上げて笑いたくなるが、自分が今すべきことはそういうことではない。一番にすべきなのは、手にした武器をしっかりと握りしめることだ。

「やめるなら今のうちだぞ」

レノックス・レセップスは早くも勝ち誇りながらにやにや笑っていた。さっきまで怯えていた相手の変化に気付けないところは、辺境暮らしの貴族の悲しさ、というよりもこの男自身の鈍感さのあらわれなのだろう。

「言ったはずだ」

タリウス伯爵が小さく呟くと、

「あん?」

レセップスは眉をひそめた。青年の声に力が戻っているような気がして、何かの間違いかとも思ったのだが、

「さっきも言ったであろう。貴殿との勝負は望むところだと」

そう言ってから、セドリック・タリウスは銀色に光る丸いトレイからサーベルを持ち上げた。おお、と室内のあちこちで起こったどよめきには、伯爵が降参するはずだという予想が裏切られた、というものと、無謀な戦いに挑もうとするとする青年に呆れた、という2つの意味があるように聞こえた。

「あんたはもうちょっと賢いと思っていたが」

「それはわたしも同感だ」

侯爵の揶揄に伯爵は皮肉めいた笑みを浮かべる。おのれの中にこのような蛮勇が潜んでいたことに我が事ながら驚いていた。ただ、この決断へと自らを駆り立てたものの正体をセドリックは朧気ながら理解していた。さっき逡巡している間に、

(あいつだったらこうはならない)

ほんの一瞬だけそう思ってしまったのだ。妹だったら、セイジア・タリウスだったら決闘に臨む羽目になっても堂々と受けて立っただろうし、一撃のもとに敵を倒してあっさり勝っていただろう、と思って、彼女に対して羨望を抱いてしまったのだ。それは彼にとって何より恥ずべきことだった。認められない生き方をしている妹に屈することは絶対にできないことだった。

(わたしを舐めるんじゃない)

理性的なタリウス伯爵を原始的な闘争の場へと向かわせたのは、妹への反発、より正確には弱い自分への怒りだった。自分に武芸の才能がないことは子供の頃に身にしみてわかっていて、レセップス侯爵が自分よりも強いのもわかっている。しかし、たとえそうだったとしても、ここで逃げてしまっては、あらゆる物事から一生逃げ回らなければならなくなる。それは死よりももっと恐るべきことではないだろうか。だから、セドリック・タリウスは今ここで戦うことを選択していた。

(馬鹿なやつだ)

レノックス・レセップスは意外な成り行きに当惑しながらも、生意気な年下の貴族を思う存分やっつけられることに喜びも感じていた。たとえ命がかかっていたとしても、絶対に負けようのない勝負だ。野原でピクニックをするかのごとき気楽な心持ちすら覚えていた。

「最後にもう一度言っておくが、やめるなら今のうちだぞ?」

かなり余裕があったおかげで、相手を気遣うふりをしてみせたのだが、

「ご親切には痛み入るが、心配には及ばない」

そっけなく断られて、思わず舌打ちしてしまう。そうしていられるのも今のうちだ。ただ殺すのではなく、全身を切り刻んでたっぷり苦しめてから仕留めてやろう。そう思って、

「表に出ろ」

と言おうとして頭を上げると、セドリック・タリウスが顔の前にサーベルをかざしているのが見えた。銀の刃と2つの青い瞳がそれぞれ強く輝いているのが目に入った瞬間、レセップス侯爵の全身に電流が走った。

(まずい)

2つの重大な事実を失念していたことに、この土壇場で彼は気づいていた。まず一つ目は、これから決闘しようとしている男がセイジア・タリウスの兄だということだ。いや、それがわかっていたからこそ代わりに痛めつけようとしたのだが、しかし、それを実行した場合どうなるのかを考えていなかったのだ。実の兄弟を酷い目に遭わされた女騎士が何もせずにいるだろうか。復讐に乗り出すのではないか。そうなると今度こそ無事では済まされなくなる。その可能性を頭から抛り出していた自分の愚かしさに腹立たしさを覚えたが、しかし、真の意味で重要なのはその点ではなかった。彼が忘れていた2つ目の事実、それは彼が暴力に対して耐性を失っている、ということだった。忘れていたのではなく、今この場で初めて気づかされた、というのが正しいのだろう。侯爵は他人から暴力を振るわれることはもちろん、他人に暴力を振るうこともできない体になっていたのである。

「最近、旦那様は折檻をなさらなくなった」

というのが東の国境近くにあるレセップス侯爵の本邸で働く使用人たちの間で専らの話題となっていた。以前は事あるごとに、ちょっとしたミスで固い木の棒で殴られていたのが、近頃では怒鳴られるだけで済まされるようになったのを執事もメイドも不思議に思っていたのだ。その異変は侯爵自身も気付かない無意識のもので、この男が家来に寛大に接しようと心を改めたわけではなかった。では何故なのか、と言えば、尊大な貴族に変化をもたらしたのは「金色の戦乙女」ことセイジア・タリウスその人に他ならなかった。屋敷に潜入してきた彼女を棒で打ち据えようとして逆に激痛を味わうことになった一件が、侯爵に絶大なトラウマを与え、暴力に対して決して消えることのない恐怖心を植え付けたのだ。それからというもの、失態を犯した家来を殴ろうとすると吐き気がこみあげ、「殴る」と思い浮かべただけで寒気に襲われるようになったので、遂には罰することすら考えないようになっていた。自らの暴力すら恐怖するようになった男が、他者から痛い目に遭わされるかもしれない、と考えただけで身体が動かなくなるのも当然のことなのかもしれない。目の前にいる青年は、彼よりも体格で劣り腕力もなく武芸も達者ではないのは明らかだが、そんな相手でも今のレセップスには怖くて仕方がない存在になっていた。しかも、

(あの目だ)

かつて彼に地獄の苦しみを与えた憎い女と同じ青い瞳の持ち主だ。ブルーの閃きがもう一度侯爵の網膜を灼いたのと同時に、男の脳内にしかない劇場で忘れようとしていた記憶のリバイバル上演が始まり、全身の温度が一気に急降下していく。

(あらあら。なんてことかしら)

2人の睨み合いを間近で見ていた老婦人は驚いて口許に手をやった。セドリック・タリウスの手の震えが止まった、と思っていたら、今度はレノックス・レセップスが震え出したのだ。その震動はひどくなる一方で、一向に収まるようには見えなかった。

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