2.気づいた恐怖
悠は血を浴びてぼんやりとした視界の中でまだ意識を保っていた。血がどくどくと脈打つ感覚だけが続いている。痛みはあまり感じない。
こんなとこで死ぬのかな。突然危険な世界に飛ばされて、何にもできないまんまで。ああ、やだな。風は、逃げ切れるかな。こんなところで一緒に死ぬなんて。ああでも風が一緒ならどうせずっとうるさいんだろうし、別に死んでも寂しくないか。
その時、悠はようやく自分の体が魔物の牙から解放されていることに気づいた。悠の前に立ちはだかった若葉色の髪の青年は青い刀身の剣を引き抜いてそれに氷の魔法を込めた。柄から剣先にゆっくりと氷が伝わっていき、それが進むごとに冷気で煌めいていく。
この世界に来てから見たものの中で、一番美しい魔法だった。ああ、僕もあんな風に魔法が使えたらあるいは……でもこれで風は大丈夫……。ようやくそこで、悠の意識は途切れたのだ。
血塗れの悠を風が肩を担いでやっとの思いで街門まで連れて戻ると、傍を通った街の人間が悲鳴をあげた。不運なその人に手を借りてやっとの思いで結衣菜たちがいる宿屋まで辿り着いた。
「結衣菜ちゃん、結衣菜ちゃん! 大変なの、お願い早く開けて!」
部屋の扉を叩くと、何事と大人たちが扉を開ける。真っ先に出てきた結衣菜が青い顔をして悲鳴を上げた。背後からチッタとガクも顔を出し、顔色を変えた。
「風!」
「ユウは傷だらけじゃないか! 何があったんだ!」
「とにかく運び込もう。俺が見るよ」
ぐったりとした悠は大人たちによって部屋の中へと運び込まれていく。ここまで必死に連れてきた彼を引き渡すと風はその場に崩れ落ちて泣き出した。
「あたし……あたしのせいなの。街の外で子供が魔物に追いかけられてて、悠を焚きつけて助けに行こうとしたの。あたしのせいで悠が……もうやだ。今までたくさん、我慢してきたの。アシッド村でついさっきまで生きてたバッシュが急に死んじゃったなんて言われたの、すごく怖かった。あんな強くない魔物だって、あたしには倒せなくて、そのせいで悠が死にかけてる。こんなに怖い世界だなんて思ってなかった。帰りたい。結衣菜ちゃん、おうちに帰りたいよ……!」
風はどうしようもないほどに打ちのめされていた。涙は溢れ出る泉のように溢れている。風だって足に怪我をして血塗れなのにどうにかここまで戻ってきた。部屋の向こうではガクが悠の傷を治している。きっとよくなるだろう。
けれど、そういう問題ではない。どうしようも無く、怖くなってしまったのだ。またふとした時に不注意で大怪我を負ったら? その時さっきの様に助けてくれる人がいるとは限らない。深い傷を治せる者がいるとも限らない。そうしたら本当に、死んでしまうのだ。
元の世界は時折物騒な話も聞くが、基本的には平和な世界だった。家族が目の前で急に殺される、そんな心配はせずに生きられる世界だった。
毎日同じような時間に起きて朝ごはんを食べて活動する、帰ってきたら暖かいお風呂に入って、ふかふかの布団で眠る。そんな当たり前の毎日がどんなに恵まれていたことか。つまらないと思っていたそんな生活も、今なら本当に幸せだったと、そう思える。
お母さんにも、お父さんにも、ペットのオウムにも。何もいえないで来てしまった。友達にも会いたい。それに、元の世界では叶えたい夢があったのだ。それも全て、この世界では叶えることはできないものだ。
もしこの世界で死んでしまったら、どうなるのだろうか。元の世界にいる人たちは、それを知ることはできないだろう。きっと行方不明のまま。そのままみんなに忘れられていくのだ。
この世界の何もかもが、怖くて仕方なくなってしまった。恐ろしい魔物も、当たり前のように命を賭して戦う人々も。自分がそんな世界に突然放り出されてしまったことも。
風の涙は嗚咽を伴い、結衣菜はそれを抱きしめた。自分は感じたことのないその絶望感は、アシッドで彼らに味合わせたくないと思った恐怖そのものだ。彼女にその重荷を背負わせてしまった自分の不甲斐なさを後悔する。
──そして風は夜通し泣き続けた後、宿屋の一室から出てこなくなった。
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