さよなら ダーリン

そうして、私たちは別れることになった。 喧嘩も沢山したし、たくさん愛し合ったし二人で借りたアパートに未練がないと言えば嘘になる。


しかし、今彼があの時みたいに目に涙をいっぱいに溜めて「そばにいて欲しい」と泣き喚いても、私はきっと彼に失望に似た興ざめをするばかりである。


ふと、隣にいる彼の顔を見てみる。 最初に会った時より少し老けていて、ふっくらとしていた頬は少し痩けて、あんなに艶のあった肌は手入れされていない庭みたいに荒れていた。


「あ、そっかぁ。 もし付き合ってたら今日で6年目だね」


彼が思い出したかのように、虚空を眺めて言った。 彼はメガネ越しにどんな景色を見ているのだろうと、今更気になった。


「そうだね。 6年かぁ〜。 長いようで短い、なんて使うの卒業式の時以来だな」


目の前で車が数台通り過ぎた。 ここには車が滅多に来ないため、積もりっぱなしの枯葉を蹴散らしながら何かに引っ張られるみたいに通り過ぎた。


「だねぇ。長いようで短いなんて、50メートル走みたいだ」


「いや、あれは。 短いようで長いよ」


「え、まぁそうとも言えるか」


私たちは顔を見合わせて笑いあった。 こんなことも今日で終わりなのである。


しかし、不思議と悲しくはない。とても寂しいけど、きっと何度も思い出すけど、その度に私の心は火がともされたみたいに暖かくなる。


私たちは二人で居れば何度でも恋をすると思う。 けれども、何度も相手を嫌いになって私や彼は何度でも私や彼を振ると思う。


いつまでもそんな不安定な周期的な恋をしている訳にはいかない。 そう思ったから二人ともこの道を選んだのだ。


「ねぇ、覚えてる? 初めて私が君の家に行った日のこと」


「あぁ、覚えてるよ」


彼の少し垂れた目はもっと垂れ下がって優しい目付きになった。


「きみ、何だかとても緊張しててさ、玄関で思いっきりコケたの。 本当、私思わず吹き出しそうになったの堪えてたんだから」


「あったあった。 なんか、恥ずかしぃな」


彼は後頭部を掻きながら本当に恥ずかしそうにそう言った。


「あ、そういえば俺も。 初めて手料理作った日覚えてる?」


「それ、めっちゃ覚えてる」


私はもうおかしくて笑いながら相槌をうった。


「俺、人参を4本とも全部切っちゃてさ」


「そうそう、1本でいいのにね。 でも、逆にそれがさ」


『美味しかったんだよね』


私たちは同時にそう言ってまた笑った。 出会った頃みたいに私たちはきっとまた恋をしている。


しかし、始まりとは終わりであるとこの間読んだ本に書いてあったし、私もそれは身に染みて感じた。ここで終わらせよう、終わりは早い方が傷も浅いのだから。


しばらく二人で笑いあっていると、迎えの車が落ち葉を引きながらやってきた。


「はぁ……、おもしろかった!」


私はお別れの合図のようにそう言った。


「俺も。」


彼はごく自然に息を吐くようにそう言った。


「じゃぁね!」


「おう! 元気でな」


彼はそう言うと右手を少し上げた。 口角も少し上げて微笑んでいた。


私たちはいつものように別れを言った。 これがきっと永遠の別れだと言うのにちっとも悲しくはない。 けれどもやっぱり寂しい。


私は後部座席にゴロンと横になった。


「ちゃんとお別れ言えたの」


久しぶりに、母の声を聞いた。


連絡をほぼ絶っていたけど、この間(別れることになりました)と連絡したら迎えに来てくれた。


いい母を持ったのかなと思う。


「まぁね」


車の振動が心地よかった。 彼は免許を持ってなかったから、移動はいつも電車かバスだった。


「そう……。 今日の晩御飯は何がいいの」


母は話を変えた。


「……。 ハンバーグが食べたい」


何となくハンバーグが食べたかった。 そういえば、彼もハンバーグが好きだったなと思い出した。 好みが似てきたのかもしれない。

私はそのうちに眠ってしまった。


「ねぇナツ」


夢の中で彼が話しかけてくる。


「また、春が終わったらさ海に行こうよ」


薄いオレンジ色の光の中私は彼の膝に頭を乗せて話を聞いている。 淡くて、今すぐにでも壊れてしまいそうな空間だった。


(なつかしぃなァ 。 結局海には行けなかったよ。 その前に私たちは別れちゃったんだ。)


「ナツ……。好きだよ」


(私も。 好きだったよ)


彼の頬に手を伸ばそうとしたところで目が覚めた。


体を起こすと、どうやらハンバーグの材料を買いにスーパーに来ていたらしい。 目の前のガラス越しに袋詰めをしている母を見つける。


私は自分の頬に涙が流れていることに気づいてとても意外に思った。

この涙は彼との日常が終わってしまった悲しさではなく、彼との日常が終わってしまったこの寂しさに対する悲しさである。きっと。


母が車に戻ってきたので私は慌てて涙を拭いた。 母が助っ席に袋を置くと「いい人やったんやね」とだけ言った。母はなんでもお見通しらしい。


アシストグリップに捕まって揺れているストラップがやけに懐かしく思えた。

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【短編事変】ブルーレイン・ヤング Lie街 @keionrenmaro

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