第10話 女主人、新人バイトを気にかける
すっかり日が沈み、「くまさん亭」は夜のかきいれ時を迎えていた。5つあるテーブルはすべて埋まり、食事をしながら話に盛り上がる客の声が大きく響いていた。
「なあ、あんたたち」
「おかみさん」
「どうしました?」
ノーザ・ベアラーに話しかけられた「くまさん亭」の料理人オーマとコムが彼女の方を向く。2人とも注文された料理を厨房で作っている最中だ。
「大したことじゃないから手を止めずに聞いておくれよ。あんたらから見てセシルはどんな様子だい?」
「あの子ですか?」
厨房と食堂のテーブル席はカウンターを挟んでいるだけなので、顔を上げれば店内の様子はすぐにわかる。テーブルとテーブルの狭い隙間をセシル・ジンバがせわしなく動いているのがオーマには見えた。注文を聞き、料理を運び、客が帰った後には片付けをする。やるべきことはいくらでもあった。
「あの子が入ってもう10日になりますかね」
小柄なオーマがそう言うと、
「よくやってると思いますよ。何を言われてもちゃんとやってくれてるし」
体の大きいコムもそれに続いた。
「そうかい。それはよかった」
女主人は頷く。
「これはあくまでおれの勘ですけどね、たぶん料理の筋もいいと思いますよ」
オーマがそう言うと、
「チコ、うかうかしてるとすぐに抜かれちまうぞ」
コムはそう言って食器を洗っている見習いのチコを見てニヤニヤ笑った。
「ちょっとやめてくださいよ。そんなのおれの立場がないじゃないですか」
「マジになるなって。まあ、危機感を持った方がいいのはマジだけどな。おまえ、ここに来てもう何年になるんだよ?」
大柄な先輩に比較的真剣なトーンで言われて坊主頭の少年は俯いてしまう。そこへセシルがやってきて、カウンター越しに呼びかける。
「オーダー入りました。イエケイの麺、バレラニ炒め、マッポ豆腐、揚げ豚辛飯。それから生3つです」
「あいよ」
ノーザが答えると、三つ編みの少女はまた店内へと戻っていく。騒がしい空間でも彼女の声はよく通った。
「いい子ですよね」
「ああ、わたしもそう思う」
女主人はオーマに答えてから顔をしかめた。
「ただ、この商売だと、いい子、ってのが悪い方向に出ることがある。そこは心配さね」
「どういうことです?」
見習いの少年を一瞬だけ見てからノーザは答える。
「お客さんがみんないい人なら問題はないんだが、残念だけどそういうわけにはいかないからね」
「ああ、そうですねえ」
コムが火をかけた鍋の中身をかき回しながら頷く。酔っぱらった客、無茶な言いがかりをつけてくる客、大勢で騒ぐグループ、テーブルを汚し食器を壊す不届き者。嫌な思い出はいくらでもあった。
「そういう客の相手をしていると、いい子は真面目だからストレスで参っちまうんだ。そう考えると、少し鈍い方がいいかもしれないくらいだよ」
「それは確かに心配ではありますね」
オーマがノーザに同意する。
「いや、でも、おれ、昨日のセシルちゃんを見たら、大丈夫だと思いましたよ」
「セシルちゃん、って、おまえなあ」
新人とはいえ女の子にずいぶん気安い呼び方をするコムに小柄な男が呆れる。
「仲間なんだからそう呼んだっていいじゃないですか。それに兄貴も見てたでしょ? セシルちゃんがあのじいさんの相手をしてたの」
「ああ、確かにあれは偉かったな」
「なんだい、その話?」
女主人が料理人同士の会話に割り込む。
「あっ、おかみさんは用事があって出かけてたから知らないのか。いや、ゆうべも、あの裏町のじいさんが来てたんですよ」
「あの人か」
コムの言葉を聞いたノーザの頭の中に背の低い偏屈な老人の姿が浮かぶ。老人は「くまさん亭」の常連客なのだが、何かと文句をつけてきては店員を困らせる、一種の「モンスタークレーマー」と呼ぶべき存在になっていた。
「あのじいさん、本当に困りますよ。何かというと『味が落ちた』『前と違う』『先代が泣いている』とか言って、長々とお説教してくるから本当に嫌ですよ」
「お客に文句を言うのは一人前になってからにするんだね」
女主人はチコの愚痴をぴしゃりとはねつける。しょげる少年を見てオーマが苦笑いをする。
「でも、チコの気持ちもわかりますよ。ああいうお客がいると誰かが相手しなきゃいけなくなって、そうすると他の店員にまで影響が出ますから」
「まあ、はっきり言って迷惑っちゃ迷惑ですね」
コムも同意したのを、ちら、と見てから女主人がオーマに訊ねる。
「で、昨日はセシルがじいさんの相手をしたってわけかい?」
「ええ。料理を運んで行ったら『あんた新人か。全然なっとらんな』ってつかまっちゃって」
「うわあ」
ノーザは思わず呻いてしまった。若い女の子を老人がねちねちといじめる姿など想像したくもない。
「オーマ、あんた、ちゃんと助けてあげたんだろうね?」
「もちろん何かあったらすぐに行くつもりでしたよ。でも、何もなかったんです」
「何もなかった?」
「ええ。じいさんがいつものようにクドクド文句をつけだしたら、あの子は、セシルは同じテーブルの席に座って、じいさんの話をじっくり聞き出したんです」
「ええっ?」
「くまさん亭」には接客マニュアルなど存在しないが、仮にあったとしてもそんな対応は書かれていなかっただろう。女主人が驚くのも無理はなかった。
「じいさんが何か言うたびに『その通りです』『申し訳ありません』『ありがとうございます』って答えて、おれみたいなオヤジでも、きついな、って思うことを言われても、ずっとにこにこしてるんですよ、あの子」
小柄な料理人はすっかり感心してしまっていた。まだ19歳だと聞いているが、いったいどんな修羅場を潜り抜けたらそんなメンタルが身につくのだろうか。
「あの子が何を言われても平気にしてるから、じいさんも拍子抜けしたらしくて、最後には『もう2度と来るか』ってわめいて帰っていきましたよ」
「とか言いながら、今日も昼間に来てたけどな、あのじいさん」
コムが炒め物を皿に盛りながら噴き出す。
「そうなんですよ。おれが注文を取りに行ったら『おまえじゃない。あの生意気な小娘を出せ』って怒鳴られたから、セシルに相手してもらいましたけど」
チコが不平を漏らすとノーザは思わず苦笑いを浮かべながら腕を組んだ。彼女は今日の昼間も不在だったのでその光景も見ていなかった。
「ありゃあ、おじいちゃん、セシルを気に入っちゃったんだね」
「気に入ったんですか? あんなに怒ってたのに」
チコが首を捻る。
「そりゃ気に入るさ。あんなじいさんの話を聞いてくれる人なんていないだろうし、しかも若い女の子が親身になってくれるんだから、気に入らないわけがないさね」
「はあ、じゃあ、あのじいさん、寂しかったんだ」
コムが同情の声を漏らす。まだ独身の彼もいずれあの老人のように孤独な未来が待ち構えていないとも限らなかったので、決して他人事ではなかった。
「でも、そうなると、じいさんが来るたびにセシルが相手しなけりゃいけませんよ?」
「させておけばいいんだよ。セシルにまかせておきな」
はあ、とオーマはいまひとつ納得のいかない表情を浮かべたが、その点、女主人はシビアなものだった。
(じいさんを勘違いさせたセシルにも問題がないわけじゃないからね。その責任は取ってもらわないと)
そう思いながらも、頑固な老人にも正面から向き合う少女に感心してもいた。
「生3つ、持ってきます」
セシルがカウンターからビールジョッキを持っていく。右手に2つ、左手に1つ持って、中身をこぼすことなく器用に運んでいく。
「ただ、わたしとしては心配事が別にあってさ」
「なんです?」
体のでかい料理人が女主人の方を見る。
「あんたたちにはわからないだろうがね、女には女の悩みってのがあるのさ」
ぎろ、とにらまれた3人の男たちの身がすくむ。それでもオーマが問いかける。
「なんですか、その悩み、って?」
ノーザが溜息をつく。
「いや、この仕事をやってると、どうしたって、嫌な思いをするものでね。女の店員と見たらいやらしいことをしてくる馬鹿って絶対にいるだろ?」
(そういうことか)
男たちの思いは一致する。要するにセクシャル・ハラスメントだ。
「いやらしいことを言ってきたり、身体を触ってきたりしてさ。そういうのまで食堂のサービスに入ってると思ってやがるんだ。わたしが女王様だったら、そんな馬鹿はみんな即死刑にしてやるんだけどね」
ノーザ・ベアラーが権力を握っていないことに安堵しながらもコムが聞く。
「セシルちゃんがそういう目に遭うんじゃないか、って思ってるんですか?」
「そうさ。若い女の子、というだけで目の色を変える馬鹿は星の数ほどいるからね。あの子にも気を付けるようには言ったんだけど」
女主人の言葉を耳にした3人の店員は似たようなことを考えた。セシル・ジンバの顔立ちは地味だ。前髪で目が隠れて顔にはそばかすが散っていて、さほど目を引くわけではない。しかし、身体の方はそうでもなかった。腰回りが発達しているのは履いているデニムの上からでもよくわかったし、黒いTシャツに書かれた「くまさん亭」の白い文字が歪んで読みづらくなっていることから見ても、胸の方もよく育っている。つまり、彼女の身体は男を引き付けずにはおかないのではないか、と男たちは考えていたし、実際彼らもそういう目でセシルを見たことはない、と言えば嘘になってしまう。
「あんたたちもあの子におかしなことをするんじゃないよ」
そんな邪心を読み取ったのかノーザが店員たちを睨む。
「やめてくださいよ、おかみさん。おれはあの子の倍も歳を取ってるんですよ」
「おれだってそんなつもりないですよ。まあ、あと15年か20年経ったら、セシルちゃんもいい感じになると思いますけどね」
「コムさん、相変わらず熟女が好きすぎますよ」
「あんたたち、本当に馬鹿だね」
気心の知れた連中と言ってもこれだけは信用できない、と女主人は警戒を緩めないことにした。
「ちなみに、おかみさんはどうだったんですか? なんというかその、若い頃嫌な思いをされたんですか?」
「わたしかい?」
チコに訊かれてノーザがきょとんとした顔をする。
「ああ、実はわたしはあんまりないんだよね」
「そうなんですか? おかみさん、若い頃きれいだったと思うから大変だろうな、って考えたんですけど」
「馬鹿野郎、チコ。『だった』じゃねえよ。今でもきれいだよ。いや、昔より今の方がきれいに決まっている」
熟女好きのコムに褒められたのに女主人は不安を覚えつつも話を続ける。
「まあ、その理由はなんとなくわかるんだけどね。客の相手をする時はかなり気合を入れてたからさ。『触ったりしやがったらぶっ殺す』って思いながら接客してたから、向こうにもそれが伝わったんだと思う」
(それは触れないわ)
男たちの思いは一致する。しかし、それは客商売としてはいかがなものか、という思いも同じだった。
「ただ、これはあくまでわたしのやり方であって、セシルにそれができるかというと難しいと思うんだよね」
「おれたちも気を付けることにしますよ」
「そうしてくれると助かる」
オーマに向かってノーザが頷いたそのとき、
「へへへへへ、おねえさん、ちょっとこっちに来て」
厨房から一番離れたテーブル席で太った男が手を上げてセシルを呼んだ。相席している男ともども薄汚れた服を着て、どちらもかなり酔っぱらってにやにや笑っている。食欲以外の欲望を隠そうともしていない。
「はい。ただいまうかがいます」
セシルがぱたぱたと走っていく。
「あれ、まずいんじゃないですか?」
コムが眉をひそめたのに、
「ああ」
女主人も緊張する。何かあったらすぐに飛び出そうと身構える。
「ご注文をお伺いします」
「へへへへへ、そんなことよりさ、おねえさん、彼氏とかいるの?」
「いませんけど?」
その言葉に相席の男が身を乗り出す。
「だったらさ、こんなところにいないで、おれたちと楽しくやろうよ。いい場所知ってんだよ」
「それは違いますね」
「あん?」
「ここよりいい場所なんてあるはずありませんから」
セシルの微笑みが光り輝く。夜に突如現れた太陽の光にさらされたかのように、男たちの欲望が一瞬だけ後退する。しかし、目くばせを交わし合うと、2人の酔客は少女に向かって手を伸ばした。前の男は胸に、後ろの男は尻に狙いを定めている。
(この野郎)
思わずかっとなった女主人が厨房を飛び出そうとしたその時、ばちっ、と大きな音が「くまさん亭」の店内に響き渡った。セシルのいるテーブルからだ。ノーザたちも驚いた他の客もそちらの方を見る。
「痛てぇ……」
「うわぁぁぁ……」
テーブルに座った2人の男が左手で右の手首を押さえながら呻いている。とてつもない痛撃を食らわされたのだ。普通なら触られそうになった少女から反撃された、と考えるところだが、彼女が動いたようには見えなかったのに加えて、ただの少女がこれほどの痛みを与えられるとは信じられず、男たちも、そして店内にいる他の人間もその可能性をまったく考えなかった。大蛇の群れに一斉に噛まれたかのような、強い酸性の液体を一気に流し込まれたかのような、それほどの激痛だった。
「えーと」
不思議そうな表情でセシルが客の様子を伺う。
「ご注文を伺いたいのですが」
そう言われても男たちはそれどころではなく、注文などとてもできない。
「えーと、ご注文がないのでしたら、おすすめしたいメニューがあるんです。当店の名物『くまさんセット』です。日替わりでその日おすすめの料理とお酒を格安で提供しているのですが、いかがでしょう?」
黙っている男たちに、
「いかがでしょう?」
もういちどおすすめすると、
「じゃあ、それで」
と消え入りそうな声でセシルを呼んだ男は答えた。
「ありがとうございます。そちらの方は?」
三つ編みの少女が振り向いて相席の男を見ると、
「おれもそれでいい」
とぼそぼそっと答えた。
「かしこまりました」
にっこり笑うと、セシルはテーブルから離れようとする。相席の男が立ち去る少女の身体に無事な左手を伸ばそうとするが、ばちっ、と再び音が鳴り、男は呻き声をあげて、両手をだらりとぶら下げたまま歯を食いしばり苦悶の表情を浮かべた。
「『くまさんセット』2つ入りました」
カウンターから厨房に向かって呼びかけるセシルをノーザたちは唖然としながら迎えた。
「セシル、あんた大丈夫なのかい?」
「何がですか?」
狐につままれたかのような表情で女主人を見る三つ編みの少女。
「いや、あのお客に変なことをされなかったか? って聞いてるんだ」
「別に何もありませんでしたよ、オーマさん」
そう言って笑うセシルを見て、
(逆にこの子が何かをしたような気もするけど)
女主人はそう思ったものの、頭からそれを打ち消すと、すぐに料理の仕込みに入った。まだまだ忙しい時間は続くのだ、ぼやぼやしてはいられない。
(セシルは上手くやってくれてるみたいだ。このまま長く働いてくれたらいいけど)
それでも少女の様子に安心しながら、ノーザ・ベアラーは火の入ったかまどを見ていた。
(この仕事、楽しい!)
料理が盛られた皿をテーブルまで運びながらセシル・ジンバことセイジア・タリウスはうきうきしていた。やることも覚えることも多いが、大変なのがまた楽しいのだ。
(ノーザさんもみんなも優しくて言うことなしだ)
追加の注文をしっかり覚えてから、厨房にそれを伝えようとカウンターまで向かう。
(それにしても、いったいなんだったんだろうな、さっきのあの音)
セイは自分が痴漢行為をされそうになったのに全く気づいていなかった。そして、それに対して無意識のうちに常人の目にも止まらぬ速さで反撃したことにも気づいていなかった。鍛えあげられた女騎士の肉体は、自らに加えられそうになった攻撃に対して自然とカウンターを加えるようになっていたのだ。反撃といっても、しっぺを食らわせただけである。しかし、たかがしっぺであっても、セイジア・タリウスのそれは尋常なものではなく、本気でやれば自然石をたやすく粉砕する威力を持っている。本気ではないにせよ、そんなしっぺを手首に食らった男たちは、しばらくスプーンすら持つことも無理なはずで、実際「くまさんセット」を食べるのにかなり苦労しているようだった。
(まあいいか。食堂にはいろんな客がやってくるのだから、何があっても不思議じゃない)
そう思って、セイは客が去ったテーブルの後片付けをするために店内に戻っていった。新人バイトは仕事に集中しなければならず、余計なことを考えている暇などなかった。
その後も、セシル・ジンバにけしからぬ振る舞いをしようとする客は後を絶たなかったが、そんな客は必ず痛い思いをしてすごすごと帰る羽目になっていた。この話がどういう形で伝わったのかは不明だが、後世の歴史書には「アステラ王国の幽霊食堂」として記録が残ることになり、演劇や歌曲のモチーフにもなったのだが、それはセイジア・タリウスにはもちろん知りようのないことであった。
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