第92話 ふたりの脱出行(その6)
男たちに囲まれてもシーザーは比較的冷静だった。街で喧嘩に明け暮れていた頃から、たったひとりで大勢を相手にするのは慣れっこになっていた。
(こいつら、傭兵か)
だから、相手の素性を見定める余裕もあったのだが、男たちの武器も鎧もてんでばらばらの使い古しであるところを見ると、「傭兵崩れ」と呼ぶのが正確かもしれなかった。戦士よりは盗賊に近い、いずれにしてもまっとうな連中ではなかった。
「ずいぶんと逃げ回ってくれたもんだな」
集団の頭目とおぼしき、一回り体の大きな男がにやにや笑いながら話しかけてきた。
「そっちこそ、ずいぶんと追いかけ回してくれるじゃねえか」
苦境にありながら笑い返した少年を油断ならないと見たのか、ボスは表情をわずかに引き締めると、
「おまえさんに用があったんで、こちらとしてもそうせざるを得なかったのさ」
「あんたの顔に見覚えはないが」
「そりゃそうだ。おれだっておまえを見かけたのは昨日の戦いが初めてだ。だが」
ボスは再びにやりと笑って、
「おまえのパパのことはよく知っている」
「親父を?」
ああ、そうさ、と大男は胸を張ってから、
「おれの見た目をすっかりイメチェンしてくれた恩人なんだ。忘れちまったら罰が当たる」
そう言ってボスはスキンヘッドを撫でまわした。その頭には大きなへこみができていて、まるで空気の抜けたゴムマリのように見えた。
「ってことは、つまり」
事情を察したシーザーは噴き出して、
「親父にやられた恨みをおれで晴らそうっていうのか?」
男の性根のあまりの低劣さに呆れてしまったのだが、
「まあ、そういうことだ。おまえのパパにはとてもかなわないからな。だから、息子のおまえを痛めつけることにしたわけだ」
悪く思うなよ、とボスは歯を剥き出して笑う。
「生憎だが、親父はおれのことなんかなんとも思ってないぞ。だいたい実の子でもないしな」
「そういうことを言うもんじゃない。子供を愛していない親なんていないぞ」
悪党に道徳を説かれるのも妙な話だ、と少年は首を捻りたくなる。
「だから、おまえがひどい目に遭えばパパは悲しむだろうし、万が一おまえの言う通り冷たいパパだったとしても、そのときはそのときだ。また別の方法を考えるさ」
いずれにしても、おれを見逃がしてくれるつもりはないらしい、とはっきり理解した少年騎士の緊張がさらに高まる。
「こいつらもおれと同じで、レオンハルト将軍にはとてもお世話になったことがある。そのお礼を今から息子のおまえにさせてもらう」
ひひひひ、と品のない笑いを薄汚れた男たちが漏らす。ひとりぼっちの少年に復讐する期待が魯鈍な顔つきからも見て取れる。
(そうはいくか)
シーザーは決して諦めてはいなかった。多勢に無勢、圧倒的な不利な状況であっても何処かに逃げ道はあるはずだ。現にそうやって今まで生き延びてきたのだ。だから、今度も絶対に上手く行く。切り抜けてみせる、と心に決めた少年だったが、そこにはただひとつ誤算があった。うひゃあ、とシーザーの右の方向に立っていた貧相な小男がいきなり叫び声をあげた。
「親分、こいつ、かわいこちゃんを連れてますよ」
少年が背負っていた少女に気づき、そしてシーザーもまた自分がひとりではないことを、守るべき存在がいることを思い出していた。
「どれどれ。ほう、これは確かに掘り出し物だ」
眠っているセイの顔を覗き込もうとボスが近づいてくる。
「こいつは関係ねえ」
思わず叫ぶシーザーだったが、「まずい」と心は焦燥にとらわれ、その動揺は男たちにも伝わっていた。ならず者たちは、人の弱みを見抜き、それにつけこむのを得意にする生き物なのだ。
「おいおい、冷たいことを言うなよ。関係ないなら、そんなに後生大事におんぶしたりしないだろ? その娘がいなければもっと楽に逃げられただろうに、わざわざ一緒に連れているところを見ると、おまえさんのガールフレンドか?」
そんなんじゃねえよ、という叫び声を聞いた男たちがげらげら笑う。少年はもはや、数の上だけでなく精神的にも不利に立たされていた。彼は孤独な戦いを生き残る術は知っていても、何かを守るために戦ったことなどなかったのだ。
「せっかくだから、そこのお嬢ちゃんもパーティーにご招待することにしよう」
ボスは下卑た笑いを浮かべ、
「おれたちがお嬢ちゃんを大人にしてやるのを、おまえさんもしっかり見物するといい」
もはや欲望を隠そうともせず、男たちは獣じみた歓喜の声を上げる。考えられる限りの最悪の事態が目の前に迫っているのをシーザーは悟っていた。そして、それを逃れる手段が見当たらず、切り抜けられるだけの能力が自分にあるとも思えなかった。悪党どもに少女が組み敷かれて泣き叫ぶ姿を想像して早くも絶望してしまう。
(ちくしょう。どうする、どうする)
追い詰められていたシーザーにはもはや余裕は残っておらず、
「いただき!」
最初にセイに気付いた小男が飛びついてきたのに気付くのが遅れた。かわすこともはねのけることも出来そうにない。「もうだめだ」と少年が目を閉じ、ボスをはじめとした悪党は宴のはじまりに歓声をあげかけたそのとき、
ひゅん
と、一陣の風が吹いた。いや、風ではなく何かが通り過ぎたのだ、と何人かは感じた。鳥だろうか。これほど低く飛ぶのはツバメくらいだが、時季が外れている。それではいったい、と思ったそのとき、ぼとっ、と何かが河原に落下した。
「うわっ」
いかつい男たちが飛びのいたのは当然のことだった。なにしろ、足元にいきなり彼らの仲間である小男の顔の上半分が降ってきたのだ。その両目に、ぎょろり、と睨まれて、
「ひい」
と悪漢はみな情けない声をあげて後退する。
「あ、あ、あ、あ、あ」
一方、顔の上半分を失くした小男は獲物をつかみとろうとした両手を延ばしたまま、あたりをよたよたと歩き回り、やがて、ぼちゃん、と水音を立てて小川の中へと倒れ込んだ。
(あの小僧の仕業か?)
完全に怯えきっていた少年にそんな真似ができると思えない、と思いながら、ボスが彼の方を見たそのとき、
(えっ?)
シーザーも異変に気付いていた。左の腰に帯びていた長剣がいつの間にか抜かれていて、空の鞘だけが残されている。そして、
「あっ!」
その場にいた全員が信じられない光景を目の当たりにしていた。少年が背負っている少女が剣を右手に持ち、その切先をボスとその仲間に向けているではないか。
(まさか、あの娘がやったのか?)
切先から滴り落ちるどす黒い血は小男のものだろう。さっきまで眠り込んでいたはずのかよわい少女が一瞬の早業で迫り来る魔の手を成敗したのに、悪の頭目も驚きを隠せない。
「貴様ら、いったいどういうつもりだ」
はあはあ、と荒い息とともに少女はつぶやく。病に侵されて万全には程遠かったが、青い瞳は陽炎が立つほどに熱く輝き、有利なはずの男たちは闘志に気圧されて指一本動かすこともできない。
「病人のそばで騒ぎ立てるとは、全く無礼なやつらめ」
そこに怒っているのかよ、とシーザーを含めた全員が思ってしまう。生命と貞操が危機に晒された状況でも、セイジア・タリウスの天然ボケは相変わらずのようだったが、
「頼むから静かにしてくれ」
そう言いながら剣を持ったままの右手を後方へと伸ばした。
「えっ?」
事態の急変についていけずに、シーザーの真後ろに立ちつくしていた痩せこけた男は急に呼吸が出来なくなる。それもそのはずだった。彼の喉元に剣が突き刺さって、うなじまで貫通していた。頸骨を断たれた男は息をすることも生きていることもできなくなり、「ひゅううううう」と隙間風のようなかぼそい音を立てながら、石くれだらけの地面に倒れ伏したが、金髪の少女騎士は自ら手を下した男の最期にもまるで気を留める様子もなく、熱を発する赤い顔を苦しげに下に向けただけだった。瞬く間に2人の仲間が始末されたのに、傭兵崩れの一党は愕然とするが、
「このガキが!」
ボスがへこんだ禿げ頭に青筋を立てて叫ぶと、やっちまえ、と言いながら、悪党どもが少年と少女に向かって殺到する。逃げるべきか、と迷ったシーザーの耳に、
「一歩下がれ」
セイがささやいてきた。
「え?」
「いいから、早く」
躊躇している場合ではなかった。指示通り一歩だけ引くのと同時に、
「前に出ろ」
言われた通りに出た。すると、
「ぐふっ!」
長髪の肥満体の右の眼窩に剣がめりこむ。でろり、と潰れた眼球と血と脂をこぼしながら男は絶命する。
「ひだり」
また指示が飛ぶ。左にステップしてから、
「みぎ」
反対方向へ動く。
「うはっ!」
「ぎゃあ!」
マッチョマンが右腕を、全身タトゥーだらけの男が左腕をそれぞれ切り離され、大地を転げ回る。出血多量で遠からず命を失うのは必至だった。真昼の太陽が照らしつける川べりで凄惨にして想像を絶する光景が繰り広げられる。少女がささやき、その言葉通りに少年が動くたびに、誰かが傷つき死んでいった。
(何故だ。何故こうなる)
ボスは身体の震えを止めることができなかった。負けるはずのない戦いだった。完璧な復讐だったはずなのに、今や全てが失われようとしている。この男の過ちは少年が連れていた少女までも敵に回してしまったこと、ただそれだけだった。今はまだ成長の過程にあっても、いずれ最強の女騎士となる娘を相手にしてはいけなかったのだ。
「くそっ、引くぞ!」
そう怒鳴ってから、ボスは下流へと、やってきた方へと逃走を図る。この場は退いた方が賢明だと判断したのだ。そうすればまだやりようはある、と考えていた。
「あいつら!」
シーザーが連中の撤退に気づいたそのとき、背中が急に軽くなった。セイが手を放してしまったのだ。
「セイ!」
地面に落ちそうになった少女を危ういところで抱き止める。力を使い果たした少女は完全に気を失っていた。その安らかな顔を見ているうちに、少年の中に煮えたぎるような激しい怒りが湧き上がっていた。
「ちくしょう、ちくしょう!」
叫びながら傍に転がっていたレンガのような四角い石を拾い上げると、逃げ去る悪党へと投げつけた。がっ、と鈍い音を立てて、一人の男の後頭部に命中し、そいつはうつぶせに転倒する。ごろつきに友情は存在しないらしく、誰も男を助けようともせず、一目散に逃げていく。
「この野郎!」
シーザーは一抱えほどもある重い石を担ぎ上げると、気を失った男へと近づき、さっき石が直撃したばかりの後頭部へと思い切り投げ落とした。それを何度か繰り返すと、男の頭は完全に潰れて、赤と白の入り混じった中味を周囲にぶちまけた。せめて一人だけでも仕留めたい、と思ってやったことだったが、少年に達成感はなく、むしろ自分の行動の意味のなさに泣きたくなるような思いを味わいながら、蹲ったまま膝を抱え込んだ。
いくらか気分が落ち着いてから振り返ると、そこには何人もの男たちの死体と、血にまみれた石と岩と、赤く染まった清流と、そして静かに眠る一人の娘の姿だけがあった。正午過ぎの森には音もなく、さっきまで死と暴力の嵐が吹き荒れていたのがまるで嘘のようだ、とシーザー・レオンハルトは何処か途方に暮れながらも、両手を川の中へと差し伸べて、掌に冷たい水を溜めた。ひとまず危機は脱したが、この後も歩き続けなければならないのだ。セイに飲ませてやろう、と水をこぼさないように気を付けながら、シーザーは少女の元へと静かに歩み寄って行った。
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