15.主人
悲鳴が上がった。リュディガーの伸ばした腕はその中ほどから千切れ、その先は見えない。彼の腕から流れ出た血が橋の上に溜まっていく。
「バルツェットさん!」
いつのまにか彼が防御していた戦場の攻撃は全て元の状態に戻っていた。流れ弾を避けながら彼に駆け寄ったティリスの前に立ちはだかるものがいた。
「そう勝手なことをされると困るんだよ。だんちょーさん?」
漆黒の狼。それは白い煙に包まれたかと思うと細身で小柄な男が現れる。持っていたリュディガーの腕を投げ捨てると彼は口についた血を袖で拭った。
「なんてことを!」
「チェニェク……貴様……!」
「おや、ご主人様を呼び捨てかい? 偉くなったもんだなぁ。ええ?」
腕を押さえて蹲ったリュディガーを黒い髪の男が蹴り続ける。男の眼前にティリスの剣が迫った。
金属音が鳴って彼女の剣が弾かれる。チェニェクと呼ばれた男の破けた服の下には腕輪が見えた。銀色の金属で作られたそれには緑色の魔宝石が嵌め込まれていて、砦の灯りを反射しててらてらと輝く。
「あのなぁだんちょーさん。人の物は盗っちゃいけないって、ディクライットでは教わらないのか? ああ、教わるわけないか」
男の表情は歪んでいる。まだ成人して幾らも経っていないだろう彼の顔立ちにはまだ幼さが残っている。しかし、そこには似つかわしくない憎悪の感情が宿っていた。
「何人も、人を所有することなど許されません。今すぐバルツェットさんを……いいえ、この戦場で無意味に戦わされている全ての奴隷の皆さんを解放してください!」
「許す許さねえの話じゃねえんだよ、だんちょーさんよ。お前なんかに許されなくてもこいつは大枚を叩いて買った俺の奴隷だ。俺がこいつをどうしようと俺の勝手だ。なぁ、そうだろリュディガー」
「ぐっ……うう……いや、違う。俺は、一人の人間だ!」
リュディガーが心からの叫びと共にチェニェクに向かって突進した。体勢を崩した彼が転げる。
「この……仕置きが必要なようだな! 見てろよだんちょーさんよ。お前が五年前してくれたその作戦とやらで俺たちは沢山の所有物を失った。それで何も対策しないような馬鹿ではないのさ」
すごい形相のチェニェクは先程の腕輪の魔宝石に手をやる。緑色のそれが光り出すと呼応するようにリュディガーが叫び声を上げた。
彼は首の辺りを押さえると倒れ込んだ。そこには銀製の首輪がつけられており、その中心に嵌められた小さな魔宝石が光っている。
それは主人が奴隷を従わせるための枷だ。締め付ける首輪でリュディガーは息も絶え絶えだ。
「やめて下さい!」
剣を振ったティリスの刃はたしかにチェニェクを捉えていた。しかし、その剣筋が通ったのは白い煙の中だった。
「なっ……」
煙は黒い狼に変化すると彼女に突進した。体勢を崩したティリスに獣が馬乗りになり、涎が垂れる。再び煙に包まれた男は、彼女の喉元にナイフを突きつけていた。
「剣聖だか何だか知らねえが、狼との戦い方は下手くそなようだな。終わりだだんちょーさん。お前みたいなきれーな顔の人間がこの世から一人消えるのは少し惜しい気もするが、その綺麗事がまだ言えるうちに殺してやる」
男の顔は勝ち誇っていた。ティリスは真っ直ぐ彼を見つめる。何故彼はこのようになってしまったのか。大切な物や、守りたい者はないのだろうか。
命の飛沫が飛び交っていた。魔法が宙を舞い、金属の音が辺りに響き渡っていて戦いのリズムを刻んでいる。ああ、私にはまだ、守りたいものが沢山あるのにな。
空は白み始めていた。朝の鳥達の声も聞こえないほどのその戦場で、ティリスは静かに、目を閉じた。
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