第61話 グウィドラの破滅・チャド編(その4)
花の香りのする薄紫色のハンカチーフで右手を拭い終えたリブ・テンヴィーの目に公園の出口が見えた。ここを抜ければ、すぐに目抜き通りに出られる、と安心しかけた彼女の右腕が突然強い力でとらえられ、ぐい、と引っ張られる。舗道から芝生へ、さらにその奥へと引きずり込まれ、力任せに抛り出された。かかとの高い靴を履いていたにもかかわらず、転ばなかったのは幸運と言えたが、勢いのついたまま背中が木にぶつかった。痛くはなかったものの、強い衝撃を受けて動けずにいる彼女の白い喉元に刃物が突き付けられる。折り畳みナイフを右手で握りしめたチャドが笑っているとも怒っているとも取れない表情で、2つの目をぎらぎらと光らせていた。
「黙っておとなしくしていろ」
不運にも標的になってしまった美女を脅しつけようとしていたが、その声は若者らしくもなく、しわがれてくぐもっていて、どの程度効果があったかは怪しいものだった。
(こいつが悪いんだ。ぼくのものにならないから。ぼくの言うことを聞かないから)
心の中で言い訳を繰り返しながら、チャドは昂る一方の欲望の捌け口を探し求めていた。これくらいの役得はあっていいはずなのだ。自分のような人気絶頂のアイドルが、何が悲しくてこんな狭い
「やっぱりこうなるのね」
脅されているはずのリブ・テンヴィーは顔色こそ青ざめてはいるが、いたって冷静で、すっかり頭に血が上っている少年には、それがどうしようもなく癇に障った。
「ねえ、もうやめておいた方がいいわ。こんなことをしても、あなたのためにならないから。それに、あなた、本当はこういうことに慣れてないんでしょう?」
占い師はいくらか悲しげなまなざしを少年の持つナイフに向ける。夕日を受けて輝くその先端が小刻みに揺れているのは、チャドの腕が震えているせいだ。彼女の言う通り、少年はこれまで他人に対して乱暴な行動に出たことはなかった。同じ「グウィドラ」のメンバーであるカネロが格闘技に熱中しているのも軽蔑していたほど、暴力を嫌っていたはずなのだ。そういう野蛮なことは、アイドルとしてやるべきでなく、女の子の憧れの存在として、いつもエレガントでいなければならない、と思っていたのだ。
「うるさい! 黙れ! 黙れ!」
ひっくり返った声でチャドは叫んだ。少年は日頃の信念をかなぐり捨てて、美女を掌中に収めるべく粗暴な行動に出ているわけだが、そういった行為は相手を畏怖させるものではなく、かえって彼自身のひよわさを露呈することになってしまっていた。リブの瞳にも恐れよりも憐れみや蔑みが浮かんでいるのが見えた気がして、
「無駄な抵抗はやめろ。叫んだって誰も助けに来ないぞ」
チャドは怒鳴り散らかすと、美女に襲いかかろうとする。今、2人は公園の奥まった場所まで来ていて、そこは木々や茂みのせいでもともと視界が悪く、さらに日没が近いこともあって人通りも減っていて、少年が蛮行に及んだところで誰かに見つかる可能性はそれほど高くない、と思われた。占い師にとって不運な状況であり、アイドル男子にとっては幸運な状況、といえた。
(もう我慢できない)
荒れ狂う欲望の赴くままに、チャドは目の前のグラマラスな肉体へと手を伸ばそうとする。薔薇の花びらのような唇を貪り、ブラウスを引きちぎって裸の胸を直に揉みしだき、ストッキングをびりびり破いてから、タイトスカートの中に手を差し入れる。数秒後に実現するはずの光景を思い描くだけで、少年はエクスタシーに軽く達しかけるが、それでも手の動きは止まらず、とうとう美貌に指が届こうとしたそのとき、
「そんなことをしたらいけないわ」
女占い師が少年の非行をたしなめる。その声にはまるで切迫したものが感じられず、自らに迫り来るケダモノを追い払おうとするのではなく、ポイ捨てを注意するかのような温和なトーンだったので、
(うるさいよ)
チャドもそんなことでは止まらなかったのだが、それに続いて、
「お母さんも悲しむはずよ」
リブ・テンヴィーに静かに言われた「グウィドラ」のチャドの動きは完全に静止していた。少年の目は大きく開かれ、茶色い瞳が小さくなって、白目だけがやけに大きく見えていた。
「は?」
「あなたを見ているとわかるわ。お母さんが愛情をこめてあなたを大事に育てた、って」
チャドの視界が暗くなったのは、夕闇が迫ってきたせいだけではない。よりによって、この状況で一番言われたくないことを言われたからだ。
「おふくろは関係ないだろ」
そう口走っていた。チャドの母親はマズカ帝国で確固たる地位を築いた女性歌手だった。だからこそ、少年も同じ芸能の道を歩いていたのだ(余談だが、ジャンニ・ケッダーは過去に彼女のマネージャーをしていたことがある)。母は息子を溺愛し、かなえられる限りの願いはかなえてきたのだが、当の息子はその愛情を重荷に感じて、真綿に包まれたかのような窒息する寸前の息苦しさをおぼえていた。
(おふくろは関係ないだろ)
というのはチャドの中に常にある思いだった。「グウィドラ」でどんなに成功しようとも母を引き合いに出されて比較された。自分の力だけでここまでのし上がってきたつもりだったのに、どこまでいっても「彼女の息子」としてしか見られない鬱屈が蓄積して、溢れ出していた。
「ボクちゃん、あれじゃダメよ」
よかれと思ってなのだろうが、いちいち口出ししてくる母親も鬱陶しかった。自分はもう大人なのだ。抛っておいてほしい。だが、少しでも反抗しようものなら、母はさめざめと泣き、「あんなに優しいお母さんになんてひどい」と周囲は息子だけを責め立てるので、逆らうこともできずにいた。
「おふくろは関係ないだろ」
もう一度言ったのは、一番触れられたくない箇所に触れられた怒りのせいだ。生贄の羊は無駄なおしゃべりをしないで、黙って食われてしまえばいいのに、
「関係なくないわ。あなたを生んでくれた人じゃない」
女占い師はまだ口答えするので、チャドは思わず叫んでしまう。
「うるせえな! ここにいない人間の話をするんじゃねえよ!」
生まれて初めて母親から遠く離れられたことに、少年は心から喜びを感じていた。アステラ王国で長期ツアーをすると聞かされたとき、「グウィドラ」のメンバーでチャドだけが喜んだ(カネロが帰ってしまったのはホームシックのせいだろうか?)。口うるさい母の束縛から逃れられて、解放感を味わっていた。演技にも私生活にも何も言われることのない毎日。それこそが自分の求めていたものだったのに、こんな大事な場面で一番聞きたくない名前を出されてアイドル男子の怒りは頂点を超えてしまっていた。このままだと、脅すためのナイフを本当に使ってしまいそうだ。
「ここにいない?」
だが、彼と向かい合うリブ・テンヴィーは冷静そのものだった。甘い蜜を常に含んでいるかのような唇から言葉をゆっくりと紡ぎ出す。
「お母さんはずっとそばにいるじゃない。あなた、気づいてないの?」
最初はある種の精神論を言われているのかと思って、チャドは笑い飛ばすつもりでいた。だが、そうではない、と気づいたのは、美女の瞳を見てしまったせいだ。レンズの向こうで妖しい紫の光がゆっくりと渦を巻いている。それはこの世界とは別の何処かへとつながっているかのようで、性的な興奮にとりつかれていた少年の貧弱な脳が一瞬で冷却される。
「わからないなら、教えてあげる」
そう言って、リブは、すっ、と右手を伸ばして、チャドを指さした。いや、正確に言えば、チャドの後方を指さしていた。
「お母さんは、そこにいるわ」
そんな馬鹿な、と思ったが、占い師の言葉は真実だと認めるしかなかった。何故なら、背後から首に巻き着く感触があったからだ。なんとも暑苦しく不快でしかない、さながら年増女のぶよぶよ膨れた腕のようだ。そして、
「ちゃあああああああああああどおおおおおおおおおおおおおおお」
自分を奥深い穴蔵へと引きずり込もうとする、二度とは戻れない場所へと閉じ込めてしまおうとする声が少年の耳元で響く。
「いやだ、いやだ」
チャドは後方へとよろめく。少年の手からナイフが芝生へと落下するのを占い師は冷然と見つめて、
「よかったわね。そんなにまで、お母さんに愛されて」
それが決め手となった。ひい、と叫びながら、チャドはうずくまった。
「やめて、やめてよ、ママ、お願いだから」
頭を抱えて震える少年を一瞥もせずに歩き去ろうとしたリブの足が一瞬だけ止まったのは、ぽきり、と小枝を踏み折ったのに気づいたからだ。
(人間って脆いわね。この枝よりも脆い)
たった今自分が一人の少年の心を折ったのを自覚しつつも、それについて特に感慨を覚えることもないまま、占い師は舗道へと戻っていく。いつの間にか、街灯に明かりがともっていた。
(やっぱり、わたしはおばあちゃんには遠く及ばない)
「おばあちゃん」というのは、リブに占いを教えた師匠のことである。彼女はある種の超能力の持ち主で奇跡に近い現象を引き起こすのを何度も目撃してきた。弟子であるリブも、不思議な力を多少持ってはいて、その力を行使することで傲慢な少年の手から逃れることができたのだが、久々に力を使ったことで、やはり恩師とはレベルがまるで違う、と改めて痛感させられていた。だが、それを悔しいとは思わない。大きな力を持つことは「普通」から遠く離れることを意味していて、それは同時に幸福からも遠ざかることなのだ、とリブは思わざるを得ない。未来を見たり死者と話したりできなければ、「おばあちゃん」はありふれた普通の女性として一生を終えていただろうし、最強と呼ばれるほどに強くなければ、セイジア・タリウスは貴族の令嬢として、今頃どこかに無事嫁いでいたはずで、2人にはそれなりの幸福が用意されていたはずなのだ。
(まあ、そんなおばあちゃんやセイなんて、とても想像できないんだけど)
リブは思わず笑ってしまう。そんな彼女もまた優れた能力の持ち主であるがゆえに波乱の人生を歩まねばならなかったのだが、リブ・テンヴィーの過去については、いずれ詳しく語る機会もあるだろうから、ここでは語らないことにする。
ぴたっ、と占い師は足を止めると、
「口直しがしたい」
思わずつぶやいていた。無理矢理言い寄ってきた男を撃退したところで、胸の内はちっともおさまらない。ただただ気持ちが悪かった。「これはないな」という男に迫られるのは、家の中で害虫を目撃したのと同等かそれ以上に不快なのだ。リカバリーするには、かなり楽しい思いをしなければならなかった。
「そうなると、やっぱりアレね」
占い師の決断は早かった。今すぐシーザー・レオンハルトとアリエル・フィッツシモンズを呼び出し、夜の酒場に繰り出して、2人と一緒に飲むことにしたのだ。ワイルド系とかわいい系、2人の美形と一緒に過ごすことで元気を取り戻したかった。
「セイの秘密を教えてあげる」
とでも言えば、あの2人がたやすく引っかかるのもわかっていたし、実際にそうなった。そんなわけで、その夜、リブ・テンヴィーはいつもより多めに酒をきこしめし、シーザーとアルは彼女に翻弄されてぐったりと疲れ切る羽目になったのであった。
チャドのその後についても簡単に記しておくことにする。リブに心を折られた少年は、その夜のうちにマズカ帝国への帰途についた。「グウィドラ」の3人のうち、2人が離脱したことになる。カネロとは違って、彼はその後も芸能活動を継続させ、人気もそれなりに持続したが、その一方で私生活は荒れるばかりで、スキャンダルが絶えることはなかった。ある貴婦人と密会して金銭トラブルを起こしたかと思えば、大物プロモーターの愛人である女優に近づいて裏社会を巻き込む騒ぎになったり、歌手志望の女の子を言葉巧みにだまして弄んだ挙句に抛り出して自殺騒ぎを引き起こすなど、ゴシップ誌の常連になっていた。それらの醜聞については、「色男」「プレイボーイ」として大目に見る気風が芸能界には存在していたのだが、チャドの人気を失墜させたのは母親への態度だった。息子が揉め事を起こすたびに母は後始末に奔走して、涙ながらに我が子を叱っていたのだが、彼はそれに苛立って、とうとう手まで出すようになってしまった。
「悪いけど、明日の公演、キャンセルしてくれない?」
コンサートの前日に、顔面を包帯で痛々しく隠した彼女に謝られたスタッフは「あの馬鹿息子がやりやがった」と怒り、その噂は業界にあっという間に広がり、チャドは芸能界全体を敵に回すこととなった。彼女の息子への接し方は確かに過保護ではあったが、その愛情の深さは疑いようのないものであって、痛い目にあわされる筋合などないのだ。話を聞きつけたジャンニ・ケッダーも激怒してチャドとの契約を解除しようと決心したのだが、駆けつけてきた母親に「あの子は悪くないの」と泣かれたことで、どうにか思いとどまった。だが、DV常習犯の人間に需要などあるはずもなく、少年の仕事はないも同然となり、母親のコンサートの前座に出演するくらいしか、人前に出る機会はなくなった。だが、そんな状況でもチャドに悔い改めるところはなかった。自分は悪くない。自分を理解しない世間が悪いのだとばかり思っていた。
そんな少年の破局は唐突に訪れた。母親が急死したのだ。若い愛人の家でいわゆる「腹上死」を遂げたことは、当然大スキャンダルとなったが、「恋多き女性」らしい、と悼む声も大きく、そこまで彼女の名声を傷つけはしなかった。だが、チャドの落胆は甚だしいもので、母が亡くなってからというもの、毎日泣き崩れては酒に溺れ、葬式にも参列できない有様だった。結局、そこから彼は立ち直ることができないまま、一生を終えることとなる。母親の残した莫大な遺産のおかげで、細々と食いつないでいくことはできたが、彼が引きこもる実家は荒れ果てた「ゴミ屋敷」と化し、かつてはアイドルとしてマズカ帝国の女子の憧れの的となった容姿も醜く崩れ、ぶくぶく太り禿げ散らかし不精髭を生やしたその姿は、ゴシップ誌で何度も取り上げられた後で、いつしかニュースバリューも消え失せ、スルーされるようになった。最期がどうであったかも伝わっていないが、孤独死したのではないか、というのが有力な見解である。
「チャドは母親に甘えていないつもりで、どっぷり甘え切っていた。本人に自覚のない依存こそが、もっとも
という大著「ケッダー家の興亡」の一節を引用して、この話を締めくくることとする。
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