第10話 公爵、女騎士さんの攻略に挑む(後編)

カーニー・キャンセル公爵が選んだ「最後の手段」とは、セイジア・タリウスと肉体関係を結ぶことだった。

(既成事実さえ作ってしまえば、後はどうとでもなる)

貴族の高潔さをかなぐり捨て、下衆な本性をあらわにした男はセイの貞操を汚すことにしたのだ。そんな下心を隠し持ち、公爵は夜更けにセイの部屋をひそかに訪れ、2人きりで会話をしていた。

(わたしにだって考えはある)

この中年男も実家の立て直しのプランを一応練ってはいて、それにはセイとの結婚が前提となっていた。結婚によって作られたお祝いムードを利用するとともに、好感度の高い花嫁を前面に押し立てて、なんとか借金を返済していくのだ。そんなあやふやなものであっても、彼にとっては最重要のプランなのであった。

(そうだ。この娘の実家だって利用できる)

タリウス家の資産までもあてにしだした公爵は今や必死だった。この娘を落とさなければ明日はない、とまで思い込んでいた。懸命になって、セイに向けて愛の言葉をささやきかける。

「セイジア、わたしの気持ちをわかってくれるね?」

ムードが高まった(と公爵だけは思っていた)のを見計らって、少女の両手を手に取り、自慢の美貌(と公爵だけは思っていた)で少女の青い瞳を見つめた。その美しいきらめきに、男は魅了される。

(資産もこの娘も、なんとしてもわたしのものにしたい)

公爵が腹の底から燃えたぎるかのような欲望を感じていたのに対し、

(困ったなあ、明日も早いというのに)

セイは公爵との会話を上手く終わらせる方法が見つからずに困っていた。そんな少女の心も知らずに、

「愛しているよ、セイジア」

公爵はそう言いながら、セイの白く細い顎を指でくい、と持ち上げて口づけをしようとする。

「いけません、公爵様!」

次の瞬間、カーニー・キャンセルは弾丸ライナーで背中から部屋の壁に突き刺さっていた。白い壁にひびが入り、漆喰がサラサラ流れ落ちる。息が出来なくなり、口をパクパクさせる公爵。何が起こったのかさっぱりわからなかったが、胸に鈍い痛みがあるところを見ると、あの娘に両手で押されたのだろう。

「あの、その、公爵様がわたしを好いてくれているのはうれしいのですが、その、なんというか、心の準備が必要というか、あの、わたしたちはまだ夫婦にはなっていないのですから、こういうことはまだ早いというか」

顔を赤く染めてもじもじするセイジア・タリウス。普通の少女らしい純情さではあるが、普通の少女は男を突き飛ばして部屋に即席の壁龕へきがんを作ったりはしない。

(なんという馬鹿力だ)

公爵はようやく背中を壁から引きはがすことに成功した。いざとなれば、無理やりにでも襲い掛かってやるつもりでいたが、あの怪力で抵抗されればこちらの命も危ない、と判断していた。計画を練り直す必要がある。ほうほうの体で部屋から退散する公爵の背中に、

「おやすみなさい、公爵様」

深夜に似つかわしくない朗らかな声がかけられたが、それに応える心と体の力が中年男にはもう残ってはいなかった。


次の日も公爵は失敗した。再び夜中にセイの部屋を訪れ、一緒に酒を飲もうと勧めたのだ。

「わたしにはまだ早いと思うのですが」

少女はあまり喜ばなかったが、婚約者の押しの強さに断り切れなかった。男の意図は明瞭にも程がある、と言いたくなるもので、酒にまだ慣れていない娘を酔い潰して、その間に行為に及んでしまおう、ということだった。はっきり言ってしまえば、何処の世界でもれっきとした犯罪である。公爵を一応擁護するなら、彼はこれまでそのような卑劣な手を使ったことはなかった。彼にも女殺しとしてのプライドのようなものがあったのだ。しかし、その「プライドのようなもの」は欲望にあっさり屈してしまう程度のものでしかなく、男は今まさに人間から野獣へと転落しかかっていた。ところが。

(どうしたというのだ)

矢継ぎ早に強い酒を飲ませてもセイの表情に変化はなく、けろっとしている。予想と異なる展開になっていた。

「公爵様はお飲みにならないのですか?」

不審げに見られて、男は慌てて杯を手に取る。企みが露見するのを恐れたのだ。また一杯、娘が酒を飲み干す。だが、何も様子は変わらない。

(ええい、この娘はか?)

焦りと苛立ちとともに酒をあおった次の瞬間、公爵はベッドの上にいた。窓からは朝の光が差し、小鳥のさえずりが聞こえる。

(なんだ? いったいどうしたというのだ?)

体を起こすと、娘の部屋ではなく自分の部屋にいると気づき、そして、もうひとつの事実にも気づいた。

(まさか、わたしの方が先に酔い潰れたのか?)

愕然となる公爵。ほんの2、3杯しか飲んでいないはずなのに。すっかり酒に弱くなっていることを知り、男は自らの加齢を思い知らされる羽目となった。少女を陥れようとした報いとしてはあまりにささやかではあったが、中年男の心は大いに傷つけられた。

二日酔いでずきずき痛む頭をもてあましながら、公爵が部屋を出ると、ちょうど階段を上ってきたセイと行き合った。いつも通り早起きをして仕事をしているらしい。

「公爵様、大丈夫ですか?」

近づいてきた娘には酔いが残っている様子は全くなく、長身の肢体からは酒臭さどころか甘い果実のような香りがしていた。そんな娘が声をひそめて話しかける。

「昨日のことは誰にも言ってませんから安心してください」

そう言って、セイは自分の部屋へと戻っていく。

(何を言っている?)

頭痛に苦しみながら階下に降りようとしてようやく気付く。昨晩、酔い潰れた自分を部屋まで運んだのはあの娘なのだと。

(なんたる屈辱だ)

少女より先に泥酔しただけでなく、介抱までされていたとは、遊び人の面目は丸潰れだった。わきあがってきた吐き気をこらえながら男は階段を下りる。このうえ、反吐して屋敷を汚したりすれば、もう完全に立ち直れないとわかっていたので、それだけは嫌だ、と公爵は最後の意地でなんとかこらえきった。


「セイジアよ、マッサージをしてやろう」

その夜、三度部屋にやってきたカーニー・キャンセルをセイは怪訝そうに見つめた。

「マッサージ、ですか?」

「ああ、おまえはいつも仕事を頑張っているから、疲れがたまっているだろうと思ってね。以前、ある人から特別なやりかたを教わったのだ」

「お気持ちは嬉しいのですが、わたしのような者が公爵様にそこまでやってもらうのも心苦しい、というか」

「いやいや、それを言うならわたしの方こそ、こういうことしかしてやれなくて心苦しいのだ。どうか受け入れてもらえないだろうか」

そういうことでしたら、と金髪の娘はベッドの上にうつぶせで横たわった。

(かかった)

男の胸に獲物を見つけた豺狼のごとき喜びがわきあがった。今度こそこの娘を我が物にできる。公爵もベッドの上で膝立ちになると、下になった娘への情欲もまた一気にわきあがるのを感じたが、まだ襲い掛かるわけにはいかなかった。震える両手をそっとセイの背中へと伸ばした。

キャンセル公爵が特別なマッサージを教わった、というのは紛れのない事実である。ただし、それは性的な、女性の快感を高めることを目的とするものだった。何年か前に娼館で居合わせた東方からやってきたという小柄な老人に教えられたもので、半信半疑で寝室で試したところ、相手の娼婦がたちまち興奮で全身を桃色に染めるのを見て、公爵もまた興奮で全身が熱くなるのを感じたものだった。

(わたしには女性を喜ばせる才能があるらしい)

つまらない人間にはつまらない才能があるようで、それからも公爵は閨房けいぼうで何人もの婦人を快楽の頂へと導いていて、そして今夜は自分の思い通りにならない生意気な若い娘がその生贄になるはずだった。

(さあ、その身をわたしに捧げるがいい)

愛の神を気取った男が、頃合いを見計らって、背中にある特別なツボを二つの親指で押そうとする。そこを衝かれた女性は例外なく快感に身を反らせてきたものだった。そして、親指で強く押した。

(あれ?)

ツボを確かに押した。強く押したはずだった。手ごたえがない。セイの様子にも変化がない。慌ててもう一度試してみるが、同じことだった。何も変わりはしない。ならば、と他のツボを押そうとしてみた。肩。ふくらはぎ。ふともも。首筋。どこを押しても効き目はなかった。

「くすぐったい」

公爵に全身をまさぐられたセイが、子猫のような声でくすくす笑いながら寝返りを打ち、仰向けになる。茶色いシャツに覆われたふたつのふくらみが弾むように上下するのを見た男はたちまち欲情に支配され、秘伝のツボを次々に押していくが、どれもまるで効果がない。

(なんということだ)

秘術が通じない理由に公爵がようやく気付いたのは、彼女の腹筋に手をやったときだった。固くて指が通らない。相当に鍛え上げられているのは、戦場に行ったことのない男にでもわかった。つまり、セイの全身は戦いの中で鋼のごときものと変貌していて、それが男のよこしまなテクニックを跳ね返していたのだ。

(野蛮な女め)

全身の力を使い果たした公爵がふらふらとベッドを離れる。こんな脳味噌まで筋肉で出来上がった女騎士を相手にしようとしたのが間違いだったのだ。どうしても手に入らないものを貶めることで中年男はプライドを保とうとする。しかし、この男が知ることは決してないのだが、セイジア・タリウスの鍛え上げられた肉体は、彼女が愛した男と抱き合うと、いつもの強靭さが嘘のようにやわらかなものとなり、相手の男にこの世のものとは思えない快楽を与えるのだ。そのことをカーニー・キャンセルが知ることは決してないのだが。

「確かに少し楽になった気がします」

セイがベッドの上で起き上がりながら背筋を伸ばす。もとより公爵は普通のマッサージなどしてはいなかったから、彼女が楽になったのは心の持ちようでしかなかった。そんな少女を心の中で小馬鹿にしながら、公爵は部屋を出ていこうとする。目的が果たせなかった以上、ここにとどまる意味はなかった。

「お待ちください。そのまま帰らせるわけにはいきません」

毅然とした声に男の足が止まった。まさか、邪悪な目論見を読まれてしまっていたのか。

「さあ、こちらまで来てください」

ベッドに腰かけたまま、白いシーツが敷かれたマットレスをぽんぽんと右手で叩くセイ。

「今度はわたしが公爵様をマッサージする番です」

「なんだと?」

好奇心を刺激され、カーニー・キャンセルは婚約者へと近づく。

「実はわたしも多少マッサージの心得があるのです」

そう言って金髪の少女はにっこりと笑う。

「わたしだけ楽になって満足するわけにはいきません」

娘に意図を知られたわけではない、とわかって男は安心するとともに、期待が高まっていくのを感じていた。

「そうか、そういうことならやってもらおうか」

「ありがとうございます。では、そこに寝てもらってもいいですか? そうですね、背中が上の方がいいですね」

気持ちが軽くなるのを感じながら、公爵はベッドの上でうつぶせになった。マッサージの効果のほどは大して期待していなかった。いくら心得があると言っても所詮は素人のやることだ。ただ、それでも、少女が自分のために力を込めて汗を流している姿を考えるだけで胸が熱くなるのを感じていた。それに加えて、もしかすると、そのマッサージというのは、ありきたりのものではなく性的な意味合いを含んだ特別なものかもしれない。娼館でそのようなサービスを受けたことが何度もあった。失敗したとばかり思っていたが、このままなしくずしで行為にまで持ち込めるのではないか、と男の頭脳は最大限に都合のいい展開を予測して興奮しきっていた。

(わたしは運がいい)

大して期待していないふりをして実はかなり期待していたカーニー・キャンセルの背中の中央に、ベッドの上で高く飛び上がったセイジア・タリウスの右肘が深々と突き刺さったのはまさにそのときだった。

「ぎわばっ!?」

想像を絶する激痛が突然襲い掛かってきて公爵の全身が海老反りになる。プロレス技でいうエルボー・ドロップが炸裂したのだ。たまらずに這って逃げようとした男の顔面に少女の細くしなやかな腕が巻き付く。

「じっとしていてください、公爵様」

いつの間にか、セイの両脚が公爵の左脚を締め付けていた。極められた足首と膝に鋭い痛みが走るが、それ以上に問題なのは首が通常回らない方向に無理矢理曲げられようとしていることだった。ステップオーバー・トーホールド・ウィズ・フェイスロック、通称STFが完全に極まっていた。自分の頸骨がごきごきと音を立てるのを耳にした男は完全にパニックに陥った。

(なんだ? 一体何が起こっているんだ?)

こんなマッサージがあってたまるものか。そうか、これは制裁だ。自分の計画を見抜いたあの娘が制裁を加えているのだ。

「最初はきついと思いますが、じきに楽になりますから」

少女は制裁を加えているつもりはなさそうだった。あくまでもマッサージをしているつもりなのだ。

「よっ、と」

セイは公爵の両手をとって起き上がらせると、そのまま自分から後ろに倒れ込み、その長い両脚で公爵の短めの両脚をからめとってから持ち上げ、男の肉体は少女によって四肢を支えられて宙に浮かぶ格好となった。釣り天井固め、ロメロ・スペシャルの完成だった。引き裂かれそうな痛みが全身を襲い、カーニー・キャンセルは悲鳴をあげる。天井がやけに近く見えるのがたまらなく怖い。

「いったい、どういう、つもりだ? こんな、マッサージが、あるわけ、ないだろう?」

「いやだなあ、公爵様。本当にマッサージですってば」

息も絶え絶えになった公爵にひきかえ、大の男の肉体をひとりで支えているというのに、少女は元気そのものだった。

「わたしたち騎士にとって大事なことのひとつに、馬の健康管理があるんです。行軍の最中、長い距離を走らせると馬だって当然疲れますが、だからといって休ませる時間がいつもあるとは限りません。そこで、せめて全身の筋肉をほぐして疲れをとって、元気になってもらおう、というわけなんです」

「と、いうことは、まさか?」

「はい、これは馬専用のマッサージです。人間にやるのは初めてですが、馬に効くのですから、人に効かないはずがありません」

わたしを実験台にするんじゃない、こんなの馬だって耐えられるか、と叫ぼうとした瞬間、セイは公爵の肉体をぱっと手放すと素早く動き、空中に浮いた中年男の頭部を両脚で挟み込み、ひねりを加えて脳天からベッドに叩きつけた。フランケンシュタイナーだ。

「ぶあらっ!?」

「まだまだこれからが本番です」

もういい、もうやめてくれ、という心からの願いは、アキレス腱を極められた激痛で口からは出せなかった。


(あらやだ)

シャンデリアが揺れ、天井から埃が舞い落ちるのを見たキャンセル公爵夫人は眉をひそめた。その夜たまたま眠れなかった彼女は、屋敷の広間でひとりお茶を飲んでいた。見上げると頭上の照明は時折揺れて、厚い絨毯に落ちた影もつられて揺れている。2階で何者かが激しく動いているせいだ。その意味するところを、夫人は察していた。

(あの2人、仲良くなったようね)

われ知らず、年配の女性は顔を赤らめる。夫が亡くなってもう10年以上が経ち、恋愛や情事にはまるで縁がなくなっていた。本来であれば、婚前の2人がそのような行為に及ぶなどもってのほかのはずだが、少しくらいのは見逃そう、と彼女は考えていた。

「奥様はすっかりお優しくなられた」

と屋敷の使用人のみならず、領民からも最近特に慕われるようになっていたのに女主人は気づいていなかった。シャンデリアの揺れが激しくなる。震度2から震度3へと変化していた。それだけでなく、2階から声が響くのも彼女の耳に届いていた。「ぎゃあっ」「ぐあっ」という息子の悲鳴のような声と「えいっ」「やあっ」というその婚約者の掛け声が聞こえてくる。どちらも情事にふさわしいものとは思えなかったが、さすがにこれ以上は見過ごせない、と公爵夫人は考え直して立ち上がった。

(いくらなんでも堂々とやりすぎだわ)

ネグリジェの長い裾を持ち上げて階段を上がる。セイが男女の機微に疎いのは夫人にもわかっていた。そういう若い娘にはけじめというものをきちんと教えないといけない、と息子のことは全く頭にないのに気づかぬまま、公爵夫人はセイの部屋のドアを開けた。

「あなたたち、一体なにをしているのです」

そう言った夫人の目に映ったのは予想だにしない光景だった。ベッドのわきに立ったセイジア・タリウス、そして、ベッドの上に横たわったカーニー・キャンセルの姿がそこにはあった。

「ああ、お義母様、夜中からお騒がせしてすみません。公爵様にマッサージをしていたのです」

「マッサージですって?」

そう言いながら、息子の顔を覗き込むと、涙と鼻水にまみれて、ぶるぶる震えながら歯をがちがちと鳴らしている。よほど恐ろしい目にあったように見えた。

「……まま……」

ぼそっ、と公爵が呟いたので夫人とセイは驚く。

「……まま……、もうやだ……、ぼく、もうやだよ……、このこ、やだ……、けっこん、やだよ……」

そう言うなり、カーニー・キャンセルは白目を剥いて気を失った。ぶくぶくと口から泡があふれ出る。

キャンセル夫人は大きく溜息をついた。この状況がどうして生じたかはわからない。わからないが、どうせうちの馬鹿息子のしでかしたことに決まっている。婚約者である娘には非がない、というのもわかっていた。しかし、それでも言わなければならないことがあるのも、またわかっていた。

(いつかこうなる気がしていた)

もう一度溜息をついてから、公爵夫人はセイを見つめた。

「ごめんなさいね、セイジア」

そう言って寂しく微笑んだ。

「あなたとこの子との結婚、無理だと思うの」

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