#07 愛して音楽。突き抜けて心。





 防音になっている作業部屋で茉莉を椅子に座らせる。二台並べたエレクトーンのスイッチをオンにして、少し呼吸を整える。この感じ。この前、記憶喪失状態の俺をここに連れてきてくれた茉莉は、何を想ったんだろうな。



「ハルヤ……ピアノ楽しみっ!」

「うん。茉莉はいつもそう言ってくれるんだよな」



 記憶喪失の俺が作った曲。茉莉からスマホに送ってもらった動画の旋律はすでに頭の中に入っている。なんて切ないメロディーなんだろう。だけど、一つだけコードを変えれば………。



 指先から奏でる繊細な音が空間を包む。音符に込める愛よりも休符に詰めた想いに呼吸を合わせていく。横目で茉莉を見ると、音楽にノッているのか首をわずかに横に振っていた。耳で、心で、聴いてくれているのかな。



 一曲弾き終わると、手を叩いて喜んでくれた。「すご〜〜い。ハルヤもういっかいっ!」って。嬉しくて、再び弾く。今度は少しジャズ調に。跳ねるリズムが雨音のように細かな拍を打つ。瞳を閉じると、茉莉と過ごした日々。



 記憶喪失になった俺の腕を引いて導いてくれた茉莉。どんな想いで俺に向き合っていたのかと思うと——胸が詰まる。


 

 俺には茉莉にこんなことでしか想いを伝えられない。言葉以上の想いを伝えたいのに、茉莉には記憶がない。言葉で伝えることは大事かもしれないけれど、今の茉莉にはきっと言葉では伝わらない。だから、この音楽で………音楽の力を信じる。



 今度はバラード調に。優しく、光が溢れるように。光が差すように。凍てつく風が吹き荒ぶ氷の大地を照らす、鉛色の空を切り裂いた陽光が命をつなぐように。



 たとえ、茉莉の記憶が戻らなくても、俺は茉莉のそばにいる。記憶があっても、失われた記憶が戻らなくても、茉莉のことが………。




 ————好きだ。




 引き終えてしばらく俯いてしまった。想いを乗せた指先からすべてが抜け出てしまったのかな。心が落ち着かない。あれ、茉莉はなんで黙っているんだろう。




 ふと、茉莉のほうに顔を向けると————え。




 一条の涙が頬を伝っていた。まっすぐエレクトーンの方を見ながら、呆然とした表情。悲しみや憂いを浮かべているわけではなさそう?



「茉莉? どうしたの? 大丈夫?」

「あ………うん。大丈夫」



 一瞬……茉莉が……いや。気のせいだよな。茉莉はすぐに笑顔になって立ち上がり、背中に抱きついてきた。む、胸が……絶対にダメなやつ。これ、一番ダメなやつ。



「おっぱい当たってるよ」

「お、おっぱいとか言っちゃダメなんだからねっ!」



 無意識で言っちゃうんだっけ。パンツ見せてとか、エッチとか、そういえば最近言ってないな。言わないとダメなのを思い出した。



「茉莉、エッチさせてくれ」

「………え」



 あれ、反応が違う。顔を赤くして、結んだ唇が少し震えているみたい。あれ、おかしいな。エッチとか言っちゃダメなんだよって真顔で言われるのかと思っていたのに。



「………ハルヤがしたいんだったら……いいよ?」

「え……そ、その反応は求めてい………」



 くっ! 一瞬、エッチしたいなんて思ってしまった自分が憎いッ!! なに考えてんだ。相手は記憶喪失だぞ。『記憶喪失なのをいいことに、ねえねに手を出すなんてサイテーっ!』なんて沙月に言われそう。いや、それどころか、俺は病気の茉莉に手を出した最低な男として一生十字架を背負うことに。ならぬ。それだけはならぬ。



「ハルヤ……いいよ? わたし、ハルヤのこと好きだもんっ!」

「そうじゃなくて……俺は茉莉のことが好きだけど。今のは、その、茉莉がいつも流してくれていたやり取りだから……本気にされても」

「………そうなの? えっと………エッチってなんだっけ?」

「………は?」



 あ、そうか。そこからか。そういう情報は頭から抜け落ちているのは当たり前だよな。俺がしたいって言ったから、茉莉は単純にいいよって言っただけなのか。つまり、内容が分からないけど、俺がしたいって言ったことはいいよって答えるくらい、俺を信用してくれているってことだよな。



「茉莉……ありがとうな」

「ひゃっ! なんでイイコイイコされたの」

「嬉しいからだろっ!」

「う、うん。わたしもイイコイイコされて嬉しいっ!」



 次はギターを弾いてみた。エレクトーンほどじゃないけど、ギターも上達してきたのに、記憶喪失で練習できなかった期間に、下手になっている。マジか。だけど、人並みくらいには弾けるはず。



「これは、“愛する人に”っていう曲のギターアレンジなんだ。茉莉のために作った曲……というよりも茉莉に対する想いを……いやなんでもない。茉莉が喜んでくれるなら、能書きはいらないよな」

「? 能書き? アレンジ? わたしのため?」



 エレキギターのエフェクトを空間系に。リバーブを少し。それに、歪……オーバードライブを少し。



「きれいな音だね。ギターってかっこいい」

「うん。俺もこういう配線とメカメカしいのが好きで、結構ハマっちゃったんだよね。エフェクター集め」



 そこは理解できなかったらしい。茉莉は「ん?」って感じで首を傾げた。



 ピックから伝わる振動がやがて、アンプから奏でる調べになって空間を突き抜けるような音楽に。



「この曲……どこかで」

「うん。茉莉はよく聴いていたよ。何度も好きだって言ってくれて。嬉しかったなぁ。今考えると恥ずかしいけど」



 好きな人に曲を作るって、よくよく考えたら相当痛いやつだよな。自分でも分かってる。でも、茉莉は拒絶しなかった。俺は茉莉のことが好きで、その想いだけで一曲作れたんだから、それが嬉しかったんだ。だって、すごくいい曲だと思ったんだ。まっさきに茉莉に聴いて欲しかった。子供かよ俺。でも、茉莉は、すごく喜んでくれた。



「ハルヤっ! この曲、ずっと聴いていたい。スマホに送って!」

「うん。分かった。あとで送ってあげる」



 記憶がなくても同じこと言うんだな。もうスマホに入っているんだけど、暗号のかかったフォルダに入れていたのを知ってる。なんでって訊いたら——。




 ——だって、世の中に出さない曲でしょ。宝物には鍵をかけなくちゃ。




 で、その宝物が俺の記憶喪失を解く鍵になるなんて。この曲は打ち込みで編曲済みだから、それだけですぐにでも楽曲にできる。でも、だれかに歌ってもらうことはしなかった。俺から茉莉にあげたはじめてのプレゼントだったから。



「ハルヤ〜〜〜お腹すいた」

「はいはい。じゃあ、あと少ししたら出前でも取ろうね」




 天真爛漫っていうのかな。ギターを恐る恐る触って、俺の真似をして抱えて、不器用な手付きで弦に触れた茉莉は、自分の出した音にびっくりして泣きそうになってる。なんだそれ。



「こうやって弾くんだよ。指はこうやって、右手はこうやってピックを持ってね」

「う、うん。わぁ。すごい。わたしでもキレイな音が出たっ!」



 今度は俺が背後から茉莉を抱きしめる形になった。振り返った茉莉は嬉しそうだけど、少しはにかんで、ギターの弦を弾く。なかなかギターを弾く姿も可愛いな。似合っているし。




 こうして二人でいる時間が嬉しくて……温かくて。俺は——少し強く茉莉を……抱きしめた。



「ハルヤ? どうしたの?」

「少しだけこのままでいい?」

「…………うん。いいよっ」




 しばらくそのまま。そのまま俺は茉莉の体温を感じていた。




 俺の抱きしめる腕に頭を乗せた茉莉は、そのまま動かなくなった。あれ、どうしたんだろう。



 ふと顔を覗き込むと………寝てるし。



 すやすやと眠る茉莉からギターを離させて、茉莉をお姫様抱っこして、隣の寝室に茉莉を寝かせた。




 まったく手がかかるな。でも、ありがとう。




 茉莉のおかげで、また音楽を作れるよ。誰かのために音楽を作り出すことができるよ。

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