18.目標と仰ぐその人
地面にこぼれ落ちる涙。
派手に殴り飛ばされた男。
走り去る女。
何が起こっているのかわからなかった。殴られた男はただ地面を見つめている。彼を殴った男は馬乗りになって胸ぐらを掴む。そして彼の表情を見て固まった。
「なんでお前が泣いて……」
その男の透き通った青色の瞳は揺れて、涙がこぼれ落ちていった。
どうしてこんなことになったんだろう。
桜色の髪の青年は立ち尽くしていた。目の前には自分が最も会いたかった、最も尊敬する人がいた。
しかし、今のその人は自分が尊敬する彼の姿ではなかった。なぜ、どうして。
思考が鈍る。白濁した意識の中で、エインはこれまでの出来事を反芻していった。
エイン・メルヴィルには秘密があった。それは彼が彼の最も尊敬する男と交わした約束だ。
──僕がいない間、エインがティリスのことを守ってほしい。
そんな、呪いのような約束だった。
エインにとってその人は魔法剣士を目指すきっかけになった人物だった。彼がまだ学生だった時分のことだ、騎士団員が実際の仕事や演習を一緒にしてくれる、そんな機会があった。
その時に出会ったのがディラン・スターリンという男だった。寡黙で人当たりがいいわけではないが、とりわけ目立っていた団員だった。彼は優秀な魔法剣士だったのだ。
元々エインは剣士志望だった。魔法は苦手で、そちらを目指すつもりはなかった。しかし、見てしまったのだ。
とても美しい魔法だった。剣の先に伝わる冷気。それは真っ直ぐ、されど繊細に刃を覆い尽くし、振るたびにキラキラと氷の結晶が舞った。
手合わせ中でもそれは崩れず、そればかりか剣への魔法を保ったまま別の魔法を繰り出したりということもあった。天才とはこういう人のことだ。そうおもった。自分とは違う。そう理解していたのに、ひどく憧れてしまったのだ。
「僕、ぜったい魔法剣士になります! だから、魔法剣士になって騎士団に入れたら、僕を部下にしてくださいね!」
「部下にするかなんて僕は決めれないんだけど……」
勢いで言った彼の言葉を聞いて、その男は半分呆れたような顔をしていた。けれど去り際に一言。彼は少しだけ微笑んで、待ってるよと言ってくれたのだ。
それはエインにとって最も欲しかった言葉だった。だからこそ思いつく限りの努力をして、魔法剣士になった。そして、彼に再会したのだ。
それからは彼の力になれそうなことならなんでもした。少しでも憧れた先輩に近づきたくて、何事も懸命に。
騎士団に入ってから、憧れていた彼は自分が思うような天才ではないことを知った。剣技はエインの方が得意なぐらいで、他にも薬作りや魔物との実戦など彼が苦手なことはたくさんあった。けれど彼はそれが欠点にならないくらい類い稀ない努力を重ねていたのだ。
だからこそさらに彼への憧れは強くなっていった。将来の目標そのものが明確に存在しているのは、エインにとって幸福なことだった。
彼と一緒にいるようになって、自然とティリスともよく顔を合わせるようになった。その親友であるアメリアとも会話することが多く、やがて恋人となった。けれどそれをディランに伝えることはできていない。
夏に婚約もした。しかし自分の最も尊敬する人は愛する人を救うために全てを投げ打って孤独に耐えながら旅を続けているのに、それを知っている自分だけが簡単に幸せになっていいものだろうかいう気持ちがよぎる。きっと、先輩なら真っ先に祝福してくれる。そう分かってはいるのに。
彼は時間がないと言っていた。ティリスの呪いは九年という長い時間をかけて、彼女の髪が紫色に染まり切った時に発動するものだという。九とは魔法の最大数字で、それを基準にさまざまな構成を考える。
それ故、確実な効果を狙うためにかけられた呪いなのだと、そう言っていた。その九年の期限は迫っているのだ。そして、その呪いをかけたのは薔薇の魔女だと、ティリスの呪いを解くためには魔女を殺すしかない。ディランはそこまで掴んでいた。
不定期的に彼と連絡を取っていたエインはそのことを知っていて、ついこの間不意に呼ばれていったアシッドの村でたまたま薔薇の魔女の痕跡を掴んだのだ。
その痕跡を元に魔女の居場所を探知する魔法をかけた。魔女の痕跡には探知に反応して術者を傷つける魔法がかけてあったがそれでエインが諦めることはなかった。
燃え広がった炎は腕に火傷の痕を残し、それは癒しの魔法をかけても消えなかった。そうした犠牲を払って彼はようやく手がかりを手に入れたのだ。
そうだ。そうだった。僕はこの時のために、先輩が一人でやるはずの使命に余計な手助けをすることを決めたのだ。自分が最も尊敬する男と、彼が最も愛する女性を守るために。
エインはゆっくりと歩き出した。ディランに追い打ちをかけるように殴りかかるチッタを引き剥がす。
「なんでだよ! こいつティリスに酷いこと言ったんだぞ! お前だってティリスがどんな……」
「訳があるんです。一旦落ち着いてください」
チッタはまだ文句を言っていたがガクがなだめて連れて行く。エインはようやく解放されたその人に向かって笑いかけたのだった。
「お待たせしました、先輩」
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