第93話 ふたりの脱出行(その7)

かー、かー、と頭上で鳴き声が聞こえた。カラスは人里だけでなく山にも棲むらしい、と都会育ちのシーザーは新たな知識を得たが、空を仰いで確認する気にはなれなかった。あたりはすっかり暗くなり、脱出あるいは逃走を始めて2度目の夜が近づきつつある。誰の姿も一人として見当たらず、人家につながる通り道を見つけることもできないまま、もはや永遠にこの森から抜け出せないのではないか、という気がしはじめていた。

昼間に悪党どもに襲われてから、セイは一度も目を覚まさず、少年の背中に大人しくおぶわれていた。病状が落ち着いてよく眠れているのか、体力が失われて目覚めないのか、どちらとも見当がつかず、シーザーは楽観も悲観もできなかった。そうでなくても、彼も疲労困憊で足取りは重くなる一方だった。食事ができなかったのに加えて、遡るうちに流れが次第に急になってきたので川沿いに歩けなくなり、そのおかげで水分を補給できなくなっていた。健康優良な少年も肉体的に限界に差し掛かりつつあったのだ。

しかし、それ以上に彼の心はズタズタに傷ついていた。

(何もできなかった)

数時間以上、そればかりを思っていた。傭兵崩れの集団に包囲されて、怯えてしまってまともに立ち向かうこともできなかったばかりか、守ってやらなければならないはずの少女に逆に守られたのだ。これまでの人生で、誰の力も借りることなくたったひとりで戦い抜いてきた少年のささやかな誇りは脆くも崩れ去っていた。

「そんなことはない。おまえはわたしを乗せて十分に働いてくれたじゃないか」

もしも、セイジア・タリウスが少年の悩みを知ったなら、そんな風にフォローしたはずだが、

「おれは馬じゃなくて騎士になりたいんだ」

とシーザーはさらに機嫌を損ねたに違いなかった。結局、失った矜持は誰の力も借りずに自分の手で取り戻すしかない、ということなのだろうが、それは今の少年にはあまりに重すぎる課題のように思われてならなかった。と、そのとき、ちりちり、と少年の首筋に痺れるような感覚が生じた後で、睾丸と内臓が一気に縮み上がった。

(来やがった)

不安が的中した、と知ったシーザーは恐怖しながらも身体に力が戻ってくるのを感じた。敵が舞い戻ってきた、と戦士の直感が彼に教えていた。やつらはあれくらいで諦めないだろう、と半ば覚悟していた少年は急いで眠り込んだ少女を背中から地面に下ろしてから、横抱きに体勢を変えようとする。

「ぐっ」

まだ筋肉の発達しきっていない彼にとって、たとえ身軽な少女であっても、いわゆる「お姫様抱っこ」の姿勢で持ち上げるのはかなりの重労働だった。だが、そうする必要がある以上、男として騎士としてやり通さなければならない。ようやくセイを抱えるのに成功したシーザーは急ぎ足でその場から立ち去ろうとする。今、2人が歩いているのは緩やかな上りの斜面だ。針葉樹が立ち並ぶ中を転ばぬように気を付けながらも大股で歩いていく。

(なんてこった)

幻だと思いたかったがそうではない。シーザーの耳は馬が駆けてくる音をキャッチしていた。しかも、相当な数だ。あのいびつな禿頭の大男は、まだ大勢の仲間を引き連れているようだった。追いつかれたら間違いなく命はない。歩調をさらに早め、歩幅をさらに広げるが、追跡者との差は縮まる一方だ。

「いたぞ」

後ろから叫び声がして、続けて、ひゃっはー、というおたけびが聞こえた。

(やべえやべえやべえ!)

いまやシーザーは全速力で走っていたが、道なき道を疾走し続けるのは土台無理があることで、どくどくと激しく脈打つ心臓は痛み、いくら呼吸しようとも酸素は足りず、ぜえぜえと喘ぐしかない。

「いっ!」

右肩に鋭い痛みを感じた。後ろから放たれた矢がかすめたのだ。上着に血が滲んでいくのを少年は感じたが、自分の判断が正しかった、とも考えていた。背中におぶったままだったなら、今の矢はセイに当たっていたに違いない。それを考えてあらかじめ体勢を変えておいたのだ。少女を守れたことでほんの少しだけ自尊心が回復したのがわかったが、どうせ捕まるのに逃げ惑ったところで何の意味がある、という空しさがあるのも否定できなかった。しかし、それでも今のシーザーにはこうすることしかできず、夕闇が押し寄せる暗い森をただひたすらに走り抜けるしかない。

矢はそれからも、ひゅんひゅん、と音を立てて飛んできたが、身体に当たることはなかった。というよりも、わざと当てていない、という気が少年騎士はしていた。どうせ先は見えているのだ。一気に仕留めるのではなく、獲物が弱って自滅するのを待っているのだろう。その証拠に、げらげら、という品のない笑いと、汚い高音ではやしたてるような声が後ろから聞こえてくる。出来るだけ苦しめようとしている魂胆があまりにあからさまで、吐き気がこみあげてくる。連中にとってこの追跡は復讐ではなく娯楽なのかもしれない。

(つくづく性質タチが悪い)

少年はうんざりしながらも、悪党どもの目論見通りに事態が進行している、と思わざるを得ない。彼の走る速度は徐々に遅くなりつつあり、腕力も失われてずるずると落ちそうになる少女を何度も抱え直した。いっそ何処かから飛び降りるか、と一か八かの賭けに出ることも考えたが、方向転換を図った時点で傭兵崩れは一気に追いついてしまうはずだった。それでも、最後の最後まで決して諦めまい、と脚を全力で動かし続けた。だが、乾ききった雑巾から最後の一滴を絞り出すように、あらん限りの勇気を持って戦い続けようとした少年が地面に転倒したのは、遂に心が折れてしまったからだ。

(もうだめだ)

シーザー・レオンハルトに必死の逃走を断念させたのは、前方からやってくる馬の足音だった。ぱからっ、ぱからっ、と実に軽快な響きだったのが、茶色い土に顔を埋めた若い騎士には皮肉にしか思えなかった。

(挟み撃ちされたらとても無理だ)

まさか待ち伏せまでしているとは、ずいぶん用意周到なことだ。親父もずいぶん恨まれているらしい、と笑いすらこみあげてきてしまう。

(悪いな、セイ。おれもできるだけのことはしたけど、ここまでみたいだ)

転びながらも恋する少女を落とさなかったのにシーザーは満足していたが、彼女を守り切れなかった無念さに涙をこらえることができない。おれはどうなってもいい。でも、こいつだけは、と金髪の娘のためならどんな目に遭わされても構わなかったが、あの悪漢たちが見逃してくれるとも思えない。地獄が生やさしく思えるほどの惨劇が待ち受けているに違いない、と無力感にうちひしがれて立ち上がれない少年のすぐ近くに、前からやってきた馬が立ち止まった。もう好きにしてくれ、と自棄になりかけたシーザーの耳に飛び込んできたのは、

「どうやら間に合ったようだ」

不逞の輩にしては穏やかすぎる、なおかつ知的すぎる声だった。どういうことだ? と戸惑う少年に、

「セイ、それに、シーザー、大丈夫か?」

どうして自分たちの名前を知っているのか、と思ってから、いや、そうじゃない、と気づく。

(おれはこの人を知っている)

そう思って顔を上げると、

「セイは眠っているのか? 何処か怪我でもしているのか?」

その人物の正体を知ったシーザーの目に涙がみるみる溢れていく。といっても、それはさっきまでの諦念とは違って、安堵の思いが流させたものだった。眠った少女と2人きりの、誰にも頼れない不安な時間が長すぎたおかげで、この世は絶望を撒き散らす悪魔が支配するものだとばかり思い込んでいた。だが、そうではない。神は確かに存在して、人々に希望を与え、救いの手を差し伸べてくれるのだ。そして、深い森に迷い込んだ子供たちを探し出そうと懸命になっている大人がいないはずがなかった。

「スバルさん!」

憚ることなく涙を流す少年を馬上から見下ろしながら、

「よく頑張ったな、シーザー」

アステラ王国天馬騎士団団長オージン・スバルは力強く頷いた。

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