59

「ただいま」


 ある意味で、前世でどれだけの徳を積んだんだと言われてもおかしくない出来事からようやく帰ってきた。

 家に帰ったら乃愛ちゃんにもそうだし、藍華さんや康生さんにも見せるんだって嬉しそうにしてたけど、偶然が重なったとはいえ柚希のあの笑顔を見られたのは本当に嬉しかった。


「おかえり和人」


 靴を脱いでいると、ちょうど母さんが風呂場から手を拭きながら出てきた。いつもは俺の方が早く帰ってくるから風呂の用意は俺がするんだけど、まあ今日に関しては遅くなってしまったからな。


「何かあった? 凄く嬉しそうな顔をしてるわよ」

「あはは、やっぱり分かったか」


 別にニヤついたりしているわけでもないんだけど、どうやら母さんにはそう見えたようだ。


「実はこれを撮ってもらったんだよ」


 そう言って俺は和泉さんに渡された封筒を手渡した。母さんは一体何かと首を傾げながら、ゆっくりと封を開けて中身を取り出した。そしてピシッと、まるで雷に打たれたように固まるのだった。


「実は柚希と一緒に歩いててさ、広告の写真を撮らせてくれないかって誘われたんだよ。柚希がウエディングドレスを着たがっていたのもあったし、いい経験かなと思って頷いたんだ……母さん?」


 何だろう、母さんの肩が震えてる。こっちに背中を向けているので見えないため、俺は回り込むようにして母さんの顔を覗き込んだ。すると母さんは大粒の涙を流しながら、俺を見つめて一言。


「和人……いいお嫁さんをもらったわね本当に。あぁ柚希ちゃん可愛いわ」

「気が早いよ母さん」


 ぺしっと肩を一発叩いておいた。

 それから風呂の準備が出来るまでの僅かな時間、母さんはずっとその写真を見つめて幸せそうにしていた。母親のそんな顔を見れるのは息子として嬉しいけど、やっぱり少しだけ気恥ずかしくなってしまう。


「母親としては和人が元気に過ごしているだけでも嬉しいのに……やっぱりこういった姿を見たいとも思ってしまうわね。何年後になるか分からないけど、本当の意味でこんな姿をした二人を見たいものよ」

「……そっか」

「えぇ」


 やっぱり母親としては、自分の子供のそういった晴れ舞台は見たいということなんだろう。その気持ちには本当に応えたいとも思うけど、流石に結婚はまだまだ気が早いと思うんだ。


「……本当に、本当に大きくなったわねあなたは」

「いきなりどうしたよ母さん」


 成長期だからなって笑い飛ばしてやりたいけど、母さんの俺を見る目が優しくて思わず見つめ返してしまう。手を伸ばした母さんはそのまま俺の頭を撫でるように、何度も何度も触れてきた。


「反抗期もなかったし、私には勿体ないくらい出来た息子だわ」

「……本当にどうしたよ母さん」


 背中がむず痒くなるからやめてくんないかな……まあでも、反抗期がないってのは確かにそうだった。別に母さんに不満を抱くことはなかったし、父親が居ないことで母さんに他の家庭にはない負担を掛けていたことも理解していた。だからこそ、俺のことでそこまで母さんを疲れさせたくなかったのだ。


「反抗期は……まあね。母さんって俺にほんと優しいじゃん? 別に無理なお願いをするとかそういうことはなかったけど、子供の目線に立って色々と肯定してくれたから反抗期が来なかったんじゃないかな」

「……………」


 たぶんそうだろうと思う。まあ怒られるようなことをしなかったのもあるけど、母さんに怒鳴られたり叩かれたりってことがなかったからね。けれど、そう伝えると母さんは少し困ったように笑った。

 どうしたのかと首を傾げていると、母さんはゆっくりと話し始めた。


「そうね。私は和人を怒るようなことはしなかった。それはあなたが本当にいい子だったから。とても母親思いで、優しい子だったからかしら……でも」

「?」

「……そんな和人の優しさを鬱陶しがって、叩こうとしてしまったことが一度だけあったの。今でも忘れられないわ」


 ……少し衝撃というか、ビックリしたけど人間そういった時はあるだろう。今のを聞いても別に何も気になりはしないし、母さんに何か言いたいことが出来たわけでもない。俺は母さんの言葉を黙って聞いていた。


「あの人が亡くなって、仕事が忙しくて……たぶん疲れてたのよね。それでも家に帰れば和人が居てくれた。笑顔でね、おかえりって言ってくれるのが嬉しくて……でも、その笑顔があの時はどうしても鬱陶しくなってしまった」

「……あ」


 もしかしてと、俺は思い出したことがある。

 本当に薄い記憶だけど、まだ俺が小さい時に母さんがちょっと怖い顔をしていた時があった。けれどそれは一瞬で、すぐに笑みを浮かべて俺を優しく抱きしめてくれたことが。

 母さんは頭から頬へと手を移し、優しく撫でるようにして俺を見つめる。


「たった一人残った私の息子、そんな大切な子をストレスがあったからって叩くなんて言語道断、そう私は強く自分を律した。でもね、同時に悔しかった……今もそうだけど、小さな子供への虐待って問題になっているでしょう? それでみんなこう言うじゃない――ストレスが溜まっていたとか」

「……そうだね」

「あなたを見ているとそんな気持ちになるわけがない。この人たちがおかしいんだってずっと思ってた。でもその時に、子供に手を出してしまう気持ちを理解できてしまったことが悔しかったのよ」


 なるほどな……俺にはよく分からない気持ちだけど、母さんはあの時そんなことを思っていたのか。


「ねえ和人、あなたが覚えてるか分からないけど……あの時、私に何を言ったか覚えてるかしら」

「……流石に覚えてないけど」


 微妙に覚えているのはさっき考えたことくらいだ。母さんはクスクスと笑いながら、当時の俺の声を物真似するようにこう口にした。


「母さん、ウンコでも漏らしたの? ってあなたは言ったのよ? それ聞いて私はそんなわけないでしょってそれはもう笑ったわ」

「……覚えてないわ全然」


 でしょうねと母さんは笑いが止まらないのか少し涙が出ている。そんなにその時のことが面白かったのかな。まあでも、ある意味でそんな俺の発言も母さんの気持ちを落ち着けさせたファインプレーなのではないだろうか。


「自分のお腹を痛めて生んだ子、そんなあなたがこの家に生まれたことを嫌だと思わないように、大好きだと言えるように私はとにかくあなたを可愛がったわ。ねえ、和人はこの家に、私の子として生まれて良かった?」


 それを聞くのは卑怯だと思うけど、俺はうんと頷いた。


「そう、嬉しいわね」


 ギュッと抱きしめられた。

 こうして母さんに話を聞いた今でもそうだけど、柚希と接していて思ったことがある。俺の周りに居る女性たちはどうしてこんなに強いのだろうと。女は強い、母は強いなんて言葉を聞くことはあるけど……はは、本当らしいなこれは。


「さてと、これ以上話すと和人が恥ずかしがってダメになっちゃいそうだからこの辺にしましょうか」

「正直助かる」

「うふふ、さあて。お風呂を見てくるわね~」


 るんるんとスキップをしながら行ってしまった母さんの背を眺め、いつまで経っても母さんには頭が上がらないなと強く思った。さてと、とりあえずこの持って帰った写真をどうしようか。母さんのことだからリビングにでも飾りたいって言いそうだし……まあそれでもいいか、恥ずかしいけど。

 適当に見ていると、懐かしいアルバムが覗いているのを見つけた。少し気になって手に取って中身を見てみる。どうやらそれは俺がまだ保育園の時、そして小学校に上がる直前くらいのものだろうか。


「懐かしいな……って、覚えてないのにそう言うのも変だな」


 写真に見える俺以外の子のことは全然覚えてない、辛うじて覚えているものでも今どこに居るのかも分からない人が多い。パラパラと捲っていると、ある一枚の写真が俺の目を釘付けにした。


「……え?」


 一枚の写真、小さな俺と……その隣に黒髪の男の子……いや、これは女の子かな。泣いている俺の手を握ってカメラに向かってニカっと白い歯を見せている女の子……ちょっと待て、これってまさか。

 小さな子供特有の汚い文字で、その写真にはこう書かれていた。


「……ゆーちゃん」


 本当にこの写真には覚えがない、でもこのゆーちゃんと書かれた女の子は……以前に俺が洋介に見せてもらった過去のアルバム、それで見た昔の柚希に限りなく似ているのだった。

 

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