第31話 女騎士さん、捕らわれる

寒い夜だったが、暖炉が燃え盛っている部屋の中は暖かかった。豪華な調度品で飾られた室内で、アステラ王国の首都チキの裏社会を支配する組織のボス、サンシュはご機嫌そのもので鼻唄まで歌っていた。なにしろ、チキから少し離れた田園地帯にあるこの別邸までこれから素敵な贈り物が届くはずなのだ。一目見たときから我が物にすることに決めていた少女を連れてくるよう、部下たちに命じていた。

「おれは行かなくてよかったのか?」

部屋の隅から陰鬱な声がボスの耳に届く。明るく暖かな部屋で、その男の周りだけは暗く寒々とした雰囲気が漂っている。「影」と呼ばれる凶悪なる暴力の使い手だ。

「なあに。いくら強い拳銃使いとはいえ、50人も差し向ければ十分でしょう。それに、うちの用心棒で一番強いには、わしのそばにいてほしいのですよ」

「影」が組織に雇われたのは偶然だった。チキの路地裏で酔っぱらった青年たちにからまれて、これ幸いと思う存分叩きのめしているところを、組織の下っ端にスカウトされたのだ。黒い刺客の腕前を見抜いた幹部がサンシュに推薦し、それ以来ボディガードとしてボスのそばに控えていた。

(あいつ、女だったのか)

「影」はひそかに思う。サンシュの言う「拳銃使い」とは、以前やりあった相手のはずだった。確かに実力はあったが、50人のゴロツキを相手に切り抜けるのは難しいだろう、と見ていた。しかも、一仕事を済ませて疲弊したところを取り押さえる、という話のようなので、黒い男は雇い主のしたたかさを認めざるを得なかった。一見、醜い小太りの中年男のようだが、一国の首都の暗黒街を支配する人間がただものであるはずもない。

「ええい、まだか」

赤ワインをぐびぐび飲んでいたサンシュはしびれを切らして、高級な絨毯の上をうろつきだす。美女と美少女を強引に我が物とするのはこの男の最も好むところだった。貧しく非力で醜い男は若い頃蔑まれ続け、屈辱にまみれた日々を送っていた。

「今に見ていろ」

怨念に突き動かされた男は、組織の末端に加わり、目上の人間にこびへつらい、仲間を裏切り、市井で平穏に暮らす人々を陥れることで、地位を築き上げていった。自分の手は一切汚すことなく狡猾に立ち回って、いまや貴族や豪商も無視できないほどの人物にのしあがっていたが、若き日に虐げられた思いは今でもこの男の中に残り続け、その恨みを晴らしたいがためにたびたび蛮行に及んでいた。特に気位の高い女性を力ずくで手籠めにするのを男は好んでいて、リアス・アークエットなる拳銃使いの少女は、彼女にとって実に不幸なことにマフィアのボスの好みのど真ん中に位置してしまっていた。

(裏切り者を始末させた後で、わしのものにできれば、まさしく一粒で二度おいしい、というやつだ)

5人の娘を「ブランルージュ」に出場させたい、というリアスの思いをサンシュはまんまと利用し、今晩ようやく思いが叶おうとしていた。そのとき、チョコレート色のドアが開いた。

「遅くなりました」

「まったくだ。わしを待たせるとは何事だ」

さらに叱責しようとしたサンシュが黙ったのは、部屋の入ってきた部下の顔が血まみれだったからだ。鼻を押さえたハンカチーフが真っ赤に染まっている。

(おいおい)

後に続いて入ってきたやくざ者もみんな怪我をしているので「影」は呆れてしまう。ある者は脚を引きずり、ある者は折れた腕をだらりと垂らし、ある者の目はつぶれていて、誰一人として無事な人間はいない。

「そこまで手こずったのか?」

サンシュもさすがに動揺したが、すぐに気を取り直して、

「それでお目当てのブツは手に入ったのか?」

威厳らしきものを出そうとしているボスに向かって、部下は「いや、それがその」と躊躇してから、

「これから連れてくると思います」

とだけ告げた。「なんだと?」と激昂する組織のドン。

「わしの命令を達成できないままに、おめおめと帰ってきたのか」

「いえ、大丈夫だと思います。ただ、少し時間がかかるだけで」

部下がそのように弁解したのは、別動隊がリアスをいずれ捕捉するだろう、という見込みがあったからだが、彼らが既にシーザー・レオンハルトとアリエル・フィッツシモンズによって全滅させられているとは知る由もない。

「実にけしからん。貴様ら、ただで済むとは思うなよ」

「いえ、その代わりといっては何ですが、別の品を手に入れましたので」

「なに?」

おい、と鼻血を垂れ流す男が声をかけると、2人の男が部屋へと入ってきた。一人は頭を、もう一人は脚を持って、誰かを運んできた。どさ、と部屋の中央に投げ出された人物を見て、サンシュは驚喜した。憧れて夢にまで見た人が目の前にいたのだ。

「おお、これは、なんと」

そして、「影」は愕然とする。

(セイジア・タリウス!)

かつて彼に勝利した、いずれ復讐を誓った相手とまさかこの場で再会するとは。しかも、彼女は目を閉じて力なく横たわっている。信じがたい、信じたくない光景であった。

「どういうことなんだ、これは?」

「いや、事情はわかりませんが、いきなり拳銃使いを助けに来て、暴れに暴れて」

(そういうことか)

サンシュは手下が怪我をしている理由をようやく理解していた。「金色の戦乙女」を相手にして無事でいられるはずがない。

「だいぶ手こずったようだが」

「チェザーレを5、6発撃って大人しくさせようとしたのですが、それでもまだ暴れ回ったので、遠くから追加で10発以上撃ってようやく動かなくなったんです」

「いや、それは」

ボスが絶句したのも無理はなかった。拳銃使いへの対策として用意していたのだが、並の人間なら1発撃たれただけでも朝から晩まで眠りこんでしまう強力な眠り薬なのだ。それを15発も撃ったとなると、命にまで関わるのではないか。

(なんたるざまだ)

その一方で「影」は宿敵のふがいなさを罵りたい気持ちでいっぱいになっていた。「チェザーレ」の絶大な効果はこの男もよく知るところで、そんな薬を撃たれながらもよく抵抗した、と言えなくもないが、それで捕らわれの身になってしまっては何の意味もないではないか。「見損なった」と思い切り言ってやりたかった。

「しかし、ここまでする必要はあるのか?」

サンシュが首を捻ったのは、女騎士の両手首に木でできた頑丈な手枷がはめられていたからだ。1枚の分厚い板に2つの白く細い手首が通されている。

「あります」

と部下が断言したのは、彼女の暴れっぷりを目の当たりにしたからだ。リアスを逃がしてから、セイは追跡しようとする悪党どもを馬から叩き落し足止めして、手負いの獅子のように手が付けられなかったのだ。遠巻きにして、「チェザーレ」を仕込んだ吹き矢を打ち込むことでしか鎮圧できなかった相手だ。眠っているからと言って安心できるものではない。正直に言えば、足枷もはめておきたいのだが、それはボスがお気に召さないだろう、と思ってできなかった。股を開かせることができないのを、好色な男が辛抱できるはずもない。

「まあ、いい」

サンシュは小さな目を欲望で濁らせながら、

「でかしたぞ、おまえら。最強の女騎士をわしに献上するとは、やるではないか」

と息を荒くしてつぶやいた。ボスのご機嫌を損ねずに済んだ、とわかってやくざ者たちは胸を撫で下ろした。

(まさか、わしの手の届くところに降りてくるとは)

セイジア・タリウスこそサンシュが鑽仰してやまない相手だった。貴族の生まれの誇り高い女騎士。そんな彼女を汚してやりたい、と何度も思っていた。彼の別宅に、組織の魔の手によって零落した貴族家の令嬢や、美しい金色の髪の女子が大勢囲われているのも、どうしても手に入らない彼女の代わりを追い求めてのことだったが、そうすればするほど、彼女の代わりなどいるはずがない、と思い知らされ、より恋焦がれる始末だった。裏社会で権力を持ち財を築こうが、表舞台で光り輝く女性に手が届くはずがない、と諦めかけていたのだが、この男の邪悪な夢が今叶おうとしていた。

「なんと美しい」

眠りこけたセイの頬に、ぶよぶよ膨れた手が当てられる。天上の雲のごとき感触に、それだけで男は絶頂に達しそうになる。逸る気持ちを押さえつつ、拘束された両腕を頭上へと持っていく。そして、こげ茶色のシャツの襟元に両手をかけて思い切り力を込めた。ぶちぶち、と音を立てて破れたシャツから白い肌がのぞくと、室内の全員が「おお」とどよめいた。露わになった胸の谷間から目が離せなくなり、思わず股間に手をやった痴れ者も何人かいた。それまでは、王国で絶大な人気を誇る女騎士を凌辱すると報復されるのではないのか、と後のことを冷静に考えている者も何人かいたが、所詮はやくざなので、魅力的な肢体を目の前にすれば我慢などできるはずもなく、もはや全員が彼女の虜と成り果てていた。

いや、正確に言えばひとりだけ、違う感情を持っている人間がいた。「影」だ。彼もやはり女騎士の素肌から目を離すことはできなかったが、その心中ではいつにも増してどす黒いものが荒れ狂っていた。あの醜く太った男が金髪の美しい騎士にこれからしようとしていることを考えると、頭がおかしくなりそうだった。このまま黙って見ていることなどできない。どうにかして助ける方法はないのか、と思いかけて男は我に返る。

(「助ける」だと? どうしておれがあいつを助けなければならんのだ)

自分は組織に雇われている身であり、あの女は自分の不始末で捕らわれたのだ。助ける義理も、邪魔立てする道理もあるはずがなかった。だが、頭ではわかっていても心は静まらない。目の前の現実を肉体が全力で拒否しようとしている。あまりに歯を食いしばりすぎて、唇の端から血が流れ落ちているのに「影」は気づかない。何処の世界にも空気の読めない人間はいるようで、チンピラがひとり「影」へと近づいてきた。こいつもセイに怪我させられた右足を引きずっている。

「まったくたまんねえな。ボスがやっちゃった後で、おれたちにも順番が回ってくるといいんだけどよ」

サンシュの機嫌がよければ、子分も「おこぼれ」にあずかれることがある、という話のようだったが、「影」は答える代わりに黙って2本の指で男の鼻をむしりとった。壁にかかった出欠を示す札を裏返すかのように無造作にちぎると、ぽい、と肉片を足元に投げ捨てた。「あああああ」と顔の真ん中から血を噴き出させた男がのたうちまわるが、部屋中の関心はサンシュの下になったセイに集中しているので誰も気にすることはない。

「わしのものだ。これからずっとわしのものにする」

男の分厚い唇が女騎士の可憐な紅い唇へと近づきだしたのを見たとき、「影」の中で急速に考えがまとまった。

(あの女はおれが倒すのだ。おれ以外のやつがあいつを倒すのは許さん)

だから、決してあの女を助けるわけではない。おれはおれのために行動するだけだ。ようやく自己正当化する理屈を見つけ出した「影」が、「ぐふふ」と笑いながらセイの唇を奪おうとしているボスに向かって飛び掛かろうとしたまさにそのとき、どんっ、と大きな音を立てて部屋の中央から何かが打ち上げられた。

「は?」

部屋にいた男たちは全員、「影」を含めて呆然となる。季節外れの、しかも場所も間違えた花火か、と思ってから、いつの間にか女騎士の上にのしかかっていたはずのサンシュの姿がないのに気づく。何処に行った、と辺りを見渡してもその姿はない。

「あっ」

誰かが上を指さす。つられて見上げてみると、高い天井から男の短く太い足がぶらぶら揺れているのが見えた。ということはまさか。

「ボス?」

一同は唖然とする。さっきまで部屋の中にいたサンシュが突然上へと弾き飛ばされたのだ。そして、おそらく上半身は屋根を突き破っているはずだった。一体何が起こったのか、と驚くやくざ者たちに、

「そいつの仕業だ」

と「影」が声を震わせながら言い放つ。見ると、セイジア・タリウスの両脚が、ぴん、ときれいに上へと伸びていた。つまり、サンシュは女騎士に蹴飛ばされたのだ。なんという寝相の悪さ、そしてなんという馬鹿力だ、と悪漢たちは呆れてから、セイへと飛び掛かった。ボスがいないのをいいことに横たわる美女を抱き寄せようとしたわけだが、

「ぐう」

セイが寝返りを打ったおかげで、男たちの手は空を切る。そして、

「ぐう」

今度は逆に、もと居た方向に寝返りを打ち、強い勢いのついた手枷がごろつきの側頭部を直撃し、意識を失った男は部屋の端へと吹き飛んでいく。さらに、

「すやぁ」

寝転んだままの女騎士の右脚が大きく振られて、別の悪漢の顔面を蹴り飛ばした。カポエラのような足技を食らった巨体が猛烈にスピンしながら壁に叩きつけられたのを見た男たちの脳髄が急速に冷えていく。

(こいつ起きてるのか?)

「影」は疑問を抱いたが、

「ありえない。あんなに薬を打ったんだぞ」

最初に部屋にやってきた男ががくがく震えているのを見ると、目覚めるはずはないらしい。そして、いつの間にか立ち上がっていたセイの身体はふらふら揺れている上に、

「ぐう」

鼻提灯を出してよだれを垂らし、えへらえへら笑っている。いい夢をみているあどけない寝顔にしか見えない。

「やっちまえ!」

女騎士が依然として眠りこけていると見て、ヤクザ者たちが一斉に襲いかかるが、

「ぐう」

セイはきらきら光る金髪を揺らして、殺到する拳も凶刃も全てすんでのところでかわすと、

「んー、むにゃむにゃ」

はめられた手枷で男の顔面を打ち、別の男の首筋も強打し、気絶させる。彼女を拘束するための器具が逆に強力な武器になっていたのは、悪漢たちにとって皮肉な展開と言えた。

「ぐう」

なおも襲いかかる悪党を足払いでカーペットの上に転がし、

「ぐう」

左足で頭部を踏み抜き、動かなくさせる。戦闘のプロである「影」から見ても卓越した技法と言わざるを得なかった。酔えば酔うほど強くなる、という「酔拳」なる拳法の一派があるというが、それにならえば、今のセイは眠りが深いほどに強くなる「睡拳」を使っているのかもしれなかった。そこで不意に女騎士の美しい金色の眉がひそめられる。自らの腕が動かないように固定されているのにようやく気づいたようだ。

「ぐぬぬぬぬぬぬ」

セイが力を込めると、彼女の上半身がみるみるうちに膨れあがっていき、それを見た男たちがあんぐりと口を開ける。ふだんは細い肢体に秘められている鍛え上げられた筋肉がその正体を現したのを信じられない思いで見つめていると、さらに信じられないことに、ぴしぴし、と音を立てて手枷にひびが入っていくではないか。ナイフでも容易に傷つけられないほどに硬い木材があっけなくひびわれていく。そして、

「ふんす!」

女騎士が思い切り力むと、手枷は砕け散り、勢いよく飛んできた破片が散弾のごとく悪党の顔面を叩いた。運が悪いことに両目に命中した男が顔を押さえながら「ぐわああ」と絶叫する。

「ぐう」

両手が自由になった女騎士が眠ったままゆらゆらと近づいてくるのを見たときに、男たちの精神は崩壊した。自分たちがとんでもない怪物に手を出してしまったのにようやく気づき、遅ればせながら後悔していた。

「ばけものおおおおお」

泣きわめきながら部屋から逃げようとする2人組の襟首を、ジャガーのごとき敏捷さで接近した女騎士がとらえる。眠っていても失礼なことを言われるとやはり腹が立つらしい。セイは特に技を使うこともなく、片手に1人ずつ持った男たちを布きれを扱うかのようにぶんぶん振り回してから抛り投げた。すさまじい遠心力を加えられた2人はぼろくずのように成り果てて壁にへばりつく。部屋の新たな調度品として汚い壁画が付け加えられた、ということになるだろうか。

そこからは戦闘ではなく一方的な懲罰が加えられるのみとなった。怒り狂った羆に襲われた寒村の哀れな人々のように、やくざ者たちは涙と大小便を流して逃げ惑い、そのうちに捕まって身体の何処かに一生涯消えることのない深いダメージを負っていく。もちろん心もへし折られ、街で一般市民を相手に粋がることも、もうできそうになかった。「ごめんなさい」「おかあちゃん」と泣いて謝っても眠れる女騎士は許してはくれない。不幸なことに、いや、悪党どもの自業自得というべきだが、彼女はごろつき相手でもいつもはそれなりに手加減をするのだが、この夜は睡眠状態にあるためにフルパワーで男たちの相手をしていて、それがこの惨劇につながっていた。

(セイジア・タリウス。やはりおまえは恐るべき女だ)

「影」はさっき「見損なった」と思ったのを訂正したい気持ちになっていた。女騎士は寝ぼけて暴れ回っているわけではなく、鍛錬の結果、いかなる状況でも自らの身を守る境地に達したのだ、とこの男だけは見抜いていた。常住坐臥、いついかなる時も戦いを忘れない人間だけが到達できるレベルだ。だからこそ、意識を失っても戦えるのだ。敵ながらあっぱれ、と褒めたいくらいだ。

(おまえこそ、わが宿敵と呼ぶにふさわしい)

黒い仕事人は女騎士に挑みかかろうとする。今度こそ決着をつけるのだ。

(ゆくぞ!)

と思ったときにはもう遅かった。セイが「影」の懐に入り込んでいた。眠ったままの女騎士は刺客の頭によぎったかすかな戦意に自動的に反応したのだ。

(なに?)

「ぐう」

そして、強烈な一撃が「影」の全身にヒットする。セイが鋭く踏み込んだのちに背中で体当たりを食らわせたのだ。中国拳法でいうところの「鉄山靠てつざんこう」だ。破城槌に匹敵する衝撃を受けては、女騎士への復讐のために自らを刃のごとく研ぎ澄ませていた刺客も耐えられるものではない。

「がはっ」

失神した「影」の身体は暴風にあおられたかのように吹き飛ばされ、そのまま壁をぶち抜き、外界へと飛んでいった。壁に人型の穴が開いているのが、セイの技の威力のすさまじさを物語っていた。

「なんだ? いったいどうなってる?」

「影」が外に飛び出した衝撃で屋敷全体が揺れ、サンシュは目を覚ました。屋根の上に頭だけが突き出ていて、外気にさらされたおかげで脳天はすっかり冷え切り、鼻水も垂れている。あのセイジア・タリウスをあと少しで我が物に出来る、というところでマフィアのボスの記憶が途切れていた。じたばた動いてみるが、状況は何も変わらない。おまけに足には何の手応えもなく、とてつもなく不安だ。自分のような権力者がこんな目に遭っていいはずがない、と実は小心きわまりない男はパニックに陥る。

「わしはサンシュだぞ。アステラの影の王だぞ。ええい。誰か早く助けんか」

そんな願いを何者かがかなえたわけでもないのだろうが、次の瞬間、すぽっ、と屋根に開いた穴を抜けて、サンシュの肥満体は落下していた。

「ぎゃあああああああああ」

高い天井から落ちたのだから、それだけでも無事で済むはずもなかったのだが、さらに不運なことに、落ちてきた男へと何かが向かってくる。それが自分が手込めにしようとしていたセイジア・タリウスだと気づいたのと同時に、サンシュは再び失神していた。

「ぐう」

その豚面を女騎士が右足でジャンピングボレーのように蹴飛ばしたのだ。

「ごわっ」

ぐしゃ、と醜い顔が潰れてさらに醜くなり、そのまま剛速球のように飛んでいく。ゴールネットの代わりに壁を突き破ったボスは、勢いが衰えないままに屋敷の外へと姿を消す。「影」よりも飛距離は伸びて、敷地よりもずっと遠い畑までも行ってしまうかと思われた。かくして、マフィアは全滅した。

「があああああああああああっ!」

他に誰もいなくなった邸内でセイは勝利の雄叫びを上げる。彼女の猛威に耐えきれなくなった屋敷が音を立てて崩れようとしていた。天井から壁から、いたるところから漆喰がこぼれだしていたが、女騎士は構うことなく凱歌を上げ続けた。

「があああああああああああっ!」

その姿はまるで、太古の昔にこの地上に君臨したと言われる暴君竜ティラノサウルスにも似ていた。徐々に崩壊していく豪邸の中でセイジア・タリウスの咆哮は長く響き続けた。

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