第28話 診療所にて
「チコ!」
ベッドに寝かされた少年を見るなり、ノーザ・ベアラーは悲鳴を上げた。上半身のほとんどに白い包帯が巻かれ、顔の右半分だけは見えるが、鼻や口元がひどく傷ついているのがわかる。
「チコ、ああ、かわいそうに」
「くまさん亭」の女主人は目に涙を溜めながら枕元に近づいた。
「よく眠っとるよ。ひどい怪我だが、死ぬことはない」
バルバロ医師が穏やかな口調で告げた。今はセシル・ジンバと名乗っている、女騎士セイジア・タリウスが繁華街の一角にある彼の診療所までチコを運び込んだのだ。その少女は医師の背後に控えて、神妙な面持ちで女主人と少年を見つめていた。
「どうして。どうしてなんだい」
医師の言葉もノーザの心の痛みを和らげてはくれないようだった。
「この子が何をしたっていうんだい? まだ子供じゃないか。こんな子を痛めつけるなんて。あんまりだ。あんまりだよ」
それから後は言葉にならなかった。そこにあったのは、店員を気遣う主人ではなく、子を思う母親の姿だった。その場に居合わせた誰もが胸を打たれ、悲しみに暮れずにはいられなかった。
(ひでえ)
遅れて入ってきたコムは変わり果てた後輩を見て言葉を失った。アルバイトの娘が寄越した使いの者から知らせを受けると、オーマに店を任せて、ノーザと2人で診療所まで急いでやってきたのだ。
(おかみさんにそんなに心配してもらって、死んだら許さないからな)
心の中で憎まれ口をたたいて、大柄な男は涙をこらえようとする。
「わたしのせいなんです」
突然口を開いた少女に病室中の注目が集まる。
「どういうことだい?」
女主人が涙混じりの声でセイに問いかける。
「前にわたしが、『信用していない』とか『一度裏切った人は何度でも裏切る』ってチコさんに言ったんです。だから、それを気にして、チコさんはそんな目に遭うまで我慢してしまったんです」
「そうじゃない。セシル、あんたのせいじゃない」
少女が話し終わる前にノーザが否定していた。
「わたしが悪いのさ。もっと早く許してあげていれば、こういうことにはなっていなかったんだよ。この子をちゃんと助けてあげなきゃいけなかったのに」
「おかみさんのせいじゃありません」
コムも口を開いた。
「おれも、こいつにひどいことを言っちまった」
オニギリの作り方を教えたときに「おまえは償いをしないといけない」とチコに言っていたのをコムは後悔していた。
(馬鹿野郎。こんなの全然「償い」になんかなってねえぞ。でも、きっと、おれが言ったからそうしちまったんだよな)
大男は体を折り曲げて心の痛みに耐えていた。
(つまり、誰のせいでもない、ということだ)
部外者であるバルバロ医師は状況を冷静に観察していた。誰かが傷ついたときに、真の意味で親しい人は何より自分を責めるものだ、とこの街で長く働くうちに彼は気づいていた。自分のせいで傷ついたのではないか、もっと何かしてやれたのではないか、と思ってしまうのだ。
(皆が皆を思いやっている。やはり「くまさん亭」はいい店なのだな)
医師も食堂の常連客であった。そこへ看護師がやってきて新たな患者がやってきた、と告げた。繁華街の診療所には暇などなく、少年一人にかかりきりというわけにもいかなかった。
「何かあったら呼んでくれ」
と言って街の名医は病室を出ていく。後には少年と彼を囲む3人が残された。
「あいつらがやったんだね?」
重苦しい沈黙がしばらく続いた後で、ノーザ・ベアラーが口を開いた。
「あいつらがチコをこんな目に遭わせたんだね、セシル? あんたにはわかってるはずだ」
女主人の気迫に押された少女が「はい、でも」と答えると、ノーザが勢い良く立ち上がって部屋を出ていこうとする。
「おかみさん、何処へ行くんですか」
コムが慌てて止めに入る。聞いてはみたが、女主人の行き先はわかっていた。「フーミン」に行くつもりだ、と。復讐するつもりなのだ、と。
「止めるんじゃないよ、コム。うちの子をこんな風にされて黙ってられるもんか」
「待ってください、おかみさん」
セイも止めに入った。
「行って何をするつもりなんですか。どうしようっていうんですか」
「どうもこうもあるもんか」
ノーザ・ベアラーの怒りが頂点を超えて、天にまで達しようとしている。
「同じ目に遭わせてやるんだよ。今までさんざん我慢してきたんだ。わたしに嫌がらせするならそれでも構わないと思ってた。でも、大事な店員まで傷つけられて、もう黙ってられないじゃないか」
少女は毅然たる表情を浮かべて言い返す。
「おかみさん。あなたの手は人を傷つけるためのものではないはずです。みんなを幸せにするためのもののはずです」
「あんたなんかに何がわかるんだ。そうやって、自分だけは正しい、みたいな顔をして、知った風なことを言って、それが何になるんだい。大人を馬鹿にするんじゃないよ」
そう言ってしまってから、ノーザは「言い過ぎた」と思い、傍にいたコムも「言い過ぎだ」と思っていた。気まずい時間が流れた後で、言われた方の少女は、ふっ、と寂しく笑ってから、
「出過ぎたことを言ってしまって申し訳ありません」
と頭を下げた。過ちに気づいた女主人は謝ろうとしたが、
「わたし、店に戻ります。代わりにオーマさんに来てもらいますから」
と言い残して、セイは部屋を出て行き、謝る機会は失われてしまった。
(今までだって何度もあったことじゃないか)
診療所を出たセイジア・タリウスはそう思ってこぼれ落ちそうになる涙をこらえようとするが、敬愛する女主人から投げつけられた言葉に傷ついたことは認めざるを得なかった。
戦死した団員の家族のもとに弔問に訪れるのは騎士団長の大事な勤めだった。その際に、遺族からきつい言葉を投げつけられることはたびたびあって、「何故助けられなかった」「あんたが殺したんだ」などと言われるのは慣れっこになってしまっていた。
「団長のせいではないのに、あんなひどいことを言われるのはおかしいです」
と、副長のアリエル・フィッツシモンズが反論しようとするのを、
「いや、わたしのせいだ」
と制止したこともあった。実際、女騎士は団員が戦死したのは自分の責任だと考えていた。部下を無事に家族のもとに戻すという役目を果たせなかった以上、それが団長の責任であることに間違いはなく、その責任から逃げてはいけない、と思っていた。大事な人を失った悲しみ、苦しみを引き受けるのも騎士団長の勤めなのだ、と心得ていた。今は食堂で働いているが、それでも彼女が騎士であることに何も変わりはなく、誰かの悲しみや苦しみを進んで引き受けようとしているのにも変わりはなかった。
(おかみさんの苦しみが少しでもなくなったのなら、それでいい)
そう思いながら、前髪に隠れた目からこぼれた一粒の涙が街の風に散っていく。傷ついた人の痛みを引き受け、まっとうに生きる人を邪悪な手から守る、それが騎士の生き方であり、セイジア・タリウスの生き方なのだ。
(だから、おかみさん。あいつらをやっつけるのは、わたしにまかせてほしい)
そう決意したセイの足取りは力強さを取り戻した。戦いはまだ終わっていない、と彼女は感じていた。悪辣な連中に鉄槌を下したばかりだが、それでもまだやつらの執念が消えたとも思えない。次なる魔の手が迫りつつあることを予感しながら、雨上がりの街を女騎士はただひたすら歩いていった。
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