第21話 大衆食堂、嫌がらせを受ける

いつものように、セイジア・タリウスがセシル・ジンバとして、「くまさん亭」に朝出勤してくると、店の前でオーマとコムが立っているのが見えた。

「おはようございます」

とあいさつをしても、2人はこちらを見ない。どうしたのか、と思って、男たちの視線の先を見てみると、そこには惨状が広がっていた。

「くまさん亭」の扉と言わず壁と言わず落書きがペンキで書き殴られていて、「やめろ」「出ていけ」などはいい方で、とにかく見るに堪えない言葉ばかりだ。窓ガラスも割られ、大量の生ごみがぶちまけられている。壁が汚れ悪臭が漂っているところを見ると、汚物もかけられていると見当がついた。

「ひでえな、こりゃ」

コムがそう言うと、

「おかみさんには見せられんな」

オーマも溜息をついた。ノーザ・ベアラーは新しく食材の供給を担当している「マグラ通運」に用事があるそうで、食堂に出てくるのは昼過ぎになる、と聞いていた。

自分たちの仕事場が変わり果てた姿になっているのに2人の男が立ちすくんでいると、

「店の中は無事でしたよ」

ぱたぱた、とバイト女子が走ってきた。いつの間にか仕事用の黒いTシャツとデニムに着替え、手にはバケツとモップを持っていた。

「あれ? セシルちゃん、おはよう」

大柄なコムが驚く。ショックを受けるあまり、少女にあいさつされたのにも気づかなかったのだ。

「裏口から見てきたのか?」

小柄なオーマも驚いていた。

「はい。だから、表だけきれいにすれば大丈夫だと思います」

そう言うと、三つ編みの娘は汚れた壁をモップでごしごしとこすりだした。実にきびきびした動きで、まるで毎朝のルーティンをこなしているかのようにすら見えて、オーマとコムは別の意味でショックを受けたが、

「おい。おれたちもやるんだ」

我に返った先輩に言われて、

「はい。そうですね。手伝いましょう」

コムも裏口へ掃除道具を取りに戻った。こうして、3人が全力で片づけたおかげで、開店時間までには元通りにすることができた。といっても、その大部分は少女が超スピードでやってのけたことなのだが。

「やれやれ、ですね」

一息ついた後輩に、

「ああ。だが、ガラスは新しいのを注文しないといかんな」

オーマが肩を落とす。ただでさえ経営が苦しい食堂には痛い出費だ、と思っていると、

「まだ入れない方がいいと思います」

娘が冷静な声で指摘してきた。

「え? セシルちゃん、それってどういう意味なんだ?」

「犯人が捕まってからにした方がいい、ということですよ、コムさん」

あくまで平然としたバイト女子の言葉の意味に気づいた2人の先輩は言葉を失った。

「つまり、また同じことが起こるかもしれない、ということか?」

オーマがなんとか訊ねてみると、

「これで終わりだという保証はありませんから」

前髪が目を隠しているおかげで、ただでさえ表情のわかりづらい少女に感情を交えることなく告げられて、オーマもコムも呆然とする。一度やられただけでもきつかったのに、これが再び起こるかもしれないと思うとやりきれなかった。

(策士殿も策が切れたか、あるいは担当を外されたかな)

その一方で、バイト女子の中の女騎士はいたって冷静だった。

(芸のないことをしてくる。実につまらないが、しかし、効果は覿面だ。オーマさんとコムさんの顔を見ればわかる)

幸運にも居合わせなかったが、ノーザも話を聞けば大いにショックを受けるだろう。ついでに最近店に戻ってきたチコも同じはずだった。彼はまだ厨房には戻らず、別の場所でひたすらオニギリを握り続けていると聞いていた。

(ここからは持久戦、体力勝負になる。みんなの心のケアを第一に考えなければ)

女騎士は戦場においてその身を剣や槍に代えて敵を打ち破ってきたが、時には盾として味方を守ってもきた。そして、今再び自らが盾になるべき時が来たのだ。卑劣な攻撃は全て受け止めてやる、と胸の中に炎が燃え盛っているのを感じていた。頭は冷静でも怒りは確実にセイの中にも存在していたのである。


少女の予測通り、嫌がらせは次の日も、そしてその次の日も続いた。

「いつまで続くのかねえ」

ノーザ・ベアラーが店先のゴミを拾いながらぼやいた。

「このままじゃらちがあきませんよ」

コムが壁の落書きをたわしでこすりながら憤る。

「こんなことをしている奴を見つけて、とっちめてやらないと気が済みません」

大男に言われた女主人は、

「市警とギルドは気を付けてくれるみたいだったけどね」

と言った。昨日の朝、ノーザからの知らせを聞いて現場にやってきた警官は「これはひどい」と同情して見回りの強化を約束してくれていた。意外だったのはギルドの反応で、食材の仕入れを妨害された件で何もしてくれなかったので報告もしないでおいたら、昨晩になって自警団のリーダーが店にやってきて、「これは飲食店全体の問題でもある」と言って、やはり見回りを強化すると言ってきた。「あんたらも迷惑だろうから」と女主人は皮肉も込めつつ断ったのだが、「そうはいかない」とリーダーが渋い顔で答えたのを見て、「おや」と彼女は驚いた。そう言った男の顔に後ろめたさが確かに見えたからだ。「くまさん亭」が困っていた時に何もしなかったのをこの男は悔やんでいるらしい、と思った女料理人は申し出を受け入れることにした。

(ギルドの中にもいい奴はいるのか、それとも風向きが変わったのかね)

ノーザ・ベアラーを驚かせたギルドの変化については、後の章で説明することとするが、ともあれ今は店の片付けが先決だった。ありがたくもない話だが、3度目ともなると段々慣れてきてしまって、手際もよくなってきていた。

「そんなこと言ったって、防げてないじゃないですか」

なおも怒りが収まらない様子のコムに、

「だったらどうするんだ?」

とオーマがごみの詰まった袋の口を縛りながら訊ねる。口調が平坦なのは、落ち着いているのではなく諦めがあるからなのかもしれない。

「おれたちで見張るんですよ。店が閉まった後に張り込みをして、犯人が来たところを捕まえるんです。自分たちでなんとかしないと、いつまで経っても終わらないじゃないですか」

大柄な料理人の提案に、ノーザとオーマは顔を見合わせた。自分たちで解決する、というのは確かに魅力的なアイディアであった。だが、

「それはおすすめできません」

三つ編みのバイト女子が柔らかい口調ではあったがきっぱりと否定してきた。

「なんでだよ、セシルちゃん」

反論してきたコムの方を見て、

「だって、夜中に張り込みをしたら、次の日はどうなるんですか? ちゃんと仕事できるんですか?」

「あ」とコムだけでなく他の2人も思わず声を上げていた。自分たちが一番に何をすべきか、よりによって一番キャリアの浅い娘に指摘されたのだ。

「向こうの狙いはわたしたちも消耗させることです。体力と精神力をすりへらしてヘトヘトにさせようとしてるんです。だから、余計なことをすればするほど、向こうの思うツボなんです」

何故か楽しげに語る少女を他の3人は呆然と眺めていた。どういうわけか、嫌がらせが始まってからというもの、彼女はいつにも増して生き生きしているように見えた。

「でもよ、こんなのが続いたら、何もしなくてもヘトヘトになっちまうぜ」

「大丈夫ですよ、コムさん」

野に咲く小さく可憐な花のように少女はささやかな笑みを浮かべる。

「わたしたちには味方がついてますから」

「そんなの本当にいるのかい?」

半信半疑で訊ねるノーザに

「おかみさん、この前もマグラさんが助けてくれたじゃないですか。安心してください、世の中は悪い人ばかりじゃありません」

そう言うと娘は再びモップで壁の汚れを落としだした。何の根拠もなかったが、そいれでも多分に説得力を持つ、信じてしまいたくなる言葉だった。

「まあ、セシルちゃんがそう言うなら」

ブツブツ言いながらコムは手を動かし、ノーザとオーマも2人でゴミを捨てに行く。

(無理もないが、みんな参ってきているな。でも、あとちょっとの辛抱だから我慢してほしい)

セイは心の中で3人の料理人に詫びる。

(いざとなれば、わたしが犯人を成敗するが、しかし、それは中策、あるいは下策かもしれない。わたしが狙っているのはもっと高い目標だ。連中はやりたい放題のつもりだろうが、実はとんでもないミスをしていることに気づいてはいないのだろうな)

こんな嫌がらせをする奴らにそんなのはわかるわけがないか、と女騎士は人の悪い笑みを浮かべると、手を動かすスピードを速めた。思わず鼻唄が出そうになったのは、秋らしからぬ陽気のせいか、それともそれ以外の理由なのかは彼女自身にもよくわからなかった。


嫌がらせが始まって8日目の朝。セイはいつもより早く食堂まで出てきた。どうせ汚れた店先を片付けなければならないので、それを見越したのだ。女主人も2人の料理人も日に日に疲弊しているのはわかっていたので、自分一人で片づければみんなの助けになる、とも考えていた。しかし、その日の「くまさん亭」の店先の様子は、彼女が予想していたものとは違っていた。

落書きも汚物もゴミもなかった。その代わりに紙切れが扉と壁一面にべたべたと貼られている。近づいてみると、それはビラだった。「くまさん亭」がいかに悪辣な店であるか、この大衆食堂がいかに放漫経営をしていたか、ノーザ・ベアラーがいかに貞操観念に乏しい女であるか、がびっしりと書き連ねてある。嘘っぱちしか書かれていないが、真実味だけはある文章なので、事情を知らない人が読めば信じてしまうだろう、というのは想像がついた。

(そう来たか)

セイが怪文書に目を通していると、だだだだだだ、と足音も高く誰かが走ってきた。振り返ってみるとコムだった。灰色の上下のスウェットを着ている。

「ああ、やっぱりか」

ぜえぜえ、と息を荒くする大男を、化粧で髪をくすんだ色に変えた少女が訊ねる。

「どうしたんですか、コムさん?」

「セシルちゃん、どうしたもこうしたもないよ。街中にこいつが貼られてるんだ」

「ええっ?」

一応驚いてはみたが、それも女騎士の予想の範囲内であった。

「おれ、健康のために毎朝散歩をしてるんだけどさ。そうしたら、壁にも木にも店の看板にもそこいら中全部に貼られていてさあ。とんでもないよ」

そこでコムは顔を上げて、

「ちょうどよかった。セシルちゃん、おれと一緒に街中のビラを全部剥がしてくれないか? こんなの、おかみさんにも兄貴にも見せられないよ」

大男の気持ちは痛いほどよくわかった。自分や夫のことをひどく書かれてノーザが傷つくのも、女主人を心から慕っている小柄な料理人が傷つくのも見たくはないのはセイも同じだった。店先に貼られたビラを全部剥がすと、2人は繁華街へと向かう。

「うわ。ひどいな」

コムは思わず呻いた。目抜き通りの両側のいたるところに怪文書が貼られている。これを全部剥がすのはどれくらいかかるだろう、と途方に暮れていたが、一緒に来た少女が瞬く間にビラを剥がしていくので驚いてしまう。超人的なスピードとしか言いようがなく、呆気に取られていると、

「コムさん、それ捨てないで取っておいてもらえますか?」

と三つ編みの娘に頼まれたので驚いてしまった。

「え? こんな胸糞悪いのを取っておいてどうするんだ?」

「考えがあるんです」

桃色に光る唇でそう言われてしまっては従うしかなかった。彼女の2分の1、いや10分の1程度のスピードで作業をしているうちに、店を開ける準備をしていた顔見知りの店員の何人かと顔を合わせたが、

「誰がこんなことをしやがった」

と犯人に怒る一方で、

「おたくも大変だね」

とコムに同情してくる者もいた。ビラのせいで「くまさん亭」が悪く思われるとばかり思っていたが、そういうわけでもなさそうだ。

(そういえば、セシルちゃんが言ってたな。「味方がいる」って)

嫌がらせが始まる以前、食材が入手できなくなった頃から、コムの中で世間に対して不信感が芽生えていたのだが、それはただの思い込みに過ぎないのではないか、という気持ちになっていた。やはりこの世の中には信じるに値する何かがあるのではないか、と本来の楽観的な見方を大柄な料理人は取り戻しつつあった。

「ふう。やっと片付いた」

1時間30分後、見つかられた限りの怪文書全てを剥がし終わったコムは大きく息をつき、

「店を開ける時間に間に合いそうですね」

少女はにこにこしながらつぶやいた。気分の悪いことしか書かれていないビラを大量に胸に抱えているのは、やはり大男には理解できなかったが。2人並んで食堂に向かっているうちに、コムの胸にある思いが浮かんだ。

(そういえば、私服のセシルちゃんってすごくレアだな。しかも、そんなセシルちゃんと2人だけで歩くなんてもっとレアだ)

少女はまだ店の制服に着替えておらず、襟だけが白いネイビーブルーのワンピースを着ていた。これぞ地味、と言いたくなる服装だったが、よく似合っていて石鹸の香りが漂ってきそうで、朝から余計な仕事をする羽目になったのも、最悪な嫌がらせのことも、全て打ち消してしまうほどの清らかさを男は感じ取っていた。いつもはデニムに隠れて見られない、膝から下の白い脚を見るだけでほのかに胸が温まるのを感じる。

(おれ、この子が本当に好きだな。恋愛感情なんてものはないけど、ずっとそばにいてほしい。もちろん、そんなの無理だとわかってるけどさ)

彼が抱く感情を強いて言うならば、兄が妹を想う気持ち、に似ていただろうか。店にはすぐに着いてしまい、2人きりの時間はすぐに終わってしまった。しかし、コムはそれから長い時が経ち、年寄りになってからも、この時のことを何度となく思い返し、そのたびに身が震えるほどの幸せを感じることになる。いかに短かろうが、あるいは短いからこそ大切この上ない時間、というものが人には存在するのかもしれなかった。


「なんとか終わったな」

その日の夜、店の戸締りを終えたオーマがぐったりした様子でつぶやくと、

「ああ、そうだね」

とノーザ・ベアラーもテーブルの前で暗い表情を浮かべていた。セイとコムの奮闘もむなしく、2人は怪文書のことを知ってしまっているようだった。あれだけ大量にばらまかれたものをすべて回収するのは無理だとわかってはいても、コムの気持ちも重くなる。早朝から動いていたおかげで肉体的な疲労もあった。

「あ、そうだ。オーマさん」

そんな中で唯一元気溌溂としていたのはバイト女子だった。食器を洗い終え、今はテーブルを拭いて回っている。

「なんだ? どうかしたか?」

「はい。新しい窓ガラス、注文してもいいかもしれません」

ガラスが割られた窓は現在何も嵌められてはおらず、風が吹き抜け放題になっていた。

「いや、セシル。おまえが『また割られるかもしれない』と言ったから注文していないんだが」

小柄なベテラン料理人にやんわりと反論されると、

「だから、もう割られないと思うので注文してもいい、って言ってるんです」

少女の言葉に顔色を変えたのはオーマだけではなく、ノーザも同じだった。

「それってどういう意味なんだい? まるでもう嫌がらせされないみたいな言い方だけど」

「そうですよ、おかみさん。たぶんなんですけど、向こうは同じことをもうやってこないと思うんです。残念ですが、まだ嫌がらせはしてくるかもしれませんけど、やってくるとしても別の手で来ると思います」

「いやいやいや。今日あんなことがあったんだぜ? とてもじゃないけど、これで終わりとは思えないよ」

厨房から飛び出してきたコムが大きな声で言ってきた。

「あんなことがあったから、もうやってこない、って思うんです。でも、まあ、わたしがそう考えてるだけなので、あまり気にしないでください」

そう言って娘が再び店内の清掃に取り掛かったので、他の3人は顔を見合わせる。まだ若いのに頼りになる不思議な少女だが、今度ばかりはそうもいかないだろう、というのが彼と彼女たちの考えだった。何より娘がそう考える理由がわからなかった。

しかし、その翌日、「くまさん亭」の店先が9日ぶりに平穏を取り戻していたのを見たノーザ・ベアラーは、

(セシル、あんたは一体何者なんだい?)

と驚きと呆れが入り混じった思いで苦笑いを浮かべるしかなかった。

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