第74話 雪解け(その2)

ジンバ村の平穏な暮らしの中でも、セイジア・タリウスには気掛かりなことがひとつだけあった。アンナの病状だ。貴族の館から連れ帰ったときに既に肺を病んでいた少女は床に臥せる日が多くなり、咳も激しくなり痰に血が混じることもある、と看病を続ける妹のモニカが涙ながらに話していたのをセイは思い返す。

「わたしのことはどうかお気になさらずに」

心配して見舞いに訪れるたびに、ベッドに横たわった娘が青ざめた顔で精一杯笑って見せるのに、セイの胸は痛んだ。もちろん、アンナのために何もしなかったわけではない。村には医者がいないので、山を一つ越えた向こうにある隣村から医者を連れてきて診察してもらったものの、満足な設備のない山奥では十分な治療はできない、とのことで、結局徒労に終わっていた。

(バルバロ先生がいてくれれば)

何度も世話になった首都チキの繁華街で働く名医をセイは思い出したが、もちろん、都から遠く離れたこの辺境まで彼を呼ぶことは難しく、ならばアンナを都まで連れて行けるか、というと、それも難しかった。万事に控えめな娘は遠慮して断るだろう、と見当がついたが、いざとなれば無理矢理にでも連れて行かねばならない、と女騎士は思い詰めていた。だが、彼女の体力は日に日に失われていく一方で、このままでは都まで連れていくこともできなくなる。決断するなら早くしなければならない、と思いながらも、旅の途中で容態が急変する可能性を考えると、どうしても迷いは消えなかった。そんなことを考え続けていたせいなのだろうか、

「何かお困りごとがおありのようですな」

パドルに気を使われてしまった。今日もセイはモクジュの避難民の元を訪れていたのだ。金髪の騎士は何かと彼らの世話を焼いていて、

「要らなかったら捨ててくれても構わない」

と言いながら、食べ物や衣服など、生活必需品を勝手に送り届けていたのだ。

「ああ、すまない。確かに悩んでいることがあってな」

老人に心配されたセイは力なく笑みを漏らしてから、アンナの病気について話をしてみた。話したところで何かいいことが起こるなどと期待したわけではないが、自分一人で抱え込むにはつらい問題でもあった。最強の女騎士も病の前では無力なのだ。

「というわけだ」

一通り話し終えて、パドルの顔を見ると、不思議な表情をしていた。同情しているわけでも、共感しているわけでもなく、何かを思案しているようにセイには見えた。

「どうかしたのか?」

長身の男に訊ねてみると、「いえ」と重々しい返事が聞こえ、

「あまり期待なさらないでほしいのですが、どうにかなるかもしれません」

「え?」

思いがけない言葉に驚くセイ。

「どういうことだ?」

前のめりになって訊ねる女騎士にリュウケイビッチ家の執事は表情を崩さないまま、

「繰り返しになりますが、あまり期待なさらないでほしいのです。どうにかできるかもしれませんが、どうにもならないかもしれないのです」

「もったいぶってないで、どういうことなのかちゃんと説明してくれ」

頭に血がのぼりかけているセイを見つめ、パドルはしばらく黙り込んでから、

「ナーガお嬢様は医学の心得が多少おありなのです」


「何も言うな」

大きな岩の上に座ったナーガ・リュウケイビッチは口を開こうとしたセイに向かってぴしゃりと言ってのけた。数人の女たちと一緒に薪を拾い集めているところへ、セイとパドルがやってきて、執事が主人に向かって事情を説明したのだ。そして、女騎士が自分からも頼み込もうとしたところ制止されてしまった、というわけだった。

「貴様に頼まれると、その娘を診る気がなくなる」

ふん、とそっぽを向いたナーガを見て、「やっぱりダメだったか」とセイは肩を落とす。祖父の仇である人間の頼みなど聞いてくれなくて当たり前だ。そう考えてから、「ん?」と何かがおかしいことに気づく。今、彼女は「その娘を診る気がなくなる」と言っていた。ということは。

「事情はわかった」

そう言いながら「蛇姫バジリスク」は立ち上がって、

「今からジンバ村へ赴き、そのアンナという娘を診ることにする」

金色の瞳でセイとパドルを見つめた。

「よろしいのですか?」

あっさり決断した主人に執事は思わず訊ねるが、

「よろしいも何も、病人を抛ってはおけない。弱き者を守るのが騎士たる者の務めだ」

少女騎士はさみしげな表情になって、

「おじいさまが生きておられたら、同じように考えられたはずだ」

俯きながらつぶやく。彼女の祖父であるドラクル・リュウケイビッチは勇猛果敢なだけでなく、思いやり深い騎士でもあった。「空白地帯」における戦闘の最中に、霊峰ヒーザーンへ向かっていた巡礼者が遭難していると聞いて、ただちに戦いを中断して捜索に向かった逸話はよく知られていた。そんな祖父に孫娘は憧れて、自分もそのようになりたい、と今でも思っていた。

「それに、もはや戦争は終わったのだ。モクジュもアステラも関係はない。いつまでも敵味方などといがみ合う必要もなかろう」

そう言ってから、セイを鋭く睨みつけ、

「わたしの敵はただ一人だけだ」

と言い放った。一度の決闘でも彼女の憎しみは消えることはないようだ。

「ああ、それでいい。わたしのことならいくら憎んでくれても構わない。だから、お願いだ、ナーガ。アンナを」

「何も言うな、と言ったはずだ。セイジア・タリウス。貴様の世迷言を聞くだけで耳が腐り落ちそうになる。それから、わたしの名前をなれなれしく呼ぶんじゃない」

ふん、とナーガはもう一度そっぽを向き、

「それに、わたしは本物の医者じゃない。病気を治せるかどうかもわからないのだぞ。期待するだけ無駄に終わるかもしれん」

「そんなことはない。きみならきっと治せるさ、ナーガ」

「だから名前を呼ぶな、と言っている。ちゃんと話を聞け、愚か者め」

無愛想に言い放つと、「後はまかせた」と言って、モクジュから来た女騎士は歩き出す。そして、

「わたしは村まで行ったことがないんだ。道案内をしろ」

と言われて、「わかった」とにこにこ笑ってセイもナーガの隣に並び、2人はジンバ村へと向かった。

(お嬢様は少しお変わりになられたようだ)

遠ざかる女騎士たちの背中を見守りながらパドルは感慨に耽る。戦争が終わって以来、「モクジュの邪龍」が死んでからというもの、沈みがちだったナーガが最近元気を取り戻しつつあるのに老人は気づいていた。そして、それがセイジア・タリウスが原因であることにも気づいていた。仇敵との再会で活力が甦った、というのも皮肉めいていたが、

(セイジア・タリウスというお方が悪い人だとは、わたしには思えないのですよ)

この出会いがリュウケイビッチ家の若き女主人をよい方向に導くものとパドルは信じて疑わなかった。




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