第14話 少年騎士、女騎士さんにアタックする(後編)

つい先日、アリエル・フィッツシモンズが久々に実家へと戻ったときの話である。

「あら、お兄様」

居間に妹のアリシアの姿しかないので少年は戸惑った。祖母も母も姉もいない。

「あれ、みんなは?」

「お茶会にお呼ばれになったんです。お兄様がお戻りになるとわかっていれば、みんなで待っていたのに」

茶色い巻髪の愛らしい少女はつんと澄ましてお茶を飲んだ。さっき、兄が急に戻ってくると聞かされてあわてふためき、「どこかおかしいところはない?」とメイドに服装を何度も確認させたなどとはおくびにも出していなかった。

「それは悪かったね。でも、騎士団の仕事で近くまで来たけど、意外に早く終わったから、せっかくだから家にも寄っておこうと思ったんだ」

「お泊まりになられますの?」

「いや、明日も朝から会議があるんだ。だから、夕食を食べたら帰らせてもらうよ」

「お忙しいようで結構なこと」

落胆を表に出さないようにしながら、アリシアは静かに微笑んだ。彼女の兄は対面の椅子に座ると、

「でも、どうして、アリーだけ家にいるんだ?」

と訊ねてきた。

「わたくしは朝からお勉強会に出かけていて、今しがた帰ってきたところです」

「へえ、それは感心だね」

素直なアルは妹の言葉をそのまま受け取ったが、勉強会というのは名前だけで、その実体は貴族のお嬢様方のおしゃべりに他ならなかった。社交界のゴシップが主な話題で、学校の授業で学ぶような事柄など全く出てこなかったのだが、彼女たちに言わせれば、配偶者の選択こそが女性にとっての最重要事項であり、男性を見る眼を養うために恋愛について語り合うのが何よりの勉強になる、とのことらしく、一見馬鹿げているように思えても、よく考えると簡単には否定できないものが、未来の淑女たちの主張には含まれていた。

「ところで、お兄様、セイジア・タリウス様が都にお戻りになられたと聞きましたが」

メイドが持ってきたカップに口を付けようとしたアルは、ぷは、と噴き出してしまい、お茶の表面にさざなみを立てた。

「あら、いやね。お兄様ったらお行儀の悪い」

「だって、アリーが急にそんなことを言うから。というか、そんなことをよく知ってるね」

「わたしたちの情報網を甘く見てはいけませんことよ」

アリシアはほくそえむ。田舎の令嬢には娯楽がないため、都の話題に花を咲かせるしかなく、そのおかげで都で暮らしている人間よりも都に詳しい、という奇妙な現象も生じていた。

「でも、どうせタリウス様に告白する勇気などお兄様にはないのでしょうけどね」

優柔不断な兄に向かって意地の悪い笑みを浮かべた妹だったが、

「いや」

自分と同じ茶色の瞳から強い意志のこもった視線が返ってきて少女は固まってしまう。

「今度こそちゃんと告白するよ。やっとのことで逢えたんだからね。それに、もううじうじしているのは嫌になったんだ」

その言葉が強がりでないのはまだ14歳の少女にもよくわかった。心を決めた人間だけが持つ落ち着きが、彼女の兄から伝わってきたからだ。

(なによ。いくじなしのお兄様のくせに)

そんなアルの変化がアリシアには妙に腹立たしかった。実家に帰ってくるたびに外見は精悍さを増していく一方で、中身は相変わらず優しいままの、そんなアンバランスさが兄の魅力だと彼女は思っていたのに、心までしっかりしてしまったら、それは普通にかっこいいだけではないか、と自分でもよくわからない不満を感じていた。

(それに、タリウス様って、お兄様が夢中になるほどの人なの?)

少女はその点も疑問だった。セイジア・タリウスが首都の食堂で身分を隠して働いていた、というのはフィッツシモンズ家の食卓でも以前話題になっていた。

「大したお嬢さんだ。ますますアリエルの嫁に欲しいね」

今でも侯爵家に睨みを利かせている祖母アレクサンドラが感心し、

「セシルさんも天国で喜んでいるでしょうね」

母アナスタシアはかつての友人を思って涙ぐみ、

「一度お話したいわ。同い年だし、きっとお友達になれると思うの」

姉アリアドネは期待に胸ときめかせていた。そんな家族の高評価もアリシアには不愉快に感じられた。噂話だけでそんなに褒め上げていいものか、という常識的な見方を根拠にしていると彼女自身は思い込んでいたが、実際のところ、反発の95%は感情的なものだった。「嫌なものは嫌だ」という理屈も何もない、それだけに強い思いが少女を憂鬱にさせていたのだ。

(そういうことなら)

アリシアは行動に出ることにした。よく言えば大胆、悪く言えば軽はずみ、というのが彼女の持ち味だった。

「では、わたくしからお兄様に策を授けようと思うのですが」

「策?」

かわいい妹から不穏な言葉が出てきてアルは眉を顰める。

「告白すると決められたのは結構ですけど、具体的にどうやってするかはまだお決めになってないのではありませんこと?」

「ああ、それは確かにそうなんだ。なかなかいい手が思いつかなくてね」

「やっぱりお兄様はダメですね」

と言いながらもアリシアはとても嬉しそうにしている。

「そういうことだろうと思ってました。なので、わたくしが女子がイチコロになるテクニックをお伝えいたしましょう」

(イチコロって)

少年騎士は呆れたが、4歳年下の妹が聞く耳を持っていないのはよくわかっていたので、好きに話をさせることにする。

「お兄様にお教えしたいのは、『ナローアスの抱擁』というものです」

「なろーあす?」

聞いたこともない単語だったが、アリシアの説明によると、かつて大陸で伝説的な恋愛マスターとして名を馳せたナローアスという男が得意にしていた技術、ということらしい。

「『ナローアスの抱擁』を一度受けてしまうと、どんな女子も明日にはヒノキになってしまうらしいのです」

意味がさっぱりわからないうえに、はあはあ、と息を荒くして顔も赤くなっている妹がアルはかなり心配になる。こんなことで嫁の貰い手が見つかるのだろうか。

「お黙りなさい。レディに対して無礼な口をきくと、お兄様でも許しませんよ」

はいはい、と受け流されてアリシアの頭に血が上る。いつまで経っても自分を子供扱いしてくる兄がどうしようもなく不満だった。

「わかりました。それでしたら、わたくしでお試しになってください」

「え?」

驚くアルに、ピンクのドレスを身にまとった少女が急にもじもじしながら、

「お兄様の恋愛成就のために、妹のわたくしが一肌脱ごう、と言っているのです。わたくしに『ナローアスの抱擁』をしてみてください」

「いや、アリー、いくらなんでもそれは」

「ブツブツ言ってないでさっさとおやりなさい!」

怒られたので仕方なくやってみることにする。拒否し続けると泣くに決まっていたし、この娘は一度不機嫌になるとちょっとやそっとでは元に戻らないのだ。

(でも、そういうところがかわいくもあるんだけど)

妹への愛情を認識しながらアルは立ち上がって少女へと近づく。

「抱擁、ということは、抱きしめればいいんだよね?」

「ええ」

兄を見上げたアリーはすっかり笑顔になっていた。

「わたくしの正面じゃなくて、向こうへ行ってください」

「こっち?」

いまいち納得できないまま少年は椅子の後ろへと回った。妹の後頭部しか見えない。美少女はつむじまで美しい、という余計な知識を得ていると、

「そのまま、わたくしの肩に手を回すのです」

「はあ」

つまり、通常ならば正面から抱きつくところを、「ナローアスの抱擁」は背後から抱きつく、ということらしい。それに何の意味があるのか、と思いながらもアリシアの肩に手を回し、兄妹の身体はぴったりくっつく格好になった。

「どうです?」

しばしの沈黙の後、アリシアがアルに問いかける。

「どうって?」

「その、なんというか、ドキドキしたりはしませんか?」

「いいや、全然」

あたりまえだ。妹にドキドキしていたら異常だ、ということで、アルはそのように答えたのだが、ぎゅう、と左手を思い切りつねられた。

「痛ててて、何をするんだ、アリー」

ほほほほほ、と甲高い笑い声を上げてから、少女は気を取り直してもう一度訊くことにする。

「そんな意地悪を言わないでくださいまし。ほら、もっと強くしっかりと抱きしめてください。わたくしを妹だと思わずに、タリウス様だと思って」

「おまえは団長じゃない」

がぶり。兄の突き放すかのような言葉に激怒したアリシアがアルの左手に噛みついていた。

「痛たたたたた。だから、やめてくれ、アリー」

アルに泣きつかれて少女は口を離した。兄の左手の甲に噛み跡がアーチを描いているのが見えて、少しだけ満足感が得られた。

「あのなあ、アリー。もうちょっと礼儀正しくしないと、社交界じゃやっていけないぞ?」

「お兄様が無礼だから、わたくしも無礼になっただけです」

口の減らない妹に王立騎士団副長は呆れてものも言えなくなり、腕をほどこうとしたが、その手をつかまれた。

「アリー?」

「まだこれで終わりではありません」

まだ続くのか、と少年がいくぶんうんざりした気持ちになっていると、

「愛の言葉をささやいてください」

「いや、それは」

妹相手にそんなことを言えるものか、と思ったが、

「さあ、早く」

異様なまでの圧を感じたので仕方なく言うことにする。

「あいしてるよ」

ごん、と少女の後頭部が鼻にぶつかってきて、アルは激痛にのたうちまわる。

「なんですか、今のは。全くの棒読みで、全くもって心がこもっていないではありませんか。まさに史上最悪の告白です」

いや、だから、おまえを相手に心がこもったらおかしいだろう、と兄としては反論したかったが、鼻が痛くてそれどころではない。血が出ていないのが唯一の救いだった。

「こんなことでは、本番でも上手く行きっこありませんわね」

アリーは冷たく言ったつもりだったが、心の中は荒れていた。

(お兄様ったら本当にタリウス様のことしか頭にないのね)

そのことが無闇に悔しかった。自分だってもう子供ではないとわからせたいのに、と思っているうちに、ひとつの閃きが少女の頭に宿った。

「ねえ、お兄様」

「なんだい、アリー?」

いろいろ騒ぎはあったものの、兄妹の抱擁はまだ続いていた。それもひとえにアルの腕をアリシアが離さなかったせいなのだが。

「その、なんというか、その」

少し口ごもってから、

「キスをしませんか?」

「はあ?」

驚きとも悲鳴ともつかない大声が少年の口が出る。

「耳元で叫ぶのはやめてください」

「いや、だって、いきなりアリーが変なことを言うから」

「何が変なのですか。これも『ナローアスの抱擁』の延長線上にあるテクニックなのです。告白からくちづけへと雪崩れ込むという、乙女心がキュンキュンするハイスピードLOVEなのです」

(何を言ってるのかさっぱりわからない)

妹との間に深い断絶を感じて暗い気持ちになりながらもアルは、

「あのさあ、アリー。それはさすがによくないよ。おまえがぼくのためにやってくれてるのはありがたいけど、なんといってもぼくらは兄妹なんだから」

やんわり断ろうとするが、うー、と美少女には似つかわしくない唸り声が上がったかと思うと、

「お兄様のわからず屋! どうしてわたくしの言うことを聞いて下さらないの! そんなお兄様なんか嫌い! 嫌い! 大嫌い!」

わめきながら地団太を踏み出したので、「座ってるのに器用だな」と妙な感心をしながらも少年は折れることにした。

「わかった。わかったから。言う通りにするから怒らないでくれ」

それを聞いたアリーは、すん、と鼻を鳴らし、

「じゃあ、キスしてくださいますの?」

「ああ」

頷いた兄を見て、

(お兄様ったら本当にちょろい)

と人の悪いことを考えていた。自分のわがままに兄が決して勝てないのは当然のことで、それは彼女にとっては天体の動きや季節の移り変わりといった自然の法則と同じく決まりきったことだったのだ。もっとも、アルの方も、

(頬にならいいだろう)

と考えていた。それなら子供の頃に何度もしている。

(あ)

顎に指がかかり、思いがけない強い力で顔の向きを変えさせられて、アリシアは困惑する。前もって声をかけてくれると思っていたのに。アルの顔が近づいてきて、頭の中に薄い靄がかかったようになる。頬にキスをされるというのはわかっていた。だが、

(そうなるとは限りませんわね)

と少女は思っていた。世の中には事故はつきものなのだ。アクシデントは常に起こる。人は転び、馬車はぶつかり、物は壊れる。だから、キスの行き先がずれることだって有り得る。

(だから、そうなっても仕方がないの)

そんな風に誰かに言い訳しながらアリシアが事故を起こそうと思っていたその時、

「あら、2人とも仲良しさんね」

と母親の声が聞こえた。横目で居間の入り口を見ると母だけでなく、祖母と姉も立っている。もう夕方になっていて、お茶会から帰ってきたのだ。部屋の中の動きが10秒以上静止した後で、

「お母様ーっ!」

末娘がいきなり立ち上がって泣き声を上げて3人の元へと走っていった。

「どうしたの、アリー。一体何があったの?」

「わたしは嫌だって言ったのに、お兄様が無理矢理」

「えーっ?」

今度はアルが悲鳴を上げた。

「いや、違いますって。ぼくはアリーに言われてそうやっただけで」

弁解したものの、彼を見る女性陣の目は冷たかった。

「盛りがついた犬じゃあるまいし、妹に手を出すのはいかがなものかね」

と祖母に苦言を呈され、

「仲がいいのはいいことだけど、ほどほどにした方がいいと思うわ」

と母に呆れられ、

「だめよアルちゃん。そんなことだとタリウスさんにふられちゃうわよ」

姉に怒られた。

「だから、誤解ですってば!」

必死に弁解する少年だったが、結局その日一日、4人からねちねちと総攻撃を受け続け、這う這うの体で実家を後にすることになったのであった。もっとも、

(あれはアリーの方から仕掛けたことだ)

というのは祖母も母も姉もわかっていて、そのうえでアルをからかったわけで、だからこそ余計にタチが悪い、とも言えたのだが。


(あれはまさに悪夢だった)

アリエル・フィッツシモンズの背中は冷たい汗で濡れていた。

「どうした、アル? 顔が真っ青だぞ?」

横に座ったセイジア・タリウスに心配されるが、

「いえ、ちょっと嫌なことを思い出したもので」

ははは、と力なく笑って、どうにか元気なふりをする。

「ふーん、そうか? ならいいんだが」

セイは立ち上がって背中を伸ばす。

「今日もいい天気だなあ」

のんきに呟いている彼女にアルは声をかける。

「さっきのこと、忘れないでくださいよ」

「さっきって?」

やはり覚えていないのか、と思いながらも少年は念を押すことにする。

「ですから、何かあったらすぐに連絡してください、ということです。ぼくでもレオンハルトさんでも構いませんから。とにかく、一人で動かないでください」

「ああ、わかってる」

いい返事だったが、

(わかってない)

とアルは悟る。この女騎士を止めようとするのは、天を行く鷹を素手で止めようとするのと同じくらいに無謀なのかもしれない。だが、それでも彼女を危険から遠ざけたい、と思う気持ちに迷いはなかった。そして、

(いくぞ)

別のことも決意していた。セイに「ナローアスの抱擁」を仕掛けるのだ。ちょうど今、彼女は背中を向けていて、まさに絶好の機会だった。

(上手く行くかはわからない。でも、ぼくには他の手が思いつかないし、それにアリーが考えてくれたんだ。無駄にするわけにはいかない)

この兄の思いを遠い場所にいるアリシア・フィッツシモンズが知ったらどう思うのかはわからないが、ともあれ、少年は一歩前へと踏み出し、がしっ、とセイを後ろから抱きしめた。ふわっ、と甘い香りが鼻を衝いた。

(いいにおい)

と思った次の瞬間に天地が逆転し、真っ逆さまに地面へと叩きつけられていた。土が柔らかいとはいえ、それでも衝撃は相当なものだった。背中を強打して息ができなくなる。

「おい、大丈夫か?」

呼吸は苦しかったが、青空を背負った金髪の美しい騎士に顔を覗き込まれるのはなかなか悪くなかった。

「ええ、なんとか」

「そうか」

と言ってから、セイは首を捻ると、

「この前のシーザーと比べると、今の仕掛けは甘いな」

「はい?」

わけのわからないことを言い出した元上官を見上げた少年の目が丸くなる。

「いや、背後から襲い掛かる、というのは悪くないんだが、ただ抱きすくめるだけでは反撃してくれ、と言っているのと同じことだ。おまえに怪我をさせたくないから、背負い投げにしておいたが、やろうと思えば命も奪えたからな。もうちょっと考えた方がいい」

善処します、と役人みたいな返事をしてしまうが、セイは何か勘違いしているようだとここで思い当たる。ただ、その勘違いのおかげで自分がけしからぬ振る舞いに出ようとしたことには気付かれていないようなので、それなら勘違いさせたままでいい、とも思った。

「立てるか?」

女騎士は長い手を差し伸べてくれたが、

「もう少しこのままでいさせてくれませんか?」

と言うと、

「まさか、何処か痛めたのか?」

と青い瞳を揺らして心配される。

「いえ、そうじゃなくて、しばらくこうしていたいんです」

少年が笑いながら答えたのに、

「そうか? ならいいんだが」

あまり納得していない様子ではあったがセイは受け入れた。

(やっぱりだめだった)

アルはそう思って、頑張ってくれた(?)妹にも悪いとも思った。ただし、落ち込んでばかりいるわけでもなく、何処か前向きな気持ちでもあった。上手く行きはしなかったが、とりあえずアタックすることはできたのだ。彼女の名前の呼び方も変わって、新しいスタートが切れた気がした。そう思うと笑いがこみあげてきて、口から声がこぼれてしまう。

「おい、本当に大丈夫なのか?」

頭でも打ったのか、と本気で心配しているセイに、大丈夫です、と返事をしながらも、雲ひとつない冬の空を見上げて、アルはしばらく笑い続けた。




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