ブルーレイン・ヤング

「あの、先生!」


からりとした青年の声が廊下に響く。


「はい」


古田ふるた しょうは振り向き、青年を見て返事をした。


「付き合っ……」


「ごめんなさい」


言葉が終わる前に翔は深々と頭を下げた。


「以前も話したとおり、私はあなたを恋愛対象として見られない。 ごめんなさい」


古田は頭を下げたまま、理路整然と言葉を連ねた。


「です…よね」


三回目の告白、答えなどは最初からわかっていた。

何枚も並んでいる窓ガラスは一枚だけ開いている。 運動部の声が風と共に入って来て、古田のノレンのように垂れ下がった前髪を微かに揺らしていた。


「すいません……。 では、私はこれで」


翔は踵を返して、職員室の方へ歩き出した。


「あの、数学で分からないところがあって、また今度教えてください……!」


「……。はい。私は職員室に居ない時は、大抵非常勤室にいるのでいつでも声をかけてください」


古田は少し笑ってまた歩き出した。


♢


「え、また告白されたの。 あいつも懲りないなぁ〜」


他の教員は皆帰ってしまって、非常勤室には古田のみが残されていた。

そこに、ズカズカと福島ふくしま 裕子ゆうこが自分の庭のように我が物顔で入ってくる。


「あなたも似たようなものでしょう」


古田の死んだ魚の目が、机の上の書類から裕子に流れる。


「はぁ!? 全然違うし、私は先生を好きなんじゃなくて、先生に私の魅力を気づかせたいの!」


裕子は頬を膨らまして怒り、それから豊満な胸を揺らして古田を誘惑した。


「はぁ、魅力ですか。 どちらかと言うと、あなたからは少し魔力のようなものを感じます」


古田は机の上の紙を整理している。

古田は身なりこそ大雑把だが、持ち物や自分のデスクなどは綺麗に整頓したり掃除をする質で、そのせいで非常勤室にはよく居残っている。


「だいたい、先生もちゃんと言わないからこうなるのよ」


曇天の下、フェンスの上を茶トラがしっぽを降って優雅に歩いていく。

どこからか現れた小学生が、フェンスを揺らしながら茶トラを追いかけていく。


「私は、きちんとお断りしてますよ。翔くんはああ見えてなかなか執念深いところがあるんですよ」


突然、扉がガラリと開く。


「あの、古田先生はおられますか」


その声の主は翔だった。


「あぁ、翔くん。 数学を教える約束ですね。そうですね……。問題を拝見させてもらっていいですか」


古田はデスクから離れて、真っ直ぐに翔の方へと歩いていく。


「その窓際に座っておられる方は、どなたですか」


裕子は自分を話題にされたことにギョッとした。


「二年三組の福島 裕子さんです」


古田は裕子を一瞥いちべつして、翔に彼女を紹介した。


非常勤室はどことなく灰色を呈していて、外では小雨が降っていた。


「どういう関係……ですか?」


翔は少しだけ緊張しているようだった。


「そうですね。 野良猫みたいなもんです。

ある日突然非常勤室にふらりと入ってきてそれからはほとんど毎日、これくらいの時間になると私が帰るまで居座るんです」


古田は困ったように微笑した。

途端に、裕子は椅子から立ち上がった。古いパイプ椅子から軋む音がして、非常勤室の灰色はより一層の緊張感を得た。


「付き合ってる」


裕子はその言葉の後に「私たち」と付け足して、楕円形のピンクの爪がついた細い指を、自分の下唇にあてた。


「えぇ、いきなり何を……」


「やっぱり」


悪い冗談だと苦笑しようとした古田の言葉よりも先に、確信しきったような翔の声がぽつりとこぼれ落ちた。

雨は本降りになって、雨粒を倉庫の屋根に打ち付けている。


「ならそう……、言ってくれれば良かったのに」


精一杯絞り出した声のように聞こえた。 顔は笑っているのに、瞳には大粒の涙を溜めている。まるで天気雨だ。


「さようなら」


翔は勢いよく扉を開け走り出した。 これ以上その場所に留まればきっと彼は泣き崩れていただろう。


「待ちなさい! 翔くん!

裕子さん、あなたはなんてことを! 冗談にしては極めて悪質過ぎます!」


翔の背中はどんどんと小さくなる。


裕子は不敵に笑い、ジト目になって意地悪そうに……というより、ほとんど悪魔のような表情で古田を見た。


「でも、先生。 迷惑がってたじゃないですか〜」


古田はいつもの冷静さを欠いている。

多感な時期の複雑な乙女心をたずさえた人間が、どのような行動を起こすかなどはわかったものではない。


「はやく行かないと、何するかわかったものではありませんよ」


「言われなくても行きますよ!」


翔の後を追って古田は走り出した。


♢


大雨の中、翔と古田は学校の屋上に立っていた。


「先生、言わなかったじゃないですか。 彼女がいるだなんて」


翔の声は蝋燭の灯火のように細く揺れていて、今にも消えてしまいそうだった。


「違います。 それは誤解なんです」


「うるさいッ!」


古田は一生懸命誤解をとこうとするが、解けるどころかもつれていく。


「じゃぁ、なんで付き合えないんですか。 僕が男だから無理なら、彼女がいるから無理ならそう言ってくださいよ!」


翔はフェンスを掴んで、まるで心の抑揚を表現するように、まるで感情に囚われた囚人のように揺らす。


「違うんです」


「何が!」


翔の叫び声は弾丸に古田を襲い、脳裏に発砲音のような声を響かせた。


「私だって……、私だって……、あなたが好きなんです!」


パーマのような癖のある髪は雨に濡れて潰れている。

震えていた唇から意を決して放たれた言葉はどこまでも真実の色を帯びていた。


「嘘だ!」


「嘘じゃない!」


伏し目がちな古田がほとんど訴えるような眼差しで翔を見つめる。 翔は思わず息を呑んだ。


「私は、あなたのそういう純粋で真っ直ぐで、なんの曇りもない快晴みたいな心や、友達に根気よく勉強を教えてやる優しい姿や、向日葵みたいにお日様ばかり見てカラカラと笑うその笑顔に、生まれて初めて恋をしました。」


翔はその言葉のどれひとつとして嘘だと思うことは出来なかった。


「なら、なんで……」


「私は……教師ですよ」


どこかで雷が落ちて、辺りが微かには煌めいた気がした。


「あなたは生徒で18で、私は教師で27です。 本当なら、私以外の人を探して欲しいところです」


古田はいつもの冷静さを取り戻していた。


「……」


雨が地面を打ち跳ねる。 二人の体はお互いにびしょ濡れで、翔の体に張り付いたシャツが波打つみたいに幾つものシワを作っている。


「卒業までーー」


古田がゆっくりと歩いて翔に近づく。 小さな水たまりを踏んでフェンスに近づいていく。


「卒業まで、待ってくれませんか。 もし、卒業しても思いが変わらなければ、その時はよろしくお願いします」


古田はフェンスの前で深々と頭を下げた。垂れた前髪から雫が落ちている。


「分かりました。先生」


雨が少し弱まると、急に太陽が顔を出し始めた。


「ありがとうございます」


古田が翔に笑いかけると、翔も同じように笑った。


そして、二人はびしょ濡れになったお互いを見てしばらく笑いあった。


「ちゃんと言わないからこうなるのよ。 想いは伝えないと」


屋上に繋がる扉の窓から一部始終を見ていた裕子は、独り言のようにそう言った。


雨はすっかりあがって、オレンジ色の空に綺麗な虹がかかっていた。


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