第16話 女騎士さん、貴族の館に行く(中編)

セイジア・タリウスと敵対したせいなのか、レノックス・レセップス侯爵の評判は後世にはとても悪いものになっている。全くの愚か者扱いされることも珍しくないが、しかしそれは誤りである。レノックス自身はそこまで悪質な人間ではなく、有能で勤勉だと言ってもよく、その夜も遅くまで書斎で机に向かって書き物をしていた。都の有力者に送らなければならない手紙、侯爵家の金の出入りを管理する帳簿、書くべきことはいくらでもあった。

そんな具合に集中しているところへ、ドアをノックする音が聞こえたので、侯爵は眉をひそめた。夕食以降の夜間はこちらが呼んだときだけ来るように、と使用人には言いつけてあったのに、それを破った者がいるのにたちまち不快になる。彼は屋敷の人間にも領民にもきわめて厳格かつ冷酷に振る舞っていて、規則を破った人間には決して容赦しなかった。あとで執事を怒鳴ってやる、と思い、やたらにでかい音のノックを無視していると、そのうちにぴたりと止んだので、ふん、と鼻から息を飛ばしたのだが、あろうことか扉が勝手に開けられたので、短気な男はとうとう筆を走らせるのをやめて顔を上げた。

目の前には田舎娘が立っていた。粗末なワンピースを身にまとい、くすんだ色の髪を三つ編みにまとめ、前髪で目を隠している。見慣れないやつだ、と侯爵は思ったが、もともと使用人に興味も感心も持っていなかったので、新入りかどうかは自信がなかったし、たとえそうでなかったとしてもどうでもいいとしか思えなかった。

「なんだ貴様は」

腹まで響く重い声だった。これを聞かされると家来たちは例外なく震え上がったのだが、その娘は全く何も感じていないかのような涼しい顔をして、

「待遇の改善を申し入れに来た」

と言い放った。

「なんだと?」

ぎろり、と音が出そうなほどに強く睨まれても彼女は一向に平然としたまま、

「貴殿は自分の館で働いている者がどのような境遇にあるか知らないのか? 知らないのならばとんでもない怠慢だし、知っていたのならとんでもない非道だ。今すぐ階下に降りてみてくるといい。若い娘たちが寒さに震えている。あのままでは病にかかってしまうぞ」

煌々とした灯の下、燃え盛る暖炉のおかげで汗ばむほどに暖かくなっている書斎と召使の閉じ込められた部屋とを比べて、彼女―セイジア・タリウスは思わず表情を暗くしたが、

「知ったことか」

ふん、とレセップス侯爵は笑い飛ばした。

「なんだと?」

「知ったことか、と言ったのだ。このわしがどうして身分あやしき娘たちのことを考えなければならん。寒さに震えようと、病に倒れようとどうだっていいことだ」

「召使が働けなくなったら、貴殿にとっても損だと思うが」

「代わりなどいくらでもいる。また何処かから連れてくればいい」

わかったならさっさと出て行け、と言おうとした貴族の男だったが、

「おまえ、馬鹿だろ」

溜息混じりに呆れられたので愕然となる。自らを優秀だと思い込んでいるレノックスは生まれてこのかた「馬鹿」などと言われたことはなかった。「おまえ」と呼ばれたこともない。しかも、そう言ったのは平民の少女だ。怒りを通り越して頭が真っ白になっていた。

「貴様、このわしに向かって、よくもそのような口を叩けたものだな」

「いや、だって、そう言うしかないじゃないか。まるで人間が簡単に増やせるみたいに言ってるんだ。地面に水を撒いたらいくらでも生えてくる、って勘違いしてるようにしか聞こえない。それを馬鹿と言わずして何と言えばいいんだ?」

ばき、と筆が折れるのが聞こえた。怒りのあまり握りしめてしまっていたのだ。これ以上の侮辱は耐えがたく、とうとう椅子から腰を浮かせていた。無礼な娘よりも一回り大きい堂々たる巨躯が怒りに震える。

「者ども出合え!」

室内の空気が震えるほどに大きな声で呼ばわる。

「でかい声だなあ」

ははは、と笑う少女にさらに怒りを募るのを感じたが、

(そうしていられるのも今のうちだ)

と内心ほくそえんでいた。不心得者に身分の違いというものを教えてやるつもりだった。

「ん?」

廊下から足音が聞こえてきたので、セイは振り返る。開け放たれた扉から数人の男たちがどたどたとやかましく広い部屋に駆け込んできた。

「お呼びでしょうか、旦那様?」

息を切らせてやってきた男は主人に訊ねてから、少女に気づいて不審そうに見つめた。大木を鑿で粗く削って出来上がったような外見で、力は強いが頭の回転はそれほど速そうには見えなかった。

「おまえたちは何をしておったのだ? 屋敷の警備はしっかりしろ、といつも言ってあるだろう? とにかく、この小娘をさっさとつまみだせ。いや、その前に叩きのめしてからにしろ」

身分をわきまえない者は痛い目に遭って泣き叫べばいいのだ。男たちに囲まれて少女の姿が見えなくなったのに平静を取り戻した侯爵は、ふん、と鼻息を吐いてから、再び座って、新しい筆を取り出して書き物を再開しようとしたが、どん、と机の上に何かが置かれたので、「は?」と思わず声を出しながら顔を上げると、あの娘が机に腰を下ろしているではないか。「あっ!」と家来たちも叫んでいた。取り押さえようとした若い娘がいつの間にか包囲を抜け出たのだ。驚かないわけには行かなかった。

「貴様。その汚い尻をすぐにどけろ」

頭の中で血が煮えたぎるのを感じながら侯爵は怒鳴った。この机は都からわざわざ取り寄せた年代物で、彼のお気に入りだった。下層に属する者が触れていいはずがなかった。

「レディーに対する口の利き方がなってないな、侯爵殿」

すぐ近くでレノックスに大声を出されても少女が全く顔色を変えないのに、家来たちの方が顔色を変えた。机に座ったままセイは振り返り、

「どかしてほしければ、自分でなんとかするんだな」

にやり、と明らかに小馬鹿にした笑いを浮かべ、

「それとも、偉そうにしておきながら、人の力を借りないと何もできないのかな? ご主人様?」

その瞬間、レノックス・レセップスの怒りが爆発した。

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