5.アルバート

 アルバート・マーシャル=ホール・ロバーツ・ディクライットは、その日も苛立ちを隠さず、私室を出た。

 とにかく、腹が立って仕方がない。

 長いマントを靡かせて城の廊下を歩いても皆恭しく挨拶をするのみで、実際何か関わろうとすると自分のことを腫れ物のように扱ってくる。

 それもそのはず、毎日のように訓練や勉強をせずに城内をうろつき周りに文句を言ったりしている彼を好ましく思っている者などいなかった。

 唯一、騎士団長であるティリスは自分のことを気にかけてくれているというのはわかっているが、その優しさや自分を叱責する毅然とした態度も全て王への忠誠によるものだと思うと、どうしても彼女に辛く当たってしまうのだった。

 確かに自分が次期国王候補として現王クラウディウスの養子になることが決まった時には、嬉しさと、そして期待もあった。

 王家と血の繋がりがあるロバーツ家。アルバートは三男で、優秀な兄が二人もいるのに何故自分が選ばれたのかという疑問もあったが、初めの頃は懸命に王になるための勉強や訓練に勤しんでいたのだ。

しかしある日城内での噂話を耳にしてしまったのが彼の意識に棘となって刺さり続けている。

 ──『王が本当に養子として迎えたかったのは別の男なのだ』と。

 その男の名はアルバートも聞いたことがあった。

 かなりの遠縁であるが王家と血の繋がりがある彼は、幼い頃から王と親しくしており、騎士団でも優秀な魔法剣士だったという。そして現騎士団長のティリスの婚約者でもあった彼は、その婚姻の儀の直前、忽然と行方をくらませたのだった。

 本来ならティリスを妻として迎えた彼を名実ともにディクライットの王子として、そして次期国王として迎えるのが王の望みだったのだろうと思う。

 自分を見つめる王の優しい瞳の奥には、本当の息子のように可愛がられていたというその男が映っているような気がしてならなかった。

 自分がその男の代わりに養子として選ばれたのだと悟った彼は、その日から真面目に鍛錬に励むことをやめたのだった。

 どうせ自分にも代わりがいる、そしてどんなに努力したとしても、本当に王が欲しかった彼に自分は敵わないのだ。

 何か面白いことはないだろうか、と廊下を歩いていたアルバートは、ふとティリスが連れてきた客人のことを思い出す。

 この国では見られない変わった格好をしていたあの三人はきっと異国の人間だ。

 その日の馬術の時間の暇つぶし先を決めた彼は、ゆっくりと廊下の先を歩いていく。

 朝日が差し込む廊下に、革靴の足音だけが彼を追いかけていった。




 出された朝食で人心地着いたあと、結衣菜はティリスに呼ばれて彼女の執務室を訪れていた。

 彼女は机に山積みになっていた紙束の中から一枚の羊皮紙を取り出して結衣菜に手渡す。

 それは結衣菜の雇用契約書と言ったもので、待遇や期間がずらっと並べられている。

「わぁ……こんなにちゃんとしたの想像してなかった」

 この世界ではどこの国であっても言葉も通じれば文字も読むことができる。かつて力の強い魔導師たちが魔法によって言語を統一したと言うのがこの世界での伝承だが、それは異世界からきた結衣菜たちにも当てはまる。

 どう言う仕組みなのかは未だ解明はされていないが、おそらくこの世界全域の人間の感覚機関に影響を与えて、文字や言葉を受容する際に自動的に翻訳されるようになっているんだろうとのことだった。

 バイトの契約みたいだなぁと漏らしながら眺めていく結衣菜に、バイト? とティリスが首を傾げる。言葉は通じるとは言っても結衣菜たちの世界での名詞などはそのまま変換されずに伝わるらしく、かつて彼女と旅をしたときにはたくさん質問をされたものだった。

 業務内容の欄に目を止めた結衣菜は魔宝石への魔力注入という一文を見て口を開く。

「魔宝石への、魔力注入?」

「ええ。大まかに書面の中身を説明するわ。期間は結衣菜たちがここを出るまで。人手が足りない状況だから、普段よりは高めに謝礼を見積もっているけれど、本当にここから滞在費を引いてしまっていいの? 三人分だとあまり残らないのだけれど……」

 ティリスは何故か申し訳なさそうにしているが、そのために働くって言い出したのだから、と結衣菜は頷いた。

「これって、使いすぎて魔力がなくなっちゃったりした魔宝石に魔力を込めるってことだよね。私が前きた時に使ってたやつはそんなことなかったんだけど、空になっちゃうことなんてあるの?」

「そうね。以前なら滅多にないことだったのだけれど、激しい戦闘で魔力を消耗することへの対策で騎士団では魔宝石を魔力源とする方法を実践で使い始めているの。闇の魔物との戦いでは複数人で魔法を使うことも多くて、そうしていると魔宝石から魔力が失われてしまったりするのよ。魔力を集めやすい石だから、時間経過で回復はするのだけれど、それじゃ間に合わないほどになってきていて。だから、魔導師たちが身に付けるための魔宝石に直接魔力を溜める仕事に需要があるの。戦闘能力を必要としないし、これならユイナも気軽にできると思うのよ」

「そっか。それなら私にもできそう!」

「よかった! あ、あと、もう一つあって。これとは別だし、もしユイナの意にそぐわなければ断って欲しいのだけれど……」

 遠慮がちに言葉を切ったティリスにユイナは首を傾げた。

「アルバート王子に、魔法を教えて欲しくって……」

「王子に魔法を、教える? 私が?」

 半ば悲鳴のような声をあげる結衣菜を見て困ったように眉を寄せて微笑むと、ティリスは執務室の椅子に腰掛ける。彼女は一つに束ねた美しい髪を慣れた手つきで体の前に垂らし、そして再び口を開いた。

「ええ、同じくディクライットに滞在する期間だけでいいの。王子は人並み以上に理解はできるのだけれど、どうにも魔法をうまく発動できないみたいで、そこでつまづいてやる気をなくしているかもって魔導部隊長から言われててね。私は魔法は得意ではないし、魔導部隊もしばらくは近隣の闇の魔物の討伐にかかりっきりだから、もしかしたら何かヒントを与えてもらえるかなって」

「とは言っても……私もまだ戻ってきたばかりだし、魔法も……そううまく教えられるか……」

 不安の色を隠せない結衣菜に、ティリスは続けた。

「エインからポルシャンとの戦いぶりは聞いているから、技術面では大丈夫。それに、私よりもユイナの方が歳が近いから、王子も話しやすいと思うの」

「なるほど……」

 この城の中だと王子は他の人間とうまくいっていないのだろう。城の外から来た結衣菜にそれを託そうと言うティリスの考えはあながち間違っていないように感じる。外の世界からきた異物は刺激そのものなのだ。

「うーん、自信はないけど……でも、やるだけやってみてもいいかな?」

「ほんと? ありがとう! それじゃあ契約書を書き換えないと。えっと……」

 結衣菜から先程の契約書を受け取るとティリスは何やら小さな魔宝石がついた羽ペンでサラサラと文字を書いていく。整った美しい字が並び終わると、線を引かれて訂正された箇所が小さくなっていた。

 あのペンがあれば原稿を書くの楽になるだろうななどと考えていた結衣菜は差し出された契約書を見て我に帰る。

「はい、できた。確認して大丈夫だったら署名をもらえる?」

 いつもやっているのだろう、流れるような手捌きで書面を戻したティリスに渡された紙を確認すると結衣菜は気になった箇所を指差した。

「これ、報酬が上がっている気がするんだけど……」

「王子の件の追加報酬。明日からよろしくね、ユイナ」

 そうさらっと言った彼女の笑顔とは反対に、先程の業務の二倍ほどの報酬が追加された紙を見て、結衣菜は息をつまらせる。

 これはまずい仕事を引き受けてしまったかもしれない……そう思いながらもティリスの笑顔に断る気力を失ってサインをしてしまった結衣菜は、自分のこれからを不安に思いながら団長執務室を後にしたのだった。

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