6.アシッド村の村長
焼け落ちた家々、残る炭の匂い、舞い散る煤。
かつて美しかった村はそこにはない。スピィエンという男は、再び全てを失った。
約三十年前、当時齢七だった少年スピィエンはまだ、ただの村長の息子だった。
なんの変哲もない村、アシッドで生まれ育った彼は何不自由もなく健やかに育っていた。村で生活していくにあたって手伝わなければならないことも少しずつできるようになっている頃だった。
歳の離れた兄がいる彼にとっては村長という身分は遠い話で、いずれ自分はこの村でひっそりとその生涯を終えるんだなと考えていた。
しかし、変化とはいつも突然に訪れるものだ。
隣国シェーンルグドの侵攻は止まるところを知らず、ついにアシッドの近くまでその魔の手が及ぶこととなった。
銀髪の種族のその圧倒的な力に怯えながらも、若者達は戦場へと駆り出されてそのほとんどが戻ってこなかった。全ては故郷の村を守るため、そのために皆その命を散らした。
兄が死んだという知らせを聞いたのはその戦いの最中だ。兄はクワィアンチャー族が操る精霊の炎で焼き殺されたらしい。それを伝えてくれた村人の怯えようは凄まじかった。
それからまもなく戦は終わった。シェーンルグドは内側から崩壊し、その機会をついた周りの国々の連合軍によってクワィアンチャーの者は一人残らず殲滅されたという。
まだ葬儀も終わっていない時のことだ。お前が次の村長だと父に告げられた。急にのしかかった重圧はまだ成人もしていない少年にとっては実感が湧かないものだった。
しかし、二つ下の妹はまだ幼く、他に親戚もいないこと、村長は必ず血を継いだ男児がなることをスピィエンは知っていた。自分しかいないのだ。だからこそ、村長と呼ぶにふさわしい振る舞いができるよう、努力した。
戦争で減ってしまった村の男の数を補うように力仕事や村の近くに現れた魔物の退治を請け負い、行商が来れば交渉だって進んでやった。食糧の備蓄の管理もし、ディクライットの城下町から妻も迎えた。村を続けていくためには血を繋がなければならないから。そうやって全てを村のために捧げてきたのだ。
そしてある日、その悪魔が村にやってきた。
それはそれは美しい子供だった。星屑色の髪に琥珀色の瞳。どんなものでも虜にするような、そんな美しい生き物だった。
──それが自分の兄を殺した種族でなければ。
彼は妻のシェリルが連れてきた。酷い目にあって自死を選んだところを彼女が止めたのだという。
子供だというので最初は少し同情もした。妻のことは自分で決めた。それは城下町で子供に優しく話しかけるのを見たのがきっかけだった。だからスピィエンは妻のために村人達の反対を押し切って、彼女がその子供を家に置くことを許してしまったのだ。
彼女はガクというその少年を甲斐甲斐しく世話をした。酷くうなされるからと彼の同意を得て辛い記憶は消すことにしたと言っていた。程なくして彼女のディクライット時代の友人がやってきて、その魔法は施された。
辛い記憶も無くしたのだ。元気になればそのうち村を出ていくだろう。クワィアンチャー族と言えどまだ子供だ。何かできるわけでもない。そういう考えだった。
実際彼は何もできなかった。しかし、彼のせいでスピィエンの妹は死んだのだ。
ガクが来てからというもの、村人の中でも酷く怯えるものがいた。その一人が妹と一緒になった男だった。彼は兄が殺された時、たまたま居合わせていた男で、ある日突然、悪魔がいる村になど住んではいられないと言って失踪してしまった。妹が子供を身籠っていることがわかったのは、そのすぐ後のことだった。
そうして妹は一人で子供を生んだ。そしてその出産の後、すぐに命を落としてしまったのだ。スピィエンは夫がいなくなってしまって支えるものがいなかったからだと考えていた。生まれてきたその子に両親がいないことも、全て銀髪の美しい悪魔のせいだった。
その頃からスピィエンはガクに辛く当たるようになった。妻のシェリルは彼を庇うので彼女との関係も悪くなっていった。夫婦の仲が悪くなるのを見て、ガクは自ら家の隣の物置に住むようになった。
彼女を取り戻したくて、縋るように子供を設けた。息子のアンが生まれたが村のことで忙しいスピィエンは家を空けることが多く、その間はガクがシェリルを手伝って子供の世話をしているようだった。
少し経ってシェリルが今度は娘のチュンを身籠ってからは、ほとんどガクが子供の世話をしている状態だった。スピィエンは家にガクがいることを嫌い、暴力を振るうようになった。
彼は絶対にやり返してこなかった。痣が出来て鼻血が出ても、泣くこともなかった。まだほんの子供なのに何かを悟っているようで、それが酷く気持ち悪かった。しかし、自分がやっていることの罪深さもスピィエンはわかっていて、それがさらに彼への憎悪を助長した。
そして、息子のアンが初めて呼んだ名前がガクだったその時、彼の中で何かがぷつんと音を立てて切れたのだ。
気がつくともう、目の前の銀髪の子供はボロボロだった。ああ、あと数回殴ればきっとこいつは死ぬのだろう。そうすれば、そうすればこんな惨めな思いをすることもなくなる。もうこの悪魔達に振り回されることもなくなる。そう思って拳を振りかぶった。自分の手は血に濡れていた。
その時、間に割り込んだものがいた。生まれたばかりの子を抱いた妻だった。振り下ろす拳を止めるのは間に合わない。そう思った瞬間、黒い何かが手に纏わりついて、その動きを止めた。
それはガクの影から現れていた、というより影そのものだった。少年の瞳は血のように真っ赤に染まっていて、冷たい美しさがそこには宿っていた。
やはり、人間ではなかった。兄のように自分も殺される。他の全てを考える前にスピィエンは家を飛び出していた。妻のことも子供のことも、村のことも、もう何もかも、どうでもよかった。ただ彼を突き動かすのは純粋な恐怖で、妹を置いて逃げたあの男のように、村を出て別の街へと移り住んだ。
そうして彼は一度、全てを失ったのだ。
しばらくの間、ディクライットの付近で傭兵のような仕事をして暮らしていた。たまたまアシッドの近くの依頼をこなしていた時、かつての村人に会ってあの少年は村からいなくなったということを聞いた。男手が足りないと懇願する村人の押しに負け、村へと戻ることにしたのだ。
村に戻ったが、かつての妻と子供と一緒に暮らすことはなかった。妻は戻ってきて欲しいと言ったが、二人の子供がそれを拒絶したのだ。自分達を置いて逃げた男など、父親ではない。そう言われた。
だから元々暮らしていた村長の家へと戻った。程なくして村長は病に臥し、やがてその生涯を終えた。スピィエンが村長となったのはそのすぐ後のことだ。
亡くなった元村長は妹の忘れ形見である孫娘をとても大切にしていた。だからこそ、スピィエンは彼女のことを必死で育てた。村の子供は三人しかいないが、どうしてもアンとチュンの二人と遊ぶことだけは許すことはできなかった。
村を守るために必死だった。
若い男も子供も少ない村を立て直すためにたった一人で奔走した。労働力として別の街の人間を呼んで、質素ながら衣食住を補償した。そうすることで人を増やした。目的があって訪れた旅人に、情報を得たいなら魔物除けをつけろという不親切な条件をふっかけたりもした。それも全て村を守るためだ。
そうしてなんとか繋ぎ止めていた彼の全てであった村は、一晩のうちにただの灰と化してしまったのだった。
「何故だ、何故俺から全て奪う! 俺にはもう村しかないのに!」
スピィエンは気がついたら掴みかかっていた。かつて少年だった彼はひと目見た瞬間硬直してしまうほど美しい青年へと成長していて、その琥珀色の瞳は真っ直ぐだ。村の人々を魔物から救ってくれた彼に、村が失われた責任など、微塵もないことは明らかだった。
自分よりはるか高く背が伸びたその青年ははじっとスピィエンを見つめている。銀髪の悪魔が何を考えているのか、憎悪を伴った彼にはわからなかった。
こいつさえいなければ。スピィエンがあの時のように拳を振り上げたその瞬間、別の拳が彼の頬を殴っていた。
ーー痛み。
「いい加減にしろ!」
目に涙を浮かべながら叫んだのは黄色い髪に青い瞳。かつての息子、アンだった。
「ガク兄は俺達を救ってくれた! チュンもチャチャも、お前も、村の人たちも! なのになんで……チャチャが誘拐された時だってガク兄は助けてくれたんだ! ガク兄はずっと優しくて……そしてお前なんかよりずっと強い心をもってる! 俺は……俺は!」
「うるさい! こいつが、こいつの種族さえいなければ兄さんも妹も死なずに済んだ! お前もだ! こいつさえいなければお前も……」
スピィエンに胸ぐらを掴まれるとアンは掴み返した。その目は自分が妻として迎えた女性によく似ていて、スピィエンは掴んだ手から諦めたように力を抜いた。アンは意外そうな顔をして立ち尽くす。
何もできない子供だと思っていた。しかしそこに立っているのは成人したばかりの若者だ。スピィエンが村のために一番大事にしなければと思っていたものは、目の前にいたのだ。そして自分はそれに拒絶されていた。それはこれまでの自分の行いのせいだ。
「……殴ればいい。お前にはその権利がある」
結局、自分は村を守れなかったのだ。良かれと思ってしたことは全て裏目に出て、何もかもがうまく行かなかった。失敗したのだ。だからもうどうでもいい。そう思った。
アンはスピィエンをじっと見つめると振り返った。彼はそれ以上何も言わずに去っていく。
「あっ……」
伸ばした手はアンには届かなかった。どこ、どこで間違ったのだろうか。もし兄が殺されなかったら、ガクがここに転がり込んでこなければ、妹が死ななければ、妻が自分のことを優先していれば、アンが自分のことを先に父と呼んでくれていれば。
思い返せば自分のことばかり。地面にはシミができていた。焼き払われた村の長だった男は嗚咽を漏らし、そのまましばらくの間、泣き伏せっていたのだった。
村人達と話し合った結果、村を立て直すにしろなんにしろ、ディクライットへと向かうこととなった。移動は夜が明けてからということで今は皆村長の家の近くに集まっている。
アンが実の父親である村長スピィエンを殴り飛ばしてからというもの、ガク達に礼を言いにくるものがちらほらといた。
皆クワィアンチャーへの恐怖心はあれど、助けてもらった事実を受け入れているものもいるのだ。行動は言葉よりも本心を示す。同じ村に住んでいると言っても、危険を冒してまで村人を助けようとした姿を見て考えることは人それぞれだ。
──そうして、彼らの長い夜が始まる。
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