第62話 グウィドラの破滅・トニー編(その1)
既に夜も遅い時間だったが、「くまさん亭」は賑わっていて、シーリンとイクは料理を運んだり掃除をしたりして忙しく動き回っていた。そこへ、
「おねえちゃん、シーリン」
シュナがやってきた。
「あれ、どうしたの?」
近づいてきたシーリンに、
「リアスが心配してる」
と赤っぽい髪の背の低い少女がぼそっとつぶやくと、
「ああ、これは悪いことをしたね」
と言いながら、ノーザ・ベアラーも濡れた手を前掛けで拭いながらやってきた。
「もっと早く帰さなきゃいけなかったけど、こっちも忙しくて気が回らなくてね。許しておくれ」
女主人はシュナに向かって微笑みながら詫びると、
「シーリン、イク。あんたたちはもうあがるんだ。帰ってしっかり休みな。もう大会も近いんだろ?」
とアルバイトの少女に呼びかけた。
「え。でも、まだやることが」
抵抗を示したイクをノーザはきっと睨んで、
「わたしらがなんとかする。子供がいなくちゃやっていけないほど落ちぶれちゃいないよ」
と叱りつけてから、
「いいから早く帰りな」
優しく笑った。少女たちはその笑顔に亡き母親の面影を知らず知らずのうちに重ねていた。
5分後。シーリンとイクとシュナ、3人は夜更けの路上を歩いていた。ボブカットのイクは妹のシュナと手をつないでいる。
「ずいぶん遅くまで頑張ったね」
シュナがそう言うと、「ああ」とだけ姉は返す。シュナとセラとヒルダは夕方で仕事を切り上げ、シーリンとイクだけが「残業」をしていた。
「リアスたちは練習してた?」
シーリンが訊ねると、
「一応。でも、そこまで本気でやってない」
5人の中で一番年下の娘は答えた。「ブランルージュ」本大会まであと4日になっていた。
「特訓はここまでにしましょう」
と少女たちのコーチであるリアス・アークエットが言ったのは昨日、つまり大会5日前のことだった。短期間で著しい成長を見せた5人なら、「ブランルージュ」でも見事に踊れるはずだと確信したリアスは、これ以上無理をさせるよりは身体を休ませた方がいいと考えたのだ。というわけで、劇場には出演せずに、通常の練習をこなして本番に備えることになり、彼女たち、「セインツ」も何処かほっとした気持ちになっていたのだが、今日の昼間にちょっとしたハプニングがあった。いつもの練習場所である工場跡にカリー・コンプがやってきたのだ。憧れの対象である吟遊詩人の突然の来訪に少女たちは目を輝かせたが、
「あなたたちに伝えておかねばならないことがありまして」
青年の表情は晴れやかではなく、聞かされた話もあまりいい内容とは言えないものだった。なんと、彼は大晦日の「ブランルージュ」本大会でマズカ帝国の歌姫アゲハと共演することにしたのだという。
「なんでだよ」
話を聞くなり、セラが叫んだが、それは5人全員が思っていたことだった。予選会で自分たちを助けてくれたのに、よりによって自分たちを追い込んだ人間と共演するなんて、と思わずにはいられなかった。自分たちよりずっと美しい少女を、自分たちよりも権力と財力のある方を選んだのか、と裏切られた思いで一杯になっていた子供たちに、
「『なんで』って、それはカリーがやるべきだと思ったからだろ?」
ちょうど居合わせたセイジア・タリウスは平然と言うと、
「なあ、カリー。そういうことだよな?」
「そうですね。詳しい話はできませんが、わたしはそうすべきだと思ったのです」
眉をひそめながら詩人は頷いた。
「事情はよくわからないけど」
リアスは話を引き取ると、
「あなたは予選会でこの子たちを助けてくれた。それだけで十分よ。今こうしてわざわざ伝えに来てくれたのも、この子たちに気を使ってくれたのよね。感謝してるわ」
にっこり笑った。それでもまだ不満げな少女たちに、
「なんだ。おまえら、カリーを信じていないのか?」
セイが笑いながら大声で言うと、それ以上反論することはできなかった。
(信じてるよ。信じたいよ。でも、だから嫌なんだよ)
イクはそう思っていたが、その思いを上手く言葉に変えることができず、黙るしかなかった。苛立ちを口に出せない以上、行動で発散させるより他に術はなく、その後5人でバイトに出かけると、おにぎりをいつもよりたくさん握って(力を籠めすぎだと注意された)、それでもまだ収まらないので、夕方から食堂で接客と清掃もしたが、胸のむかつきが消えることはなく、今こうして夜遅くに表通りを歩いていた。
(シーリンもわたしと同じなんだろうな)
イクはそう思う。カリーに本気で恋をしているのは自分と長い黒髪の少女だけだと気づいていた。だから、彼女の気持ちがよくわかるのだ。そう思いながら、シーリンの横顔をのぞきこもうとすると、
「カリーの話なんだけどさ」
いきなり口を開いたので、気持ちを読まれたように思えてどきっとしてしまう。
「もういいだろ。その話は」
「あ、いや、昼間の件じゃなくてさ。別の話」
「別?」
ふてくされていたイクは驚く。
「うん。前から思ってたんだけどさ、カリーって」
そこでしばらく黙ってから、
「セイのことが好きだと思うんだ」
シーリンの言葉にイクは強い衝撃を受ける。
「ああ、まあね」
どうにか相槌を打つが、ショックを受けたのはその事実に気づいていなかったからではない。自分も気づいていたはずなのに、気づきたくなくて目を背けていたからだ。
「だって、今日もさ、セイの方を見て、すごくうれしそうにしてたもん。あ、『見て』っていうのは変かもだけど、でも、カリーにはセイの何かがすごくきれいに映っている気がする」
うん、とイクは頷いて同意を示すと、
「それにさあ、セイの歌、あるじゃん。金色のなんとか、ってやつ。カリーがあれを歌ってるのを聴いたらよくわかるよ。愛、っていうか、そういう気持ちがこもってるのを」
前から気づいていたことを自分から言い出した。逃れようのなくなった犯人が自ら罪を告白するかのような、やり場のない気持ちを一番年上の13歳の少女は感じていた。
「カリーは怪我してるのをセイに助けられたみたいだから、それで好きになったのかも」
シュナからも情報が寄せられて、2人の恋する少女は自分たちの想いがかなわない、というのをいよいよ自覚せざるを得なくなる。
「まあね。わかってたんだけどさ。わたしなんか、相手にされないって」
涙声でシーリンがつぶやく。ただでさえ年齢が離れているうえに、貧しく身寄りのない娘が詩人の恋の対象になるはずはないとわかっていた。彼の優しさは、あくまで年下の子供たちに対するものであって、それ以上に発展する見込みなどないのだ。
「セイはわたしから見ても、きれいだし素敵だから、仕方ないと思うけどさ」
腹立つなあ、とつぶやくイクの目からも涙がこぼれる。頬を伝う雫をやけに熱く感じた。無理だというのは初めからわかっていた。それでも、繊細な音色を奏でる指で触れられるのを、妙なる歌声を生み出す唇から愛を告げられるのを夢見ては夜毎に身体が熱くなるのをどうしようもなかった。それは確かに彼女たちの初めての恋だったが、実ることなく終幕を迎えようとしていた。
「大丈夫?」
心配した妹の頭を姉は優しく撫でてから、無理に陽気な声で言ってみる。
「わたし、告ることにするわ」
「は?」
シーリンが潤んだ目をイクに向ける。
「玉砕覚悟でさ、一応言ってみることにする。そうしたら、気持ちも晴れるかもしれないし」
「ああ、わたしもそうしたいけど、セラにバレたら、すっごく馬鹿にされそうで嫌。ヒルダはわかってくれると思うけど」
「いいんだよ。あんなお子様、抛っておけばいいんだって」
ショートカットの少女を馬鹿にするのに噴き出してから、
「じゃあ、わたしもそうする」
シーリンとイクは見つめ合う。
「勝負だな」
「うん、勝負だね」
思いを共にする仲間がいてくれたのはせめてもの救いだったかもしれない。2人の少女は失恋を前向きに受け入れようとする気持ちになりかけ、もう1人の少女は事情がよくわからないながらも、姉が機嫌を直しつつあるのに安堵していたが、そのとき、3人に向かって馬車が疾走してくるのが目に入った。もう遅い時間だというのに、かなりのスピードで、がらがら、と大きな音を出している。
「危ないなあ」
と言いながら少女たちは道端に移動して避けようとする。万が一はねられでもしたら、大晦日の舞台に上がれなくなってしまう。早く行ってくれればいいのに、と思っていると、その馬車は少女たちの真横で、ぴたり、と停まった。
「え?」
驚く3人の身体を黒い幌から突き出した何本もの腕が荒々しくつかんだかと思うと、馬車へと引きずり込んだ。10秒もかからずに再び発車する。猛スピードを出しているせいで、石畳と車輪がこすれる音が響き、車体は大きく揺れる。車内は真暗で何も見えない。ごつごつした手に押さえつけられているせいで、動くことも叫ぶこともできない。その手の微妙な動きに、自分に対する欲望を感じ取ったシーリンは、これから待ち受けているであろう事態を想像して、絶望の涙を流す。すぐ横でイクが懸命に抵抗しようとしているのを感じるが、自分はそこまでできない、と諦めてしまう。
「そいつは捨てろ」
男の低い声が聞こえたすぐ後で、何かが抛り出され、地面に落下する音が聞こえた気がした。馬車の速度は上がる一方だ。ろくなことのなかった人生でも、これほどまでにひどい目に遭ったことはないが、おそらく次に気が付いた時は、もっとひどい状況になっている、と想像がついた。
(もう目覚めたくない)
と思いながら、がらがら、という響きとともに、シーリンの意識は暗闇へと落ちていった。
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