第10話 女占い師、発破をかける(後編)
「お邪魔しちゃったわね」
シーザー・レオンハルトとアリエル・フィッツシモンズの恋心を焚きつけるのに成功したと見て、リブ・テンヴィーは青のドレスの上に黒い毛皮のコートを着て部屋を出ていこうとするが、そこへ、
「なあ、姐御」
シーザーに声をかけられて、
「ん? どうかした?」
女占い師は足を止める。首を傾げる仕草も実にコケティッシュだ。
「大丈夫か? 元気がないように見えるが」
それはそうだろう、とアルは思う。同居していたセイジア・タリウスに突然いなくなられたのだ。気落ちしても無理はなかった。
「そうじゃない。何か他に嫌なことがあったんじゃないのか?」
続けて青年騎士に声をかけられると、リブの雰囲気が一変する。すっ、と眼が細まり、表情がなくなった。グラマラスな身体から発散されている暖かな気配も消え、きわめてよそよそしく冷たい態度に変貌していた。年上の女性の豹変に2人の騎士が戸惑っていると、占い師は音もなく滑るように今来た道を逆に進み、机を回り込んで騎士団長の目の前へと近づいていた。
「なんだ? おれが何か変なことを言ったか?」
自分よりもだいぶ背の低い女性のはずなのに、異界から来た正体不明の存在と対峙しているかのような身も凍る思いをシーザーは味わっていた。
「いいから座りなさい」
そっと右手を胸にあてられただけで、騎士団長の屈強な肉体から力が抜け、椅子に腰が落ちてしまう。一体どういうつもりだ、と声を上げようとするが、眼鏡の向こうで2つの瞳が紫色に輝きながら渦を巻いているのを見たせいなのか、何を言うつもりだったのか思い出せなくなる。
「ねえ、シーザーくん」
聞き慣れている声のはずなのに、心底震えが来るのをシーザーのみならずアルも感じていた。「アステラの若獅子」の心臓の真上に掌を置いたまま魔性の美女は語り出す。
「これは内緒にしておくつもりだったんだけど、わたし、あなたみたいな人は苦手なのよ。野蛮でがさつで乱暴で力まかせの身体だけ大きい悪ガキ、ってあまり近づきたくなくってね」
「そりゃ悪かったな」
この状況で軽口を叩ける豪胆さに、少年騎士は上官を見直す気持ちになっていたが、
「でもね」
リブの話は止まらない。
「あなた変わったわ。なんというか、大人になった。だから、ほんのちょっとだけ遊んでみたくなっちゃった」
ね? ちっちゃなライオンちゃん。くすくす笑いながら頬をぺちぺち叩かれてもシーザーは何もできない。
(やっぱり姐御はやばい人だった)
6歳年上の美女に苦手だと言われてあまり傷つかなかったのは、彼もまた彼女を苦手だと思っていたからだ。つまりは、お互い様、というわけだった。騎士団長である自分をいつも遠慮なくビシビシ叱りつけてくるのだから頭が上がるはずもない。家族を持たない自分にとっては姉のような人だ、とひそかに敬意を払ってもいた。だが、今自分に迫っている彼女に対していつもと違う感覚をおぼえてもいた。上手く説明できないが、強い力で惹きつけられるような気持ちになっていた。早く逃げなければ、という思いと、もっと近づきたい、という思いがせめぎあっていて、実際のところは近づきたい気持ちの方が勝っていた。すぐそばに部下の少年がいなければ、彼女を抱き寄せてしまっていたかもしれない。
「やめてくれ、姐御」
絞り出すように出た言葉を聞いて、あは、と楽しげにリブは笑った。
「どうしたの? あなたらしくもない。我慢しないで好きにしたらいいじゃない」
獲物をいたぶる肉食獣のごとき酷薄な光を2つの目に浮かべつつ、女の柔らかな肢体が男のたくましい肉体の上にのしかかり圧殺する。さて、次はどうしてくれようか。そんな風に夢想しながら、占い師は嘲弄を楽しんでいたが、
「おれにはあいつしかいないんだ。あいつじゃないとだめなんだ」
見下ろしていた若い騎士からかすれた声が聞こえたのと同時に、彼女の顔から笑みが消え失せ、「つまんないの」と言いたげに舌打ちすると、密着していた身体を離す。そして、再びくすくす笑いながら、
「そんなこと、わかってるに決まってるじゃない。なに本気になってるのよ」
馬鹿ね、と微笑みを浮かべながら、右の人差し指で鮮血がそのまま染み出たかのように真っ赤な唇に触れてから、その白く細長い指をそのままシーザーの薄い唇に押し当てた。傍らで見守ることしかできないでいたアルの背筋にまで甘い痺れが走ったのだから、彼の上官はどれほどの快楽に襲われたのだろうか。脂汗にまみれた青年騎士が視線が定まらないでいるのに満足したかのように優しく笑ってから、
「ちょっとからかっただけだから、悪く思わないで」
今度こそ部屋を出ていこうとしたリブだったが、
「あ、そうそう」
何かを思い出してドアの前で振り返る。
「この前、セイが出発するときに、わたしとあの子、キスしたのよね」
そう言ってにんまり笑う。一瞬で石化したように硬直した2人の騎士を見て大いに満ち足りた気分になって、
「がんばってねー」
のんびりした声をかけつつ、女占い師は姿を消した。
団長室の重い扉を閉めて廊下に出ると女占い師の美貌から再び表情が消え失せた。
(つい悪ふざけしちゃった)
楽しかったから別にいいけどね。軽快な足取りとつややかに光る白い顔に、さっきまでの
(シーザーくんに見抜かれるとは、わたしもまだまだね)
昼日中から王立騎士団長に迫るという暴挙に至ったのは、今のリブ・テンヴィーが精神的に安定を欠いているのに加えて、シーザー・レオンハルトが彼女の真実に近づいてしまったからだ。「本当の自分」を異性に知られるのは最上の喜びにつながることもあれば、耐えがたいほどの不快感につながることもあった。禁断の領域に足を踏み入れた者にもはや平穏は許されず、栄光か破滅かを選ぶしかないように、シーザーが野性的な勘で本当のリブを探り当てたとき、彼女にできたのは青年を愛するか、あるいは罰を与えるか、2つに1つしかなかったのだ。
(実際のところ、選ぶ余地はなかったのよね。シーザーくんがセイにメロメロなのはわかっちゃってるし、わたしになびくわけなんてないんだから)
ふう、と溜息を漏らすとリブの周囲にだけ一足早く春めいた気配が訪れる。彼女自身、自らの不調に気づいていた。そして、それがセイの不在だけが理由ではない、ということも聡明な女性は気づいてしまっていたが、そのことからできるだけ目を逸らしていたいとも思っていたのだ。にもかかわらず、何も考えてないくせに勘だけは鋭い青年のおかげでそれを思い出してしまった。
(シーザーくんの馬鹿)
だから、あのお仕置きは当然の報いなのだ、と思いながらリブは騎士団本部を後にする。唇を尖らせて不満をあらわにしても美しい彼女に、衛兵も本来の任務を忘れてしばし見惚れてしまっていた。
「大丈夫ですか? レオンハルトさん?」
ぜえぜえ、と座ったまま息も絶え絶えの上官をアルは心配そうに見守っていたが、
「アル、おまえ、すげえな」
といきなり言われて、「はい?」と首を傾げてしまう。
「いや、おまえ、いつも姐御に迫られてただろ? こんなのを耐えるなんて、おまえすげえわ。見直したぞ」
そんな妙な感心をされても、と茶色い髪の少年は素直に喜べなかった。それにリブに色仕掛けを何度もされたのはその通りだとしても、今回の誘惑はレベルが違うように思えてならなかった。一言で言えば、本気度の違いだろうか。
(リブさんが団長を
ふとそんなことを思ったが、
「おまえが何を考えてるかはわかってるぞ」
眼光鋭く睨みつけられて、ははは、と笑ってごまかした。お互いしばらく黙った後で、
「確かに姐御の言う通りだ」
ようやく呼吸が整ったシーザーが口を開き、「はい」とアルも同意する。
「こっちからあいつのところに行かなきゃいけない。もうぼやぼやしてられねえ」
それもその通りだ、と思いながら副長は黙って頷く。
「そうなると、だ」
「はい」
期せずして、騎士と騎士の視線が正面からぶつかり合った。
「おれらもいい加減
「同感です」
どちらの口調も軽いものではあったが、それぞれの目は真剣そのもので、白い刃のごとき冷たい光をきらめかせている。
「今ここでおっぱじめてもいいんだが、まあ、おれとおまえも結構長い付き合いになっちまったからな。いつどこでやるかは、自然と決まるんだろうさ」
「でしょうね」
そして、2人の騎士は声を上げて笑い合った。憎しみも怨みもなく、親しみと友情はあったが、それでも避けては通れない対決を目の前にして、彼らの胸中はひどくさわやかな思いに満たされていた。
すなわち、シーザー・レオンハルトとアリエル・フィッツシモンズ。セイジア・タリウスをめぐって長きにわたって争い続けてきた2人の騎士の真剣勝負が、この瞬間に決定したのであった。
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