第9話 公爵、女騎士さんの攻略に挑む(前編)
「セイジア、手紙を読んでくれたかな?」
夕食の仕込みを手伝っていたセイが2階に上がってきたのを待ち構えていたカーニー・キャンセル公爵が訊ねた。婚約者を陥落させるべく、あの夜から公爵は自宅に泊まり続け、
「珍しいこともあるものね」
と母親を驚かせていた。
「公爵様。ああ、お手紙は拝見させていただきました」
そう言いながら、セイは濡れた手を紺のシャツの裾で拭った。かなり行儀が悪いが、公爵はそこは大目に見ることにした。田舎娘を一流の令嬢に教育する計画は今始まったばかりなのだ。
「それなら、感想を聞かせてもらいたいのだが」
公爵がセイに手紙を送ろうと、たまたま居合わせた若いメイドに渡したのは昨晩のことである。その内容といえば恋文、ラブレターであった。
(これを読んでなびかない女性はいない)
と、かつてはそれなりのプレイボーイだった男は信じて疑わなかったが、装飾過多の表現をふんだんに用いた胸焼けしそうなほどに甘ったるい文章を盗み読んだメイドは笑いが止まらなくなり、「自分だけで楽しむのはもったいない」と、使用人仲間に回し読みさせて、みんなで一緒にゲラゲラ笑い合ってから、セイの部屋まで届けに行ったことを、当の書き手は知る由もなかった。
「そうですね」
もちろん、セイは恋文をもらって笑うほど意地悪ではなかった。意地は悪くなかったが、
「少し長すぎたように思います」
心を動かされもしなかったようだった。
「長い? たかだか便箋5枚ではないか」
公爵が不満を漏らすと、
「ですが、あの内容ならもっと簡潔にできたかと思います。わたしが騎士団にいたころに報告書を出さねばならないことがよくあったのですが、『結論を最初に書け』『抽象的でなく具体的に書くよう心掛けよ』と上司にきつく言われていたので、お手紙を読んで、『わたしなら1枚でまとめられるな』と思ったものですが」
(なんたる野暮な娘だ)
恋文と公的な書類を一緒にするとは、と公爵は呆れかえる。美的なセンスを磨くために子供向けの絵本でも読ませることから、教育を始めなければならないのだろうか。
「あ、そうそう」
金髪を揺らしながら少女がすぐ隣にある自分の部屋に入ったかと思うとすぐに飛び出してきた。最初に暮らしていた屋根裏を少女は気に入っていたのだが、公爵夫人に強く言われて2階へと移っていた。
「わたしも返事を書きましたので、よろしければお読みになってください」
白い封筒を手渡された。少し機嫌をよくした男は自室に戻ると、すぐに封筒を開けた。便箋1枚の裏表には文章が少女らしい丸い字でびっしりと書かれていた。読んでみると、セイジア・タリウスのこれまでの経歴および戦歴が網羅されていて、彼女に関わるデータが詳細に記入されていた。きわめて事務的で、恋心など見当たるはずもなかった。
(これではラブレターではなく履歴書だ)
婚約者ではなく面接官になった心境になってしまうカーニー・キャンセル。娘の野暮さに再び呆れてしまったが、それでもセイの手紙に不満を持たなかったのはスリーサイズまで律儀に記入されていたからだ。
(88-57-89、か)
その3つの数字を心の中で唱えているだけでその日一日は平安な気分で過ごすことができた。もっとも、母と婚約者は夕食の席でニヤニヤ笑っている公爵を不審げに見て、何やらひそひそと言い合っていたのだが、男はそれに気づかなかった。
ラブレターの失敗に懲りることなく、公爵はセイに攻勢をかけようとする。次はプレゼントを贈ることにした。女性を喜ばせる品については熟知しているつもりだった。
しかし、それもあまり上手く行かなかった。少女は贈り物をされると必ず喜んだ。喜びはしたが、それが公爵に対する好意につながるかというと、はなはだ疑問だと言わざるを得なかった。たとえば、わざわざ都から取り寄せた高級なケーキよりも、母と使用人たちとおやつの時間に食べるコック長お手製の素朴なパンの方をずっと喜び、公爵自ら真っ赤な薔薇の花束を手渡しても、
「ちゃんと生けておいてくれよ」
とメイドにすぐに手渡すと、自分は花壇の手入れに行ってしまうのだ。
(物の価値のわからぬ小娘め)
腹立たしさは募る一方だった。ただ、まだ奥の手が残されていた。女性ならば必ず喜ぶはずの品物を公爵は用意していたのだ。
「これをわたしに?」
左手の薬指に公爵がはめた指輪を見たセイが感激の声をあげる。朝食の後に届けられた品物を早速彼女の部屋まで上がり込んで披露したのだ。
「ああ。婚約指輪だから、あまり大したものじゃないがね。もちろん、結婚指輪はもっと高価なものを用意するつもりだ」
表面に微細な細工が施された銀に輝くリングは、行きつけの高級宝石店に頼んで手に入れたものだ。公爵はその店には多額の貸しがあったので、最初は断られたが、タリウス家の娘に贈るとわかると、店側の態度が一変した。
「うちの職人の息子が天馬騎士団に参加していて、セイジア様に何度も命を救われたのです」
店員はそう言って感謝の念をあらわにした。つまり、娘のおかげで娘への贈り物を入手できたわけで、公爵は複雑な思いを持たざるを得なかったが、しかしそれも少女の心を得られるのであれば耐えられる屈辱だった。もちろん、指のサイズを間違えるなどという初歩的なミスをするはずもなく、今度こそは婚約者の歓心を買うことに成功したようだった。
「喜んでくれたかい? セイジア」
「はい。なんてお礼を申し上げればいいのか」
「そんな他人行儀なことを言うものではないよ。わたしたちはこれから夫婦になるんだからね」
「そういえばそうですね」
ふふふ、と笑ってからもう一度指輪を眺めるセイを見て、公爵は大いに満足する。
(さあ、わたしにもっと感謝するがいい。なんなら抱きついてもいいんだぞ)
期待は膨らむ一方だったが、
「よいしょ、っと」
そう言って、少女はさっきはめられたばかりのシルバーのリングを、すぽっ、と指から抜くと、机の引き出しに丁寧にしまい込んだ。
「さあ、仕事仕事」
んー、と言って背筋を伸ばしながら部屋を出ようとするセイを公爵は慌てて呼び止める。
「おい、ちょっと待ってくれ」
「どうされました?」
「どうして指輪を外すんだ? いつも身に着けていないとダメだろう」
「いえ、今日はこれから洗濯とか庭仕事があるので、しまっておいた方がいいと思うんです。せっかく頂いたものをすぐに失くすわけにはいきませんから」
確かに言い分は通っていた。セイが黒っぽいシャツとズボンを身に着けているのも、今日の労働に備えてのことなのだろう。しかし、苦心して入手した贈り物を適当に扱われたようで、公爵の気持ちは収まらない。
「きみはいずれ公爵夫人になる身なんだぞ。そんな仕事は召使に任せておけばいいじゃないか」
「お言葉ですが、公爵様、そうも言っていられないのです」
少女の顔が今まで見たこともないほど険しいものになった。それからしばらく、カーニー・キャンセルは実家の経済状態がいかに厳しいものであるかをたっぷり聞かされる羽目となった。資産は日々目減りしていき、好転する兆しは見られず、とにかく地道にこつこつ借金を返済していくほかに術はないこと、などをとくと聞かされた。
「ですから、わたしもじっとしているわけにはいかないのです。これ以上お義母様を悲しませたくはありませんから」
真剣そのものの顔でセイはつぶやく。この状況を招いた、母親を悲しませている張本人である公爵は事態が想像以上に悪化していることを思い知らされ、口をきく事が出来なかった。
「公爵様は、最近わたしによく贈り物をくださいますよね?」
「ああ、それがどうかしたのか?」
金髪の娘の微笑みには暖かさと寂しさが混じっていた。
「お気持ちは嬉しいのですが、これ以上そういうことをされなくても結構ですから。わたしは今のままでも十分幸せなので。それと、結婚指輪も別に必要ありません」
そう言って、セイは頭を下げてから今度こそ部屋を出ていった。高価な贈り物は余計に借金を増やすだけだ、と言外に伝えられた気がした。10歳以上も年下の娘が自分よりも現実に向き合い、問題を乗り越えていこうとする姿に、甘え切った放蕩息子といえども衝撃を受けないはずがなかった。足元がふらついてくる。
(まだだ)
だが、この男は現実を見つめる勇気を持ってはいなかった。
(わたしには最後の手段がある)
あの娘さえ我が物となれば事態は好転する、全ては上手く行く、という夢想からカーニー・キャンセルはまだ抜け出せずにいた。
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