第3話
《ふん、面白くない。あいつはここに入ってこない。
近頃は、めっきり人が来ねえ。俺は人がいる方が楽しいのによ》
地蔵様から少し離れた森の入り口の奥で、黒い影がゆらゆらと揺れながら何かを呟いた。この暗い影は、森の中から出ることはできないようだった。
老体の男は、お地蔵様への詣でが済むと、道端の切り株に腰を下ろし、自前の水と孫嫁が作ったという団子をゆっくりと噛んで咀嚼した。最後にもう一度お地蔵様に手を合わせると、しばし森を眺め楽しむと、また来た道をしっかりとした歩みで杖をつきながら戻って行った。
《ああ、退屈だ。あいつは家に戻って孫達と仲良くするんだろう。
俺は…。俺はいつになったら家に戻れるんだ?
俺はいつからここにいるんだ?餓鬼ん子だったあいつは、もうとっくに年寄りになっているのに、俺は年を取らないのか?一体俺は何なんだ…》
暗い影の中でざわざわしながら思考が揺れていた。
《そうだ、あの親子が…》
暗い影の思考は、少し思い出したようだった。
◇◇◇
母と娘がこの村のはずれにある、今では廃墟となっている家に住み着いたのは、もうずいぶん昔のことだった。母親は、飲んで暴力を振るう亭主に愛想をつかし、娘とともに逃げだし、この村にいた唯一の親戚を頼って来たのだ。遠い親戚と言っても、この村では力のある家だったせいか、本当なら村の役人に新しい住人ができた際に行う報告もうやむやにしたまま、何とか二人は生活を始めることができたのだった。母は繕い物が上手であったし、娘は山からの恵みを拾って来ることができた。慎ましいながらも幸せな毎日を送ることが出来ていた。そう、あの飢饉が始まるまでは…。
それは、天候の不順から始まった。春になっても暖かい陽気に戻らない。6月になってからも雹が降ってくる。梅雨が長く、寒い日が続き、お天道様の顔を見ることが少なくなってしまっていた。青空にならないから鳥も鳴かない。雨が降り注ぐ期間が長かったせいか、この森の渓谷から流れる川の水量がいつもの何倍にも膨れ上がっていた。そして、また長雨が続き、とうとう村の近くで洪水が起きてしまった。作物は、日が差さないからひ弱だった。やっと育ったところを洪水で根こそぎ持っていかれ、何も残らなかった。冬は冬で暖かすぎて、梅や桜が咲いたり、この川で産卵する魚さえも季節を間違って登ってきてしまったりした。
夏が寒くても、冬が暖かすぎても穀物は育たない。ほんの少しの麦や野菜が育つ以外、米などポロポロした実が付くくらいで、食べられる代物にはならなかった。
こんな気候が3年も続く頃には、ほとんどの村が食べ物が無くなり、蓄えさえもすっかり、全く何もなくなって、途方にくれるばかりという状態となってしまった。
そうして食べ物がなくなった者達は、売れるものは何でも売った。もう売るものが無くなってしまった者達が考えたことは、人身売買と口減らしだった。
売れる人は売り、使えない人は殺していく。若くて労働力がある男女は高い値段で売られていき、子どもや老人は山から投げ捨てられていった。
どこの村でも同じようなやり方で、この飢饉をやり過ごそうと考えていた。
仕方がなかったのだ。
なんと無慈悲な行為であったろう。
だが、誰も口に出すことはなかった。自分の命すら明日が想像できない毎日だったのだから…。
◇◇◇
《あんなに食いもんが育たねー年も無かったな。まぁ、俺のうちは金があったから、どうでもいいけど…。
あー、あの親子の母親の方はとんでもなく綺麗な顔をしてたっけな。
飯も無くて、どんどんがりがりに瘦せてこけて…。
だから俺は、身売りをしねえか?って親切にも言ってやったんだ。
売られた金を娘の食いもんとかに使えばいいんだって…俺に預ければいいようにしてやる、俺に任せとけば万事上手くいく、俺を頼れば問題ない、俺に金を渡せば、娘の一人くらいは生き残れるように算段してやるって…。
俺の親父があいつら親子の家を世話してやったんだってことは、知っていたし、母親はおつむが少々弱いってことも分かっていた。何とか言い繕えば、まあ何とでもなるはずだった。
あの娘が居なければ…。
あの娘は、俺の嘘を見抜いていた。当たり前だ、母親を売った金は俺が貰うに決まっている。そんなの子どもになんざ渡すもんか。ふん。何が悪いってんだ?俺は俺のやりたいようにやっただけさ。
あの日は、もうすぐ冬が来るっていう頃合いなのに、お天道様はギラギラと照り付けて、イライラさせる陽気だったっけ。女を見受ける女郎屋の旦那の調子が悪くて、迎えも寄こさなねーから俺が連れていくことになっちまった。めんどくさいのは苦手だ。身売りの金を少しばかりちょろまかして渡したら、「これじゃ約束が違う」といつになく強気の女に腹が立って、どうせなら一発やっちまうかって思ったんだよな。女の手首を握って森の奥まで引っ張って行って、さぁって時にあの娘が俺の頭に石を投げつけた。痛てぇって頭を触ったたらぬるっとしたものが流れてきて…。あー、俺は血が苦手なんだよ。だから逆上して、組み敷かれていた女の首を絞めてやったんだ。案の定、娘が俺に体当たりしてきたから、娘をひっ捕まえて、殴ってやったんだ。女が股間を蹴らなかったら、俺はあの時娘を捕まえて、ボロボロの雑巾みたいに殴っておっぽろかしてやったのに…。
女と娘は手に手を取って森の奥まで逃げた。俺は、小さい頃から森を知っているから、回り込んで捕まえるなんて、へのかっぱさ。あいつらの先回りをしてとっ捕まえようとしたら、あの親子は谷に落ちたんだ。ふん。俺のせいじゃない。
親子が居なくなっても、不審に思う村の者はいなかった。当たり前だ。自分たちが食うことが最優先だったからな。村では、まるで食いもんが無くなっちまった。どうやっても、ダメだった。もう、売るもんもない。だから、食い扶持を減らすために、村の餓鬼どもが集められた。どうせ、餓死すんだから、ほっとけばいいのによ。わざわざ、どっかに捨てて来いってのもめんどくさいから、谷にほっぽる算段をしたんだっけ。泣きわめく嫁達を尻目に、俺たち男衆は餓鬼たちの手に縄をつけて、谷まで連れていった。投げ捨てるためだけに…。
餓鬼たちが泣きわめくから、鳥たちも大騒ぎに鳴いて煩かったのを覚えている。森がざわざわするから、猪が熊でも出たかと思って、男衆もちょっとビビッて森に迷いそうになった時に、死んだと思っていたあの娘が飛び出してきた。
あっという間だった。後ろから餓鬼たちの縄を切り、俺たちの背中には毛虫やらげじげじ、百足やらの虫がいっぱい入った袋を投げつけた。毒のある毛虫だったから、皆大騒ぎして逃げ出した。俺は、腹が立って近くにいた餓鬼を捕まえて、谷に放り投げたんだ。あー。そうか、思い出した。放り投げた餓鬼があの爺さんか。あ、それから、娘あ餓鬼が落ちるのを助けて、代わりに娘が谷に落ちて…。なんだ、俺は娘をきちんと始末したんじゃないか。じゃぁ、なんで俺はこんなとこにいるんだ?≫
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