第29話 店が燃える

「悪いことは言わないからやめておけ」

「影」がカルペッタ・フーパスにそう言ったのは、この男にしては珍しく純粋な親切心によるものだった。青年の健康状態を案じたのだ。だが、相手にはその思いが伝わらなかったようで、

「っせえな! おれのやることが気に入らないなら帰れよ!」

と怒鳴られた。ぎらぎらした金髪の男の全身にはバンドがきつく巻き付けられている。昼間に「くまさん亭」の女子店員に体中の関節という関節を外され、クラゲのように骨抜きにされたばかりなのだ。「影」がたったひとりで苦労して「フーミン」アステラ支社まで、この男、というよりこの物体を運び込むと、単なる肉塊に変貌した弟を見るなり、トビアス・フーパスは腰を抜かし、「あわわわわ」と意味もない発音しか出来なくなってしまった。それから30分が経過し、ようやく人並みの知能を取り戻した支社長は、すぐに首都全域から整体師を集めて、弟の身体の治療に当たらせた。治療というよりは組み立て、あるいは大工仕事に近い行為であったが、夜更けまで掛かってどうにか全ての関節をはめ込むことに成功した。とはいえ、

「まだ安定してませんから絶対安静が必要です。激しい動きをすればすぐに外れてしまいます」

と、整体師からは命令に近い忠告を受けていて、バンドで各部の関節を固定し、腰にはコルセットが装着されていた。にもかかわらず、フーパス弟は馬車を無理に出させて屋敷を飛び出し、「フーミン」14号支店の前で降りると、その間近にある「くまさん亭」の前に立っていた。深夜なのでもちろん閉店していて、中に人の気配も無いから、あの女もいないだろう。その目は復讐の一念に燃えている。地味な外見の娘から受けた仕打ちを何倍にもしてすぐに返してやらねばとても気が済まない。だから、誰からの忠告も聞くつもりもなかった。

「別に帰ってもいいんだが、これも仕事のうちだ。優しい兄上にこれ以上心配を掛けるのもどうかと思うが」

頼みもしないのに目敏く追いかけてきた「影」の話など特に聞きたくもなかったので、わがまま放題で生きてきた若者は癇癪を起こした。

「だから、うるせえって言ってんだよ! 兄ちゃんのことなんか知るか! おれはおれの好きなようにやるだけだ!」

若者が愚かすぎて腹も立たなくなってきた「影」だったが、まだ言っておくべきことがあった。

「それと、だ。おまえさんが何を企んでるか、見当はつくが、それもやめておいた方がいい」

「ああん?」

「影」が指さした先にはカルペッタ・フーパスの右手があって、そこには瓶が握られている。下品な色の髪の青年から離れた刺客にも、つん、と刺激臭が届く。瓶は油で満たされていた。屋敷で用意してきたのだろう。

「店に火をつければ、火事になって営業は出来なくなる、というわけだ。だが、焼けるのはあの店だけじゃない。他の建物も焼けるし、人も死ぬ。悪くすれば町中が焼け、大勢が死ぬ。だから、放火というのは死刑にもなり得る重罪なわけだ。いくらおまえの兄上だろうと、マズカ帝国の大企業だろうと、庇いきれるとは思えん」

「るせえ! るせえ! るせえ!」

ただでさえ狭い視野が激情でさらに狭まった男が路上で吠える。

「いちいちうるせえんだよ、この影野郎! 知るか、そんなこと! おれは、あの店さえどうにか出来ればそれでいいんだよ! あの女が働く店がこの世から消えてなくなればそれでいいんだよ! それ以外のことなんか、んが」

最後まで話しきれなかったのは、顎が外れたからだ。大きく開いた口をどうにも出来ずに七転八倒する若者を見かねて、「影」が助けてやろうと近づこうとしたそのとき、かしゃん、と音がして、カルペッタ・フーパスは自分で顎をはめ込むのに成功していた。息が荒く、目に涙がにじんでいるところを見ると、それなりに苦痛を伴う行為らしい。

「おとなしく帰った方が身のためだと思うぞ。カップくん」

兄の手先にあからさまに見下されて、かっとなった青年だったが、もう相手にしないことにした。やるべきことをさっさと済ませれば、この黒い男も、こいつを使っている兄も、もう決して自分を馬鹿にはできないはずだった。

(やれやれ、だ)

食堂の裏へと歩いて行くカップを見て「影」は小さく息をついた。わざわざ裏口に行ったのは、市警とギルドが夜間でも見回りを強化していると知っているからだろう。馬鹿は馬鹿なりに知恵があるらしい。とはいえ、愚かな若者が放火に成功するとも仕事人には思えなかった。どうせつまらないミスをしてしくじるか、もしくはまた何処かしらの関節が外れて動けなくなるか、どちらかだと予想していた。

(危なくなったら一応助けてやるとしよう。支社長に謝礼を要求できるしな)

セイジア・タリウスに「やっぱりいいやつじゃないか」と言われそうなことを考えながら、「影」は表通りで事の成否を待ち受けることにした。

(ちくしょう。やってやる。おれは絶対やってやるんだからな)

ぎこちない足取りで「くまさん亭」の裏口のある路地に入ったカルペッタ・フーパスは、やはりぎこちなくマッチを擦ろうとする。全ての関節がグラグラして不安定で、普段なら出来て当たり前の行為をやることすら難しい。自分をそのような状況に陥れた少女への怨みが深まっていく。

(おまえの大事なものを全部奪ってやる。まずはこの店からだ)

ひひひ、と笑う品の無い顔を、マッチの炎が照らし出す。今は灯りとして使っている小さな火は、やがて大衆食堂を焼き尽くす火種となるはずだった。ぎくしゃくとした歩調で、ようやく目指す裏口へとたどりついた。いよいよだ、と逸る気持ちを押さえかねたカップの膝が、こきゃ、と音を立てて曲がり、体勢を崩して右肩が食堂の外壁に軽く当たる。

(あぶねー、あぶねー)

膝が外れなかったことに青年が安心した次の瞬間、

どんがらがっしゃーん!

と大きな音が響き渡った。すぐそばに雷が落ちたかのような、目の前で大量の荷物を積んだ貨車がひっくりかえったかのような、ものすごいヴォリュームであった。昼間でも人を驚かせるはずの大音量がこの深夜に鳴り渡ったのだから、よからぬ行為に及ぼうとしていた人間は完全にパニックになる。

(やべえ。やべえって)

仰天するあまり尻餅をついたカップがまず考えたのは、音を聞いた見回りが駆けつけてくる、ということだった。そうなれば、今の身体では逃げ切れない。支店の近くで待たせている馬車まで早く戻らなければならなかったが、こんな時に限って足の関節が不安定で立ち上がれない。裕福な家庭で甘やかされてきた若者が、ゴミだらけの路地裏で這い回る羽目となる。

(くそっ。くそぅ!)

しかし、それはこの夜カップを見舞う不幸の手始めに過ぎない。強烈な悪臭が鼻をつく。なんだこの臭いは、と考えてから、自分が持ってきた油の臭いだ、と気づく。でも、瓶に入っていたのに何故、と思ってから、もう瓶に入っていないからだ、と気づいた。何故気づいたかというと、さっき倒れた拍子に瓶が割れて、中身がズボンにたっぷり染みこんでいたからだ。そして、それに何故気づいたかというと、やはり倒れたときに落としたマッチがそれに引火したからであった。

「ぎゃああああああ!」

カルペッタ・フーパスの下半身が激しい炎に包まれていた。猛火に直接あぶられた若者はその時点で我を失った。皮肉なことに、というべきか、火事場の馬鹿力、という悪い冗談というべきか、カップは理性の箍が外れた勢いで立ち上がるのに成功する。もちろん、立ち止まっているわけにも行かず、あああああ、と叫びながら、あてども無く走り出した。瞬く間に火の手は青年の肉体全てを覆い尽くしていく。

(一体何なんだ?)

先程の騒音に驚いて、音のした方角に向かっていた「影」は、路地から表へと飛び出してきた全身火だるまの人影に出くわした。経験豊富な仕事師もさすがに絶句する。

「カップ? おい、カップなのか?」

一応は仲間である男の呼びかけも、自分の身体が爆ぜていく音で聞こえない。そんなカップの頭にはただひとつのことしか思い浮かばなかった。

(憎い。あの店が憎い。おれをこんな風にした、あの女のいる店が憎い)

それだけを思っていた。そして、自分だけでなく相手も破滅させることだけを望んだ。どうせおれは死ぬ。だが、ただでは死なない。あの店を道連れにしてやる。

そう思ったカルペッタ・フーパスは店へと飛び込むことにした。もはや目は見えないが位置はわかっているつもりだ。今のおれは人の形をした松明たいまつだ。何もかも焼き尽くしてやる。その思いが全力で足を動かし、頭から扉らしきものへと体当たりを食らわせた。何かを突き破り、建物の中へと入った感覚が確かにあった。そして、自分を焼き尽くそうとしている炎が、あたりに燃え広がっていくのもわかった。一矢報いるのに成功した喜びがカップの体内に満ちていく。

(ざまあみやがれ)

そう思ったのと同時に、両足の関節が外れ、背丈が半分ほどになった青年は炎の中に倒れ込んだ。


「なんということだ」

「影」にはどうしてこうなったのか、さっぱりわからない。わからないが、目の前で店が燃えているのはよくわかった。窓から炎が噴き出し、天井を舐めるように火が這っているのがしっかりと見える。あの愚か者が自分の想像を超えることをしでかしたのは確かだった。褒めてやるべきだろうか? 「火事だ」「火事だ」という大声も聞こえる。じきに消火活動も始まるだろうが、それは自分の領分ではない。

(おれにはやるべきことがある)

そう思った「影」が動き出してからまもなく、ギルド直属の消防団が現場に集まり、彼らの懸命な活動で明け方までには鎮火し、なんとか延焼は防げたが、カルペッタ・フーパスが飛び込んだ店は全焼し、跡形もなくなってしまった。

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