第56話 グウィドラの破滅・カネロ編(その3)

夜だというのに「くまさん亭」の店内はごった返し、通りにはみ出すほど人が押し寄せていた。そのお目当てはもちろんカリー・コンプだ。「ブランルージュ」予選会でのパフォーマンスが評判を呼んで、彼が来ると聞きつけたファンがより多く大衆食堂に詰めかけるようになったのだ。しかし、当のカリーはそれを心苦しく思っていた。

「すみません、おかみさん。ご迷惑ではないでしょうか」

吟遊詩人はこの女主人であるノーザ・ベアラーに頭を下げる。自分の演奏で店に貢献できれば、と思っていたが、テーブルにもカウンターにも座れないほど客が来るとなるとトラブルのもとになるのではないか、と危惧していたのだ。

「もしよろしければ、わたしの方からみなさんに注文を取るように言って」

「その先は言いっこなしだよ」

ノーザはきっぱりとカリーの言葉を断ち切った。

「あんたはあんたのことだけ考えてればいいんだ。店の心配までされる覚えはないね」

女主人の後ろでは、シーリンとイクが前掛けを付けて控えていた。2人とも接客のバイトをする、という名目で憧れの青年を間近で見るつもりでいたのだ。

「おかみさん、ああ言ってますけど、大丈夫なんですか?」

シーリンがひそひそ声ですぐそばにいるこの店の料理人であるオーマに訊ねると、

「まあ、注文をしてもらった方がいいに決まっているが、おかみさんが決めたことだからおれらは従うまでだ。もちろんうちも商売でやっているわけだが、商売だけでやっているわけでもない、という話だな」

小柄な料理人からそう聞かされても、少女たちに言葉の意味が正確に理解できたわけではないが、それでもノーザという女性の持つ深みだけはなんとなく伝わっていた。そんな人だからこそ、自分たちを雇って、面倒を見てくれているのだ、とあらためてありがたく思っていた。

「そのことなら心配無用だ」

最前列に陣取った恰幅のいい男性がよく通る声で言った。

「おかみさん、ここにいるみんなに酒と何か料理を出してくれ。わしのおごりだ」

ジャンニ・ケッダーがそう言うと、全員が歓声を上げた。

「またあなたですか」

カリーはあまり嬉しくもなさそうに言う。ここのところ、街で演奏すると必ずこの男の姿があったのだ。

「そんな見張るような真似をなさらなくても、マズカにはちゃんと伺いますよ」

「いや、それとこれとは話が別だ。わしはきみのファンとして歌を聴きたいだけなんだ。わずかなりとも聴き逃したくはないのだ」

マズカ帝国の芸能界の大物に「追っかけ」をされて、カリーは困惑するばかりだったが、それと同時に老齢に差し掛かりながらも気に入った対象を追いかける情熱には敬意を払わざるを得なかった。

(それに、この人はかなり勘がいい。わたしの演奏にわずかでもゆるみがあれば見逃してはくれないだろう)

この吟遊詩人がいかなる場でも油断などするはずもないが、より高い境地で演奏しなければならない、と心を決めていた。ジャンニだけでなく自分とも勝負しなければならない。

「わかりました。それでは今夜は『金色の戦乙女』を歌わせてもらいます」

カリーがそう告げると、客が歓声を上げ拍手をした。吟遊詩人の十八番と呼ぶべきナンバーであり、一番人気の曲だった。

(おお、噂には聞いていたが、実際に聴くのは初めてだ)

これで詩人の真の力量がわかるのではないか、とジャンニの期待も高まる。

繊細さと力強さを併せ持つ指が弦をかき鳴らした瞬間に店内は静まり返り、最初の歌声が響くと、そこは完全に詩人カリー・コンプの世界と化していた。

(今までと全然違う)

ノーザは驚愕していた。カリーが「金色の戦乙女」を歌うのを何度も耳にしていて、その素晴らしさは十二分に分かっているつもりだったが、今夜の演奏はこれまでのものよりもさらに素晴らしい出来だったからだ。完璧だと思われた存在がさらに完璧なものとなろうとしているのに、驚き以外のどのような感情を持てばいいというのか。

(これ、セイの歌だ)

イクにはわかっていた。もちろん、歌詞を聞けば、セイジア・タリウスの数々の輝かしい戦いぶりを謳いあげた内容だというのはわかる。しかし、それ以前に詩人の歌声が耳に届くと、金髪の騎士の目覚ましい動きが実際に見えるかのように感じられるのだ。言葉よりも先に感覚で半ば強制的に理解させられていくのに、2人の少女は陶然とするあまり足下がおぼつかなくなってしまう。

(この青年の歌は生きている)

ジャンニ・ケッダーは「金色の戦乙女」を初めて聞いたにもかかわらず、その本質をしっかりつかんでいた。音楽を生かすも殺すも演者次第、というのを芸能に長く携わるうちにこの老人が見出した教訓でもあった。いかなる名曲も、歌い手がただ漫然と歌い、弾き手が譜面通りにのみ演奏することだけを心掛けているようでは、たちまち腐ってしまうのだ。それを目の前の青年もわかっているのだろう。今が完成形だと思わず、絶えざる進化を目指し、未来へと届く歌にしようとしているのだろう。

(なんと尊い志だ。その精神がきみを「楽神」たらしめているのか)

知らず知らずのうちに、男の目から涙がこぼれていた。老い先短い自分が、この先何年生きていられるかわからないが、何かを残したい、後に続く人々に大事なことを伝えていきたい、という思いが形になっていた。詩人の渾身の歌が芸能界の大物の心に変化を及ぼしたのだ。

(あのときのセイジアを知ってしまえば、わたしも立ち止まっているわけにはいかない)

カリー・コンプは必死だった。「ブランルージュ」予選会でのセイジア・タリウスの踊りに衝撃を受け、その夜は一睡もできなかったのだ。これまで「金色の戦乙女」で彼女の戦いぶりを謳いあげてきたつもりだったが、あのときのセイと比べると、断片的な部分しか伝えてこられなかったのだ、と思わざるを得なかった。

(もっといい歌にするんだ。人の心をより強く打つんだ)

ジャンニ・ケッダーが感じたような志のみで彼は動いていたわけではない。詩人にとっての向上心は飢餓感にも似ていた。普通の人が食事を摂って腹を満たすように、カリーは歌うたいとして上達しなければ満足できなかったのだ。女騎士の演技によって得た新たなインスピレーションに従って、彼は「金色の戦乙女」をよりふさわしいかたちへと変えていく。客から自然発生した手拍子もその手助けをしてくれる。

(これが今のわたしにできる精一杯だ)

決して満足はできないが、ある程度の達成感を抱きながら、演奏を締めくくると、食堂から沸き起こった拍手と歓声は通りにまで溢れ出した。

「ありがとうございます」

頭を下げるカリーの両手をジャンニが、がし、と握りしめた。

「きみと同じ時代にギリギリ居合わせることができて、わたしは本当に幸せだ。どうだろう? わたしの会社の専属になってはくれないか? ぜひそうさせてほしい」

「いや、それはちょっと」

何物にも縛られることなく自由であり続けたい吟遊詩人は契約の申し出に困ってしまう。そんな美青年を頬を染めてうっとりした目で見つめるシーリンとイクを見て、

(わたしにもああいう頃はあったのかね)

ノーザ・ベアラーは苦笑いしつつも、

「ほら、あんたたちもぼーっとしてないで手伝うんだよ」

と言って、バイトの少女たちに酒と料理を運ぶように言いつけた。ジャンニがおごることになっている品々がやってくると、客は再び歓声を上げ、そこからはにぎやかな宴が始まったのであった。


その場にいた人間が誰もが幸せだったか、というとそういうわけでもなかった。通りにはみ出した人だかりの一番後ろでカネロが目を血走らせていたからだ。それだけ初めて聴いたカリー・コンプの演奏が衝撃的だったのだ。演奏技術の高さ、歌声の伸びやかさ、どれも桁外れだった。少年とはレベルがかけはなれていた。普通の人間であれば、おのれの未熟さを素直に認めてさらなる精進を誓ったことだろう。熱心さを持ち合わせていれば、カリーに教えを乞うこともできたかもしれない。だが、カネロは才能があるだけに誇りも高く、他人に頭を下げたことがないうえに、これまで自分よりすぐれた人間と出会ったことがなく、敗北も挫折も知らずに来ていた。それはこれまでの少年にとっては幸いなことだったが、失敗からの立ち直り方を学べなかった、という点では、これからの少年にとっては不幸だった、とも言えた。

(認めねえ)

したがって、カネロは最悪の選択をしてしまった。あくまで自分の方がカリーよりも上だと思い込もうとしていた。

(おれが勝っているに決まっている。そうじゃないとおかしい)

カリー・コンプをジャンニ・ケッダーが満面の笑顔で褒め称えているのが目に入ったのも少年の憤りに拍車をかけていた。「おれにはあんな風に言ってくれたことはないのに」と頭に血が上るのを感じた。もちろん、ジャンニに言わせれば、自分のプロダクションのタレントを手放しで褒めるわけにはいかない、という彼なりのポリシーがあるのだが、もともと視野の狭いカネロがそういった事情を推察するはずもなかった。

(ぶっつぶしてやる)

カネロはアイデンティティを守るために動くことを決意していた。最悪の選択から導き出されるのは最悪の行動にほかならず、そしてそれが最悪の結果を招くのは言うまでもないはずのことであった。



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