14.忘れられぬ思い

──その人は、彼女にとって唯一の人だった。


 立派な家の敷地内で、斬撃音が響く。剣を振るう少女は群青色の髪を振り乱して、目標となる魔法を斬り続けている。

「エーフビィ・アイジィ」

 魔法を繰り出すのは若葉色の髪をつんと跳ねさせた少年だ。彼の掌から発生した冷気は指先へと伝うとティリスの足に向かって飛んでいく。

 ティリスはそれを飛び退いて避けると次に向かってきた氷の塊を下から斬りあげる。斬られた氷はキラキラと輝きながら拡散する。

 いつからそうしていただろうか。彼らの息が上がりきった頃、家の扉から美しい女性が顔を覗かせた。

「ディラン、ティリス。その辺にして休憩にしましょう。スコーンを焼いたの。グランベリーのジャム付き。どうかしら?」

「シャンテルおばさん! おばさんのお菓子久しぶりだ! ディラン、早く行こ!」

 ぱぁっと顔を輝かせた少女は少年の手を取って駆けて行く。その弾けるような笑顔に釣られて笑顔になった少年を見て、その母親も穏やかに目を細めた。

 それは名もなき幸福の一節。少女はうら若き乙女へと、少年は前途有望な青年へと成長する。美しい旋律で紡がれる恋歌はどこまでも伸びやかに謳われる。彼女と彼はいつしか結ばれ、二人は婚姻の契りを交わす約束をしたのだった。





 スターリン家の墓が並んでいる一角。その中の一つの墓石の前に足を止める。雪がうっすらと積もっているがかろうじて読むことができるそれに、彼女は白い花を供える。雪に混じった白は純粋だ。

「ディラン。もうすぐ、あなたがいなくなってから九年よ」

 騎士団長であり剣聖であるティリス・バスティード。けれど今の彼女はただのティリスだ。武器を持たないその女性は何も語らない冷たい石に向かって独り言つ。その目は涙で濡れていた。

 ディラン・スターリン。それはかつてティリスの婚約者だった男の名だ。彼は九年前、彼女との婚姻の儀の直前に姿を消した。ディクライット国王、クラウディウスの勅命で任務へと出たのだ。そして、そのまま戻らなかった。

 ティリスが花を手向けた墓の下には彼の遺体とものが眠っている。彼女はそれが彼本人でないことを知っていた。

 彼が死んだなんて、どうしても信じられなかった。だから調べたのだ。彼はどこへ向かったのか、陛下はどんな任務を彼に託したのか。そして彼女はその遺体が偽物であることを知った。

 失踪する前の日の夜、彼はディクライットの城下町を見て泣いていた。思えばあの時にもう、彼は自分がこれから死んだことになるということを知っていたのだ。

 しかし、ティリスがそれを知ったとしても、表向きの事実は変わらない。ディラン・スターリンは死んだ。勅命を出した王に真実を問おうとした折にはティリスは東方調査を命じられた。それは暗に詮索するなということだった。

 だからこそ長い旅の調査から戻った後、彼女は彼について調べることはしなかった。ただ、信じることにしたのだ。いつか、その任務を終えて彼は帰ってくるのだ、と。

 しかし、その偽物の墓に足繁く通ってしまうのは彼への未練ゆえか、それとももう諦めてしまいたいという気持ちのあらわれか。

 彼との婚約がなくなってから、何年か経つと婚姻を申し込むものも多くなった。中には友人からの勧めや騎士団からの紹介もあった。その全てを断り続けて今に至る。

 もとから騎士団員は婚期が遅い。騎士団の女子の多くは家族から猛反対をされてきた者がほとんどだ。ディクライットではもう、完全に行き遅れの部類だ。

 ふと、背後から足音が聞こえて振り向くと、見知った顔の青年が立っていた。桜色の髪が風に揺れる。

「エイン、きてくれたのね」

「ええ。僕も彼を思う一人です」

 エインはティリスが手向けた花を一瞥するとその墓に積もった雪を払う。その青い瞳はどこか遠くを見つめている。

「その腕、どうしたの?」

「あっこれ、なんでもないですよ」

 エインは焼け爛れた腕をさっと隠すと、誤魔化すように笑顔を見せた。彼はいつも笑顔だが、時折その笑顔に影が刺す。ティリスにとってそれは長年の心配事のひとつだ。

「なんでもって……癒魔法は?」

「あは、お湯こぼしちゃって……僕は得意じゃないですし、そんなことに人を呼べないでしょう?」

「アメリアが心配するでしょう?」

「大丈夫ですよーっもう痛くないですし!」

 元気な声を出したエインの目はまだ遠くを見つめている。その姿が最後に見たディランの姿に重なって、ティリスは目を伏せた。

「……あれから、たくさんのことがありましたね」

 エインが言うのはこの九年のことだ。環境や人が変わるのには十分すぎる時間に、ティリスやエインも変化を受け入れてきたのだ。

「ティリスさんが剣聖になった試合、本当に凄かったですよね。覚えてます?」

「ええ、よく。母は全力を出してた。今まで見たことがないほど鋭い母の剣筋。それが最も印象的だったわ」

 この世界に剣聖はまだ二人しかいない。唯一無二の剣の使い手とされ、国王から剣聖の称号を受けたティリスの母、フィリスはその年から始まったディクライットの剣舞祭の立役者だ。

 剣技を競うその大会で優勝したものは剣聖と戦う権利を得る。そして勝つことができればその者が次の代の剣聖となるのだ。しかし、剣舞祭が始まってから二十年余、その剣聖の座を勝ち取るものはいなかった。その娘であるティリスが勝利するまでは。

「ほんとにかっこよかったなぁ。ディラン先輩にも見せてあげたかったです」

「そうね、でも……」

「でも?」

「結婚してたらお母さんを越えようなんて、思いもしなかったかも」

「あっごめんなさい、僕……」

「ううん。あったかもしれない未来を考えても仕方ないなって。それより、今この時手にしているものを大事にするべきじゃない?」

「そうですね、ティリスさんは騎士団長ですし、剣聖だし……」

 呟いたエインを見てくすくすと笑うティリスに、彼は首を傾げた。心底不思議そうなエインを見てティリスは目を細めた。

「そういうことじゃないのよ。アメリアのこと。ちゃんと大事にしてね。私の親友なんだから」

「え! あっはい! とっても大事にしてます!」

 目を丸くして元気な返事をする彼を見て、ティリスはまた鈴のような笑い声を返す。

「ふふ、私はね。これはひとりのティリスとしての考えなのだけど。エインやアメリア、騎士団のみんながとっても大切なの。だからこそみんなといられるこの時間がとっても大事」

「ティリスさん……」

 どこかで木に積もった雪が落ちた音がした。エインは手を握りしめてティリスを見つめる。その瞳は真っ直ぐで、何か決意を帯びていた。

「僕も騎士団のみんなやアメリア、ティリスさんのことがとってもとっても大事です。今のこの幸せは大事にします。でも、未来の幸せもあるんだってこと、僕が絶対絶対、証明して見せますからね!」

 風が吹く。冬のディクライットの風は冷たさを伴ってティリスの髪を撫でていく。紫色の髪を手で押さえた彼女は自分を真っ直ぐ見つめる青年の言葉を聞いて、悲しそうに微笑んだ。

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